フォーク編<361>大塚博堂(13)

博堂は約5年間、中洲界隈のクラブで歌った(写真は1970年代)
博堂は約5年間、中洲界隈のクラブで歌った(写真は1970年代)
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 大塚博堂が博多でクラブ歌手として下積み時代を過ごしたのは1967年から72年までの約5年間である。年齢で言えば23歳から28歳になる。クラブ「絹」「長島」をはじめ、高橋真梨子と対バンだった「88」などで歌っていた。当時、評判の歌唱力だった高橋は博堂を「歌がうまかった」と評価する。後に人気シンガーになる二人が同時期に博多の夜を飾っていた。

 福岡市の山中サトシ(70)は「長島」でジャズコンボのギター、フルートを担当していた。バックで演奏していた縁で、博堂が東京でデビューした後、ツアーバンドの一員として声がかかるジャズ仲間だった。

 「博多時代、ジャズのバンドマンたちは『コマーシャルはやらない』とよく話をしていました」

 山中の言うコマーシャルというのはCMのことではなく、演歌などジャズ以外の音楽のことだ。コマーシャル=商業主義、との考えがあった。それだけ、ジャズという音楽に純粋性やプライドを持っていたのだろう。

   ×    ×

 博堂はジャズシンガーを目指していた。一方では「ジャズだけでは食えない」との現実も知ったはずだ。実際に、フォーク系ともいえる「過ぎ去りし想い出は」などの曲も作っている。おいの大塚義則(65)は言う。

 「博堂は俺には歌しかない。それ以外は何もできないと、よく語っていました」

 年齢も30歳に近づいていた。早く東京で勝負したい、と思うのも自然なことだ。「博堂伝説」(大塚博堂、藤公之介著)の中では次のように記されている。

 「チャンスがあれば一度、東京のクラブで唄いたいと思っていたところへスカウトの声がかかったのです。それが私にとって時期的に言っても渡りに舟だったのです」

 スカウトとは渡辺プロダクション九州支社からの誘いだった。義則は語る。

 「歌のうまさは博多でも評判になっていました。いくつか東京からスカウトの話はあったが、なかなか本人がOKをしなかった。最後に話がきたのが渡辺プロで、信用できると思ってそこを選んだのでしょう」

 東京の大学を中退して大分県別府市へ帰郷。そして博多へ。回り道をしながらようやく、博堂は東京、つまり、歌手への切符を手にした。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/12/11付 西日本新聞夕刊=

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