ホークスファンタブレット

キャバレー編<146>ライブ 身体性の回復に向けて

連日、多彩な演出が繰り広げられていたキャバレーミナミ=1980年代、原正己さん提供
連日、多彩な演出が繰り広げられていたキャバレーミナミ=1980年代、原正己さん提供
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 キャバレーを同時代に経験した人は主に団塊の世代以降であろう。私自身は1995年に閉じた福岡市最後のキャバレー「ミナミ」に一回だけ、行ったことがある。その記憶も鮮明ではない。キャバレーとは何だったのか。記録することと同時にそれを考える取材でもあった。

 キャバレーは戦後復興から経済成長に歩調を合わせ、1960、70年代に花開いた大人の娯楽空間だった。

 戦時中、音楽やダンスも統制され、禁欲的な生活を強いられた庶民にとって、キャバレーの出現はある意味、戦後解放の風俗だった。

 高度経済成長は大きなもの、華やかなものを求め、毎夜、500人の男女が音楽とダンスを楽しんだ空間はまさに経済成長のシンボルでもあり、徒花(あだばな)だったともいえるかもしれない。「あんなぜいたくで華やかな世界はなかった」とキャバレー関係者は一様に回顧する。「失われた20年」後の今の時代から振り返ればなおさら光り輝く殿堂だったにちがいない。

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 福岡の都市論から言えば、九州一の歓楽街「中洲」の下地をつくったのがキャバレーである。焼け跡に突然、出現したきらびやかな世界。「大きな建物はキャバレーやダンスホールしかなかった」という。そこを核に歓楽街、盛り場の顔を徐々に整えていった。最盛期には中洲とその周辺には「赤い靴」「月世界」「上海」など20軒近いキャバレーがあり、不夜城をつくりだした。

 音楽史としてもキャバレーは重要だ。キャバレーはそれぞれにビッグバンドを抱え、一説には最大で500人のバンドマンが腕を競い合い、「いくらでも仕事はあった」という。そこで楽器、楽譜を覚えていった。福岡戦後音楽史は1970年代のフォーク系のライブハウス「照和」がクローズアップされるが、音楽都市・福岡の基層にあるのはキャバレーのバンドマンだ。「照和」をアマチュアの聖地とするなら、キャバレーはプロの聖地だった。

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 キャバレーは都市の風俗であり、それだけに写真の資料なども乏しく、また、証言者も消えていっている。そうした中で、キャバレー世代は「規模が小さくてもいまあれば…」という人も少なくない。それは単に懐古趣味だけの文脈ではない。キャバレーは「生(なま)」の、ライブの世界だった。ビッグバンドの生演奏に、生身の体によるダンス。いわば、直接的なコミュニケーションの場だった。

 今の時代はパソコンや携帯などによる間接的なコミュニケーション社会だ。21世紀は「身体性の喪失の時代」といわれる。キャバレーを単なる風俗としてのくくりではなく、生き生きとした身体論からのアプローチこそ現代的な意味を含んでいるのではないだろうか。

 (田代俊一郎)

 ※キャバレー編は今回で終了。次回から昭和流行歌編を始めます。

=2013/02/05付 西日本新聞夕刊=

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