夫のシャツを広げ、良子(36)はアイロンを滑らせる。シャツの色は春を感じさせるさわやかなブルー。久しぶりに代休を取った。暖かみを増した陽光が差し込む窓越しに、時折、車道のざわめきが聞こえるだけの静かな平日の昼下がり。
「三年前まで、こんな平穏な気分でお昼を過ごすのが当たり前だったのに(笑)。案外、ぜいたくな時間だったのかもしれないな」
十六日、一人息子の孝(14)が受けた高校入試の合格発表があった。春から、福岡市中央区のこのマンションから高校に通う。孝の高校進学が決まったら離婚する―。夫の敬介(37)と話し合って決めたことだ。
両親の冷ややかな関係については、孝もうすうす気づいているはずだ。しかし、離婚となればショックを受けるだろう。孝の養育は、収入が安定している敬介が行うことになっている。自分だけが籍を抜いて、家を出て行く。しかし、敬介と孝もいずれ引っ越すかもしれない。好奇心に満ちたマンション住民の視線から遠ざかるために。
一枚目をハンガーにかけ、二枚目のシャツに移る。結婚生活の記憶をたどる。
「自分が変わったことが離婚の原因ってことは分かっている。でも、もし敬介も変わってくれたら…」
線路のポイントが切り替わったのは三年前。いや、服飾の手直し、リフォームの店でアルバイトを始めた六年前かもしれない。
週に三日、午前十時から夕方までのアルバイト。服飾の専門学校を出た良子にとって、自分のアイデアを多少なりとも生かせるリフォームはやりがいを感じる仕事だった。その仕事ぶりが認められ、三年前にオーナーから店を任せてもらった。
給料は倍以上に上がった。しかし、平日はほぼフルタイム。書類仕事がある月末や年度末は残業が増えた。可能な限り主婦業と両立させたが、少しずつほころんでいった。ある日、敬介がアルバイトに戻るよう求めてきた。「あなたも少しは家事を分担してほしい」と言うと、「おれの給料なら、アルバイト程度で十分のはず」と敬介。その後、何度も話し合ったが、「家に主婦がいてほしい」夫との距離は広がっていった。半年前、店の拡張計画が浮上した。迷った末に離婚を決めた。
「敬介を嫌いになったわけじゃない。孝と離れるのは、すごくつらい。心にぽっかり穴が開いたみたいだよ。でも、年齢や生きがいを考えると、ここでこの道を選択したことはきっと間違いじゃない」
アイロンがけを終え、良子は窓を開け放つ。吹き込んできた春の風に、かすかに梅の花の香りがまじる。アパートに引っ越した後の生活を考えると、胸に不安が広がってくる。しかし、その緊張感が今は心地よい。 =文中仮名(直)