ホークスファンタブレット

民謡編<324>ゴッタンの世界(7)

荒武タミは教材として紙芝居にも(鹿児島高専の地域講座で)
荒武タミは教材として紙芝居にも(鹿児島高専の地域講座で)
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 ゴッタン奏者の荒武タミは5歳で失明した。母のクサはタミが生きていく技として歌を教え込んだ。炉辺だけでなく、山にタキ木拾いに行くときも一緒で、母子の青空教室になった。タミは「一つ覚えると、また次の歌を」と一つずつ記憶していった。口伝の一つに子守唄(うた)があった。NHKのラジオ番組(1982年)の中で、タミは伴奏なしで歌っている。

 〈ねんねこ ねんねこ…母はどこ行たか 鈴山へ行たがみやげは何持っきたか 駄馬(だだ)ん子1匹牛(べぷ)ん子1匹…〉

 これは鹿児島県下に広く浸透していた「南薩地方の子守唄」である。クサから娘タミへの子守唄でもあったが、そのタミが背におぶった赤ん坊に歌って聴かせるのは大正時代後期の、わずか10歳を過ぎたころだ。タミは口減らしのために子守奉公に出された。当時、子守奉公は貧しい山村にあっては普通の光景だった。

 「子守だけでなく、棚を拭いたり、掃除をしたり…。何でもしました。おやつもなく、子どもは泣く。私も泣いた。子守唄も歌ってあげました」

   ×    ×

 タミは一番怖かったのは「マムシ」と語っている。視覚障害者にとってマムシは恐怖の対象だった。子守の合間に野山にタキ木取りに出ることも多かった。タキ木になるのは枯れ木である。生葉の付いた木と枯れた木の選別は葉の音だった。

 「生の葉のワサワサ、枯れ葉の音はカランカラン…」

 この話一つをとっても、すべて耳が頼りだったことがわかる。タミと交流のあったゴッタン制作者の平原利秋(80)は「タミさんは人の足音でだれが家に来るのかわかった」と回想する。

 タミにとって子守の仕事はつらかった。何度か母に「ムカエニキテクダサイ」とカタカナで手紙を出した。家に戻って手を切りながらカヤで編むダツ(炭俵)作りなどもしたが、再び、給金がもらえる子守奉公に出るしかなかった。子守の仕事は「(通算で)5年間した」と語っている。

 歌の師でもあった母もタミが16歳のときに病気が悪化した。子守先から母の好きな黒砂糖を持って枕元に座ったが、黒砂糖をなめる力もなく、死去した。タミは母の遺言ともいえる言葉を語っている。

 「正直が宝。悪いことをしてはいけない」

 残したものはこの人生訓だけでない。財産はタミが記憶した数々の母の歌だった。それと、母が日雇いをしながらプロに習わせた三味線だった。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/02/27付 西日本新聞夕刊=

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