フォーク編<366>大塚博堂(18)

ツアーでの大塚博堂
ツアーでの大塚博堂
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 大塚博堂は1976年、アルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で、シンガー・ソングライターとして歩み始めた。同年の横浜音楽祭ではこの曲で最優秀新人賞を受賞するが、すぐに売れたわけではなかった。

 アルバム発売をきっかけにコンサートツアーで全国を回った。地方巡業だ。77年のツアーは「勤労者音楽協議会」(労音)主催で50回を数える。ギターの岩村義道(69)=富山県射水市=との二人旅だった。岩村は語る。

 「マネジャーが同行しないことも多かった。二人でギターケースを抱えて、列車で回るツアーでした。最初のころ、お客さんは5人、10人といったものでした」

 気落ちした博堂の姿を想像するが、実際には後向きではなかった。岩村は当時の博堂の言葉を今でも胸に刻んでいる。

 「岩ちゃん、5人でもいいんだよ。そのうちの1人がまた、コンサートを聴きにきてくれればいい。それを大事にしたいんだ」

   ×   ×

 お客の人数は別にして、博堂は自作の曲を歌うことになによりも歓(よろこ)びを感じていた。

 大塚のステージスタイルについて、親友だった佐川四郎(70)=福島県いわき市=は「ムスタキの影響を感じた」と話す。ジョルジュ・ムスタキはフランスのシンガー・ソングライターだ。76年には日本ツアーを行った。

 「博堂さんと一緒に観(み)に行きましたし、レコードもよく聴いていました」

 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」にはムスタキの曲「ある日恋の終わりが」が、敬愛を込めて博堂の訳で収録されている。

 〈いつかこの恋は終わる時が来る 愛し合うのはこのひとときよ ひと夏の恋人に想(おも)いを残して もう冬が来る 忘れたいのに〉

 お客に訴えるように、ささやくように、ゆっくりと歌いかける。過剰な演出やトーク、衣装はない。エンディングも何も言わずに去っていく。シンプルなステージだ。

 こうした地道なコンサート活動によって、博堂は徐々に女性ファンを中心に全国に支持を広げていく。

 所属していた渡辺プロダクション(ナベプロ)の社長、渡辺晋は博堂に「これからの音楽は自作の曲を歌う時代だ」と声をかけた。ナベプロ内でも「フォーク時代」を背景に、ようやく博堂の存在が輝き始める。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2018/01/29付 西日本新聞夕刊=

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