民謡編<342>国東の琵琶法師(1)

国東を取材する写真家の高橋昌嗣(1974年)
国東を取材する写真家の高橋昌嗣(1974年)
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 漂泊の俳人、種田山頭火が大分県の国東半島を旅したのは1930年(昭和5年)である。

 〈日暮れて耕す人の影濃し〉

 寺院に投宿しながらいくつかの句を残している。それから43年後の73年に山頭火が見た国東の風景をカメラで切り取ったのは当時、写真家の卵だった東京都の高橋昌嗣(70)である。高橋は同年から翌年にかけて数回、国東を訪ねている。

 高橋は90年に、国東に生きる人々をフォーカスした初の写真集「人物うつし絵」(スタジオマックス刊)を刊行している。高橋がなぜ、国東半島に引かれたのか。その答えは雑誌「話の特集」の75年7月号に寄稿した文と写真を見ればすぐにわかる。そのタイトルは「もうひとりの琵琶法師」である。

   ×    ×

 高橋は3年前に長崎県の海底炭坑の島、端島(軍艦島)の写真集「軍艦島30号棟 夢幻泡影」(大和書房刊)を出版している。25歳のとき、軍艦島の作業員として「30号棟」に住みながら記録したものだ。閉山の2年前だ。

 「そのときは記録として残そうといった強い思いはなかった」

 友人と長崎に遊びに行き、お金も底をついていた。偶然、作業員募集の張り紙を見た。

 「仕事はダイナマイトなどをトロッコに乗せたり、島に着いた船の荷下ろし作業でした」

 作業後の夜や休みの日にはカメラのシャッターを切った。軍艦島生活3カ月。手元に残ったのは少しのお金と撮影済みのフィルム約40本だった。

 東京に帰る途中に寄ったが国東半島だった。芸能研究者でもあった俳優の小沢昭一(故人)が国東の琵琶法師を放浪芸の一つとして少し紹介していたことが頭に残っている。高橋は「話の特集」の中で次のように書いている。

 「昼下がりの陽盛りに、一人の僧が、小振(ぶ)りの琵琶を背に歩きまわる姿を見掛ける。琵琶法師である」

 当時、国東半島の琵琶法師は中野清信と高木清玄の2人だけだった。小沢は写真家の本橋誠一と組んで高木を取材していた。高橋は「もうひとりの」中野に焦点をあてている。もちろん、高木にも会っている。

 現在、国東に琵琶法師はいない。九州でも姿を消した。高橋の写真は軍艦島、そして琵琶法師も今では貴重な記録になっている。

 国東の琵琶法師として最後に残った高木は96年、65歳で死去した。盲(もう)僧琵琶の伝承者だった高木の濃き影を求めて仏の里、国東へ入った。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/07/10付 西日本新聞夕刊=

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