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民謡編<323>ゴッタンの世界(6)

ゴッタンを弾く荒武タミ(1980年ごろ)
ゴッタンを弾く荒武タミ(1980年ごろ)
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 「2歳のときに家が焼けた。4歳のとき、桜島の噴火があった」

 鹿児島県・大隅半島の山あいの村で、明治末に生まれたゴッタン奏者の荒武タミは、ラジオ番組の中で幼年期の記憶をこのように語っている。

 火事以上の出来事がタミ自身を襲ったのは5歳のときだ。はしかにかかり、高熱が続いた。手探りで動くタミに両親が気づき、ようやく医者に連れていった。

 「医者のとこまで山を行ったり、野原を行ったり…5里(20キロ)くらい。遠かうえに、私が医者にいくのを怖がったりしたので手遅れになった。医者は『3日早く来れば』と。母が泣いていたことを覚えています」

 左目は見えず、右目は極度の弱視だった。失明を境に母のクサはタミの最初の師匠となる。

 「歌でも教えとかな、食っていかなと思って、母は一生懸命だった。三味線は教えてくれなかった。歌を教えてもらった」

   ×    ×

 クサは三味線や歌が上手だった。当時、三味線やゴッタンや歌を習うことは料理や裁縫と同じく、習い事の一つだった。クサもその風習を引き継いでいた。ただ、クサがタミに教え込もうとしたのは単なるお稽古事ではない。目の不自由な者がその後を食っていくための、職業としての師匠、芸能者への独り立ちを考えてのことだろう。

 タミは5歳までクサから「歌を習ったことはない」と語っている。もちろん、生まれたときからいつもBGMとしてクサの三味線やゴッタン、そして歌は聴いていた。

 タミの弟子だった民俗芸能研究家の鳥集(とりだまり)忠男は「歌が先、サンセンな、そのツレ(伴奏)」とタミの口癖を記している。伴奏よりもまず、歌ありき。クサもそのことを理解していたのだろう。実際、タミが三味線をプロに習うのは13歳になってからだ。

 クサは親としてタミの失明の責任を強く感じていた。さらにタミが7歳のときに父親が死去し、わが子の行く末を一人で背負わなくてはいけなかった。それだけに、タミへの教えは必死で、切実なものがあったはずだ。

 目が不自由になったタミにとって視覚=文字でなく、聴覚=声が命になった。口伝による記憶である。作家の五木寛之は自著「隠れ念仏と隠し念仏」の中で次のように書いている。

 「〈記憶〉というものは、その当事者の恐怖、怒り、絶望、錯乱などありとあらゆる感覚を丸ごと抱え込んでいる…人の口から肉体へと受け継がれ、ひそかに生きつづける」

 母子相伝。クサの喜怒哀楽のこもった歌はまさに念仏のようにタミの幼い肉体に宿り、記憶されていく。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/02/20付 西日本新聞夕刊=

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