キャバレー編<133>再現 バンドマンを訪ねて

「キャバレーを再現したい」と話す藤村
「キャバレーを再現したい」と話す藤村
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 「劇団四季」「宝塚」などの舞台監督だった演劇人の藤村信一(59)が福岡県太宰府市五条にジャズ喫茶「ドルフィーズ」を開いたのが50歳のときだった。東京の生活を清算して親の介護のために帰郷した。その藤村がキャバレーについて調べ始めたのは開店してまもなくだった。店のライブで出演した福岡市内の最高齢ベーシストの川上俊彦の話を聞いたからだ。

 「キャバレーの生き字引みたいな人で、話が面白かった」

 川上の昔のキャバレー仲間を訪ねた。どのようなキャバレーがあり、どんなバンドマンがいたのか。今、その作業は中断しているが、手元には「キャバレー黙示録取材情報」として「キャバレー名」とバンドマンの名前が「ベース」「ドラム」「ピアノ」「ボーカル」「サックス」「トロンボーン」など楽器別に記されている。

 18歳で上京し、唐十郎の赤テント演劇を見た。

 「唐さんの演劇はセリフが素晴らしかった」

 ある劇団に所属し、演劇人を目指した。アルバイトが東京都・新宿の「ムーランドール」のボーイだった。まだ、百円ライターはなかった。客のマッチが注文の合図だった。

 「ひざまずいて、フルーツの盛り合わせなどの注文を受けましたね」

 接客の女性だけで100人。ビッグバンドの演奏に、合間にはコントや漫才や手品もあった。

 「初めて手品でハトが出てくるのを生で見ました」

 アルバイトは2カ月だけだったが、キャバレーが持つ一大エンターテインメント性を体感した。

    ×   ×

 藤村がキャバレーに反応したのは若い時代のアルバイト経験があったことはいうまでもない。元舞台監督として、その空間が壮大な舞台として目に映ったはずだ。演劇人としての習性ともいえる。特に高校時代からジャズ好きだった藤村にとって十数人のビッグバンドのステージは魅力だった。

 「ビッグバンドで基礎を学んだジャズメンの力はすごいですよ」

 藤村のメモには「上海」「チャイナタウン」「月世界」など中洲、天神周辺のキャバレー、クラブなど20の名前が記されている。一つの店に十数人のバンドマン、そして小さな店には小編成のバンドマンもいた。

 「一時期、中洲には500人以上のバンドマンが生活していたことになります。こうしたキャバレー、バンドマンが歓楽街、中洲の基礎を作ったのではないですか」

 キャバレーは福岡の風俗史、昭和史、戦後史である。

 藤村は演劇人としてキャバレーを再現する舞台を考えている。まだ、脚本書きにはとりかかっていないが、取材を再開する予定だ。ビッグバンドに、歌、ダンス。そのミュージカルのタイトルは「キャバレー黙示録」になるのだろう。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/10/16付 西日本新聞夕刊=

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