民謡編<326>ゴッタンの世界(9)

荒武タミの持っていたゴッタンの一部(荒武行雄所蔵)
荒武タミの持っていたゴッタンの一部(荒武行雄所蔵)
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 母の死後、子守奉公などで生活していた荒武タミが門付けを始めるのは昭和の時代に入ってまもなくの18歳ごろだ。門付けは門弾きともいい、家々を回って三味線、ゴッタンを伴奏にして歌う、一種の放浪芸である。

 母は生前、門付けを勧めていた。ただ、タミは「ごぜ(瞽女)どんといわれ、恥ずかしい」と断っていた。最後の弟子世代にあたる鹿児島市の会社員、橋口晃一(58)は門付けの話になるとタミは「口、声が震えていた」と回想する。その心情について橋口は思う。

 「みじめで、虚(むな)しさと哀(かな)しみが混ざったような気持ちを感じておられたのではないでしょうか」

 当時のごぜの社会的位置をうかがうことができる。ただ、鹿児島では近世以来、視覚障害者の職業としてのごぜの存在は広く認められ、庶民は娯楽として門弾き芸を楽しみにしていたことも事実だ。

   ×    ×

 「北の長岡(新潟県)ごぜ、南の薩摩ごぜ」との言い方がある。水上勉原作で映画化された「はなれ瞽女おりん」や画家、斎藤真一のごぜシリーズの絵画世界はいずれも北の風景であり、研究書なども刊行されている。その一方で、薩摩ごぜについての専門的な研究書はほとんどない。

 鹿児島の中では知覧(現南九州市)という土地の名前を冠した「知覧ごぜ」という言葉がある。なぜ、「知覧ごぜ」と呼ばれるのか。郷土館「ミュージアム知覧」は「はっきりしたことはわかりません」と言う。

 元鹿児島大学教授(民俗学)の下野敏見(87)はフィールドワークの知見から「知覧にはごぜが多く、毎年、集まる場所もあった」と言う。なぜ、集まったかについては「先祖のごぜの供養や師匠へのあいさつうかがいなどではないでしょうか」と推論する。

 北のごぜをテーマにした「瞽女うた」(ジェラルド・グローマー著、岩波新書)では次のように記されている。

 「仲間組織を通して…芸能を学んだだけでなく、旅の順路、在方の宿泊施設の所在、聴衆に対する礼儀作法、手引きの斡旋(あっせん)、聴衆の俗信、弟子取りの方法など、自立と『商売』に必要な様々(さまざま)な知恵を獲得した」

 知覧は薩摩ごぜのネットワークの中心で、かつて北のごぜに似た相互扶助的な組織があったのではないだろうか。

 タミは薩摩ごぜの流れをくむ最後の芸能者、といえる。タミはそう呼ばれることを嫌っていたが、門付けの経験はタミの芸を太らせ、新しい人生を切り開くステップになった。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/03/13付 西日本新聞夕刊=

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