フォーク編<352>大塚博堂(4)

高校時代の大塚博堂(右)と松田しょうじ(体育祭で)
高校時代の大塚博堂(右)と松田しょうじ(体育祭で)
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 ジャズピアニストの松田しょうじ(72)が長崎市でピアノバー「ロンパリ」を開いたのは大塚博堂が死去した1981年のことだ。

 「店で歌ってくれることを約束していたのに…」

 松田がこう語るように、開店は博堂の死から約半年過ぎた、その年の12月だ。「誰かが語っていかないと博堂は本当に死んでしまう」。松田は命日に合わせて毎年5月、店などで博堂をしのぶ会を今でも続けている。

 松田は大分県立別府緑丘高校(現・県立芸術緑丘高校)の音楽科で博堂と同級生だった。クラス35人のうち博堂、松田含め男子生徒はわずか4人しかいなかった。松田は器楽、博堂は声楽コース。入試には歌のほかにピアノの実技があった。

 博堂の実姉、永井洋子は「一夜漬けでピアノを習った」と回想する。博堂の才能を示すエピソードだが、松田は「博堂は声楽なので、ピアノの入試基準はそれほど厳しくなかった」とも話した。言い換えれば歌のうまさで合格したともいえる。

   ×    ×

 高校での音楽の授業の基礎はクラシックだった。譜面の読み書きは、後の作曲活動に役立ったには違いない。松田が覚えているのは謝恩会で、博堂が男子4人でハワイアンバンドを組み、「ワイキキ」などを歌ったことだ。博堂はボーカルとスチールギターを担当した。

 松田は高校時代の博堂について「無口でおとなしく、目立たない存在でしたね」と言う。ここでも恥ずかしがり屋-「カベカルイ(壁背負い)」だったようだ。おとなしさは性格に帰するものだけではなくクラシックにいまひとつ、なじめなかったこともある。

 博堂の学びの場は放課後にあった。別府市内のジャズ喫茶「田園」「G線」などに通った。家では米国のジャズシンガー、ジョニー・ハートマンのレコードを聴き込んだ。ジャズ喫茶に顔を出すうちに、そこで歌うようになった。ハートマンの得意曲の「マイ・ファニー・バレンタイン」や日本のジャズシンガー、旗照夫の「あいつ」…。松田はジャズ喫茶でこのような曲を歌っている博堂の姿を直に見たことがある。

 「サマになっていました。高校時代、博堂はあまり自分のことを語ろうとしませんでしたが、ジャズシンガーになりたいと言っていました。私たちと違って、その道でプロになろうとの内なる情熱を感じていました」

 若き博堂が目指したのはジャズシンガーだった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/10/02付 西日本新聞夕刊=

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