バブルに咲いた「マリア」伝説とは 福岡の最新クラブ事情とディープな歴史【後編】

大きな吹き抜けがあり、当時最先端の音響や照明設備などが備わった「マリアクラブ」のメーンフロア(1991年)
大きな吹き抜けがあり、当時最先端の音響や照明設備などが備わった「マリアクラブ」のメーンフロア(1991年)
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親不孝通りの路地にあったマリアクラブ。系列のディスコや飲食店も並び、路地は「マリアストリート」と呼ばれた(1991年)
親不孝通りの路地にあったマリアクラブ。系列のディスコや飲食店も並び、路地は「マリアストリート」と呼ばれた(1991年)
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「マリアストリート」の今。マリアクラブ跡地(右)には高層マンションがそびえ、かつての面影はない
「マリアストリート」の今。マリアクラブ跡地(右)には高層マンションがそびえ、かつての面影はない
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かつて親不孝通りが歓楽街と化したのを受け、福岡県警が1993年に新設した舞鶴交番。マリアクラブの名残といえる?
かつて親不孝通りが歓楽街と化したのを受け、福岡県警が1993年に新設した舞鶴交番。マリアクラブの名残といえる?
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福岡の最新クラブ事情・前編はこちら

■ワンレン・ボディコンが殺到

 若者の街、福岡でダンスシーンの先駆けとなったのは、バブル期真っただ中の1986年、福岡市中央区の「親不孝通り」にオープンしたディスコ「マリアクラブ」だった。まさに「ワンレン・ボディコン」などバブリーネタで人気があるお笑い芸人、平野ノラが表現する時代の象徴だったが、その繁栄ぶりを知る世代は、40代以降だろう。

 延べ床面積は、当時国内最大規模の2200平方メートル。地上5階建ての1、2階にダンスフロアがあり、5階まで吹き抜けになった2階には最先端の照明装置やスピーカーシステムなどを備えた大箱だった。空前のディスコブームだったその頃は、週末になると県内外から詰め掛けた若者らで満員になり、九州屈指の超人気スポットとしてにぎわった。長崎から特急かもめで福岡へ遊びに来る「かもめ族」という言葉が生まれたのも、この頃。90年代に入ってブームが下火になり、2001年に閉店するまで数々の伝説を残した。

 日本のディスコシーンは、火付け役となったジョン・トラボルタ主演の青春映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)の公開以降、盛衰を繰り返してきた。マリアクラブは第三次ブームに乗って登場し、周辺には全国の人気ディスコ「マハラジャ」「ラジオシティ」などが相次いで進出。マリアクラブは、東京系を迎え撃つ格好で界隈に次々と姉妹店を増やし、店の前の路地は「マリアストリート」と呼ばれた。80年代後半、界隈には大小20軒前後のディスコが乱立し、全国でも類を見ないディスコ激戦区になった。

 マリアクラブを手掛けたのは、中洲でのキャバレーチェーン展開で成功を収めた地場企業。女性の社会進出を後押しする85年の男女雇用機会均等法の改正(86年施行)を受け、「夜の歓楽街にも女性が進出する」とにらんでいたという。そこで、客層が男性中心のキャバレーとは異なる20〜40代の男女をターゲットに。狙い通り、コム・デ・ギャルソンなど当時流行したDC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランドに身を包んだサラリーマンや、体の線を強調したミニのワンピースやタイトスカート姿のボディコンOLらが殺到した。

 「ターゲット層は流行に敏感な世代。旬の有名人や当時のトレンドを生かしたイベントを次々に仕掛け、全国で話題になった」。成功の要因をマリアクラブの元ゼネラルマネジャー柴田昭義さん(57)は振り返る。

 オープニングを飾ったのは、音楽プロデューサー小室哲哉が率いるユニット「TM NETWORK」のライブ。人気絶頂のTMNによるパフォーマンスにフロアは熱狂した。小室自身、店をいたく気に入り、「Maria Club(百億の夜とクレオパトラの孤独)」という名の楽曲も制作。87年発表の4枚目アルバム「Self Control」に収録された。

 昨年亡くなった米国の大物ミュージシャン、プリンスもボディーガード同伴で来店した。逆に、「爆風スランプ」のサンプラザ中野くん、プロ野球選手だった清原和博の入店を断ったという。柴田さんは「ドレスコードが厳しく、スキンヘッドもNGだった。きっとスタッフが気付かなかったのでは」と苦笑する。

■「親不孝通り」の盛衰にも影響

 マリアクラブの隆盛ぶりは、街にも影響を与えた。通りに「親不孝通り」の愛称が付いたのは70年代。もともと「天神万町(よろずまち)通り」と呼ばれていたが、界隈に2校あった予備校に通う浪人生が街にあふれ、予備校生ら若者目当ての店が軒を連ねていたことに由来する。

 にぎわいの絶頂期、マリアクラブの運営会社は、ディスコ姉妹店とレストラン、バー、カラオケパブなど計17店を営業。近隣には同じ深夜型飲食店の出店も相次いだ。親不孝通りで生まれ育った九州経済調査協会研究員の清水隆哉さん(39)は「全部で600〜700店はあった」と推計。マリアストリートについては「年間120万人が往来したと聞く」そうだ。

 柴田さんによると、常連客の多くは夕方に居酒屋で食事し、カラオケパブ、ディスコ、バー…とはしごして、6次会まで続く宴会も珍しくなかったという。店のドレスコードに備えるため、天神のファッションビルでDCブランドのスーツやスカート、アクセサリーを買い漁る人も絶えなかったらしい。経済効果は絶大だった。

 ただ、マイナス面もあった。地元喫茶店の店主は「通りは日中から若者でごった返し、人波を通り抜けるだけでどっと疲れた。日が沈むとナンパ目的の外車や改造車が出没し、夜が明けたら通りにごみが散乱。通りは徐々に風紀が乱れた」と振り返る。そうした声が相次いだのを受け、93年には福岡県警が通りの一角に舞鶴交番を新設したほどだ。

 90年代後半、予備校が相次ぎ閉校したことを受け、地元は2000年、イメージアップを狙って愛称を「親富孝(おやふこう)通り」に改名した。それでもにぎわいは薄れ、周辺で営業中の店舗は200程度に減少。今年2月、活気を取り戻そうと、17年ぶりに「親不孝通り」の愛称を復活させた。

 マリア通いに明け暮れたという地元喫茶店の女性店員(44)は「しつこいナンパや、セカンドバッグを抱え“その筋の人”に見えたスーツ族は苦手だったけど、エネルギッシュな時代を経験できたのは幸せかも。街や時代を元気にする空間はどこかに必要。『美獣』は面白そうだし、私ものぞいてみなきゃ」と話してくれた。

 女性たちを魅了し、バブルに咲いた「マリア」。その存在を思い起こさせる中洲の大型ダンスクラブ・美獣は、福岡を盛り上げる装置となるのか。今後もダンスフロアに足を運び、営みを見守ることにしよう。

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