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【きょうのテーマ】頓田の森の悲劇 体験談を聞く 奪われた命 忘れない

「武力では何も解決しない」と「頓田の森」で語る窪山強一さん(中央)
「武力では何も解決しない」と「頓田の森」で語る窪山強一さん(中央)
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大刀洗平和記念館の「追憶の部屋」には、「頓田の森」で命を落とした子どもたちの遺影が並んでいる
大刀洗平和記念館の「追憶の部屋」には、「頓田の森」で命を落とした子どもたちの遺影が並んでいる
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爆撃と台風で枯れたシイの切り株(手前)に寄り添うように立つナノミの木
爆撃と台風で枯れたシイの切り株(手前)に寄り添うように立つナノミの木
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 ●1945年3月27日 福岡県朝倉市 森に逃げ込んだ児童31人が爆撃で犠牲に

 「頓田(とんた)の森の悲劇(ひげき)」を知っていますか? 太平洋戦争末期の1945年3月27日、旧陸軍(きゅうりくぐん)大刀洗(たちあらい)飛行場(福岡(ふくおか)県朝倉(あさくら)市など)を米軍の爆撃機(ばくげきき)B29が狙(ねら)った大刀洗空襲(くうしゅう)で、旧立石(たていし)国民学校(現在(げんざい)の朝倉市立立石小学校)の児童31人が一度に爆死(ばくし)した事件(じけん)です。この日、森に逃(に)げ込(こ)んで爆撃に遭(あ)い、姉を亡(な)くし、自らも生死の境(さかい)をさまよった窪山強一(くぼやまきょういち)さん(80)=同市=をこども記者4人が取材。同じ年頃(としごろ)の子どもたちの命が戦争でどう奪(うば)われたのかを聞きました。

【紙面PDF】きょうのテーマ 頓田の森の悲劇 体験談を聞く 奪われた命 忘れない

 ●生き残った窪山強一さんは語る

 ■それは修了式の日

 「悲劇(ひげき)」が起こったのは修了式(しゅうりょうしき)の日だった。当時、窪山(くぼやま)さんは2年生で、5年生だった姉の千恵子(ちえこ)さんと一(ひと)ツ木(ぎ)地区から学校に通っていた。「姉は勝ち気でけんかもしたが、よく遊んでくれた」と振(ふ)り返(かえ)る。

 午前中に講堂(こうどう)で校長の話を聞いているときに敵機(てっき)の接近(せっきん)を告げる警戒警報(けいかいけいほう)のサイレンが鳴った。「サイレンが鳴ると集団(しゅうだん)下校になり、早く帰れるのでうれしかった。これまで警報が出ても何事もなかったから」。しかしすぐに空襲(くうしゅう)警報に切(き)り替(か)わり、校内に緊張(きんちょう)が走った。集落ごとに引率(いんそつ)の先生が付き、窪山さんたちは家を目指して走りだした。

 「空を見上げるとキラキラ光る物が見えた。飛行場から飛び立った日本機かと思ったら星のマークが見えた。B29の編隊(へんたい)だった」。やがて飛行場に落とされた爆弾が破裂(はれつ)する、腹(はら)に響(ひび)く音がとどろいた。

 一ツ木の児童は、大刀洗(たちあらい)陸軍病院と飛行学校甘木生徒隊兵舎(へいしゃ)の間を通らないと家に帰れない。いずれも重要施設(しせつ)で爆撃(ばくげき)される可能性(かのうせい)が高い。このとき飛行学校の兵士が「ここは危(あぶ)ない。学校に戻(もど)れ」と先生に叫(さけ)んだそうだ。「進退(しんたい)を迷った先生の目に入ったのが頓田(とんた)の森だった。木で覆(おお)われていて、ここなら生徒を隠(かく)せると避難(ひなん)させたのだろう」。窪山さんが森に入ると、どこかでくじいたのか千恵子さんが足を引きずり逃(に)げてきた。「それが生きている姉を見た最後だった」

 ■父母の怒りと涙と

 木の根元に伏(ふ)せた瞬間(しゅんかん)、激(はげ)しい夕立のようなザーッという音とともに体が吹(ふ)き飛(と)ばされ気絶(きぜつ)した。「おれは死んだのか」。ようやく目が開いたが土ぼこりで前が見えず、立つこともできない。「かかとに爆弾の破片(はへん)が突(つ)き刺(さ)さっていた。爆撃で森はズタズタにされ空がきれいに見えた。木には服が引っかかり『水を』という声が聞こえた」

 急を聞いた父母らが森に駆(か)けつけた。そこには変わり果てたわが子の姿(すがた)があった。警察(けいさつ)から「遺体(いたい)を動かしてはならん」という指示(しじ)が出ていた。「おれの子は見せ物ではない」。親たちは亡(な)きがらを抱(だ)き上げ家に連れ帰った。1発の爆弾で千恵子さんら児童24人が即死(そくし)。7人が病院で息を引き取った。

 千恵子さんの遺体も家に運(はこ)び込(こ)まれた。頭が割(わ)れ片足(かたあし)がちぎれかけていた。「取(と)り乱(みだ)した母親の『早く病院に連れて行って』という涙声(なみだごえ)が今も耳に残っている」。窪山さんも足の傷(きず)がもとで高熱を発し、数日間生死の境(さかい)をさまよった。

 ●「追憶の部屋」で立ち尽くす 大刀洗平和記念館 窪山さん「平和は当たり前ではない」 こども記者「語り継ぐことこそ」強く思う

 「頓田(とんた)の森の悲劇(ひげき)」を展示(てんじ)の柱にしているのが大刀洗平和記念館(たちあらいへいわきねんかん)(福岡(ふくおか)県筑前町(ちくぜんまち))だ。館の一角「追憶(ついおく)の部屋」には、大刀洗空襲(くうしゅう)の死者と大刀洗飛行場に関(かか)わる戦死者の遺影(いえい)と名前が並(なら)んでいる。同町出身の高山絢巳(たかやまあやみ)記者は「ここに来ると胸(むね)が苦しくなる」。倉掛愛奈(くらかけまな)記者は「身近なところに戦争の傷(きず)が残っている」と感じる。一(ひと)ツ木(ぎ)の児童たちの写真を前に、川瀬光生(かわせみちお)記者は「大人が始めた戦争でどれだけの子どもの命が奪(うば)われたのか」と立(た)ち尽(つ)くした。

 遺影の列には同年4月18日、大刀洗上空で山本三男三郎(やまもとみおさぶろう)少尉(しょうい)が乗った戦闘機(せんとうき)の体当たり攻撃(こうげき)を受けて撃墜(げきつい)されたB29の搭乗員(とうじょういん)11人も並ぶ。記念館の寺原裕明(てらはらひろあき)副館長(62)は山本少尉の遺族が記念館を訪れるたびに米兵の遺影の前にも花束を供(そな)えていくというエピソードを紹介(しょうかい)し「敵(てき)にも味方にも帰りを待つ家族がいた。ここに並ぶ全員が戦争の犠牲者(ぎせいしゃ)なんです」と語った。佐々木寛太(ささきかんた)記者は「戦争をすると多くの人の命が消え、さらに多くの人が悲しむ。二度とあってはならない」と涙(なみだ)をこらえた。

 こども記者たちは息をのみ、時に涙(なみだ)をぬぐいながら窪山(くぼやま)さんの体験談に聞き入った。話を終えた窪山さんは4人の顔を見つめ、「あれから72年が過(す)ぎようとしているが、ここに来ると涙が出るね」と目を潤(うる)ませ、「戦争になれば大人も子どもも犠牲(ぎせい)になる。平和は当たり前ではない。頓田(とんた)の森で見たものを、元気のある限(かぎ)り伝えたい」と語りかけた。高山絢巳(たかやまあやみ)記者は「戦争の無い世の中にするために次の世代にこの悲劇(ひげき)を語(かた)り継(つ)ぐことが今の自分にできることだ」と強く思った。

 倉掛愛奈(くらかけまな)記者は「今も世界のあちこちで戦争をしているが、武力(ぶりょく)で何かが解決(かいけつ)されることはない」という窪山さんの言葉が心に残った。佐々木寛太(ささきかんた)記者も「戦争は人と人の心が通じないことで起こる。国は違(ちが)ってもお互(たが)いの個性(こせい)を認(みと)め合うことが平和な世界につながる」と考えた。

 窪山さんは森の中央にある1本の木の前に4人を案内した。爆撃(ばくげき)で傷(きず)つき、台風で倒(たお)れて枯(か)れたシイの木の根元から、すくすくと育ったナノミ(モチノキの一種)の木。「命の木」と呼(よ)んでいるそうだ。「平和のハトが種を落としてくれたんでしょう。新たな命を感じるね。ほら、みんなを見守っているよ」と窪山さんは笑った。その木から川瀬光生(かわせみちお)記者の心に「ここで亡(な)くなった子どもたちを忘(わす)れないで。二度と戦争を繰(く)り返(かえ)さないで」というメッセージが届(とど)いた。

 ●わキャッタ!メモ

 ▼筑前町立大刀洗平和記念館(ちくぜんちょうりつたちあらいへいわきねんかん) 福岡(ふくおか)県筑前町(ちくぜんまち)高田(たかた)。現在(げんざい)の筑前、大刀洗(たちあらい)、朝倉(あさくら)などの地域(ちいき)にまたがる広大な敷地(しきち)に1919年に完成した旧陸軍(きゅうりくぐん)の「大刀洗飛行場」の歴史を紹介(しょうかい)。2009年に開館し「零戦(ぜろせん)」や「九七式戦闘機(せんとうき)」の実機や特攻(とっこう)に関する多彩(たさい)な資料(しりょう)を通じて平和の大切さを発信している。入場料は大人500円、小中学生300円など。電話=0946(23)1227。

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=2017/03/22付 西日本新聞朝刊=

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