フォーク編<363>大塚博堂(15)

大塚たけし時代のシングル盤
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 大塚博堂は大塚たけしの芸名で、渡辺プロダクションの仕事のない夜は、東京・青山のクラブ「バルセロナ」のステージに立っていた。

 「博堂が真剣に自分の生き方を考えたのはその頃であった。迷いの中で、2年間が無為に過ぎて行った。時の流れは、実に冷酷であった。焦りを感じなかったと言えば嘘になる」

 「博堂伝説」(大塚博堂、藤公之介著)にはこのように記されている。自分の音楽スタイルをどうするのか。模索していた。同書では「そんなある日、ギターの弾きがたりをやってみないか、と友人から持ちかけられた」と書かれている。どのような曲を主に弾き語ったのかについてはまったく触れていない。

 「バルセロナ」の支配人だった佐川四郎(70)=福島県いわき市=は「井上陽水の曲でした」と証言する。

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 福岡県・筑豊出身のシンガー・ソングライター、井上陽水がファーストアルバム「断絶」とセカンドアルバム「陽水2 センチメンタル」を発売するのは1972年である。大塚が上京した年だ。

 楽器などを運ぶバンド係が「こういう評判になっているレコードがあります」と博堂に渡した。それが陽水のアルバムだった。「人生が二度あれば」「傘がない」「東に西へ」「紙飛行機」…。佐川は次のように語る。

 「陽水さんの曲を自分なりにアレンジにして歌っていました。高音も低音もよく出て、それを聴くためにクラブはいつも満員でした。青山という土地柄もあって耳の肥えた客も多く、その人たちから圧倒的に支持された」

 陽水は博多時代、アンドレ・カンドレと名乗って活動していた。大塚の博多時代と一時期、重なるがまったく接点はなかった。しかし、巡り巡って陽水のレコードを通して、出会うことになった。

 大塚は陽水の曲を歌うことで、何を見つけたのか。佐川は「陽水さんの曲に刺激を受けたのだと思います」と言う。同書では「彼担当のマネージャーは、その時、何かビリビリと感じるものがあった」と表現している。とりわけ、強く「ビリビリ」と感じたのは大塚自身であった。

 たけし時代に発売した2枚のシングルレコード(EP)は流行歌系で、大塚が作詞、作曲したものではなかった。

 大塚は陽水=フォークと出合った。言い換えればシンガー・ソングライターへの道だった。

 (田代俊一郎)


=2017/12/25付 西日本新聞夕刊=

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