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【きょうのテーマ】戦死者の遺品触れて感じる 鉄かぶと、背のう…ずしり

「背が縮みそう」。重さ1キロの鉄かぶとと6キロの背のうを身に着ける
「背が縮みそう」。重さ1キロの鉄かぶとと6キロの背のうを身に着ける
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戦地に行く兵士に贈られた「千人針」
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兵隊用の服を着て将校の服(左)との手触りを比べた
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手りゅう弾の部品に触れ、武器の恐ろしさを知る
手りゅう弾の部品に触れ、武器の恐ろしさを知る
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開設者の故武富登巳男さん
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 ●兵士・庶民の戦争資料館

 みなさんは平和授業(じゅぎょう)で戦争のことを勉強していると思いますが、当時の兵士が使った装備(そうび)や武器(ぶき)に触(ふ)れたことはありますか? 「兵士・庶民(しょみん)の戦争資料館(しりょうかん)」(福岡(ふくおか)県小竹町(こたけまち))は元日本兵の武富登巳男(たけとみとみお)さん(故人(こじん))が1979年に開設(かいせつ)した日本でも珍(めずら)しい民間の戦争資料館です。この館の特色はすべての展示物(てんじぶつ)に触(さわ)れること。5人のこども記者が兵士の遺品(いひん)を身に着け、命の重さを体感しました。

【紙面PDF】きょうのテーマ 戦死者の遺品触れて感じる 鉄かぶと、背のう…ずしり

 ■苦しみや怒(いか)り実感

 同館は日中戦争や太平洋戦争に出征(しゅっせい)した兵士の遺品(いひん)や当時の庶民(しょみん)の暮(く)らしぶりを示(しめ)す資料(しりょう)約2500点を所蔵(しょぞう)。登巳男(とみお)さんの長男で僧侶(そうりょ)の武富慈海(たけとみじかい)副館長(68)の手助けで、5人は重さ1キロの鉄かぶとをかぶり、6キロの背(はい)のうを背負(せお)った。

 満州(まんしゅう)(現中国(げんちゅうごく)東北部)に出征した登巳男さんは生前、徒歩で移動(いどう)する「行軍」のつらさを語っていた。6キロは行軍で兵士が背のうに入れた食料などの重さだ。「指揮官(しきかん)や将校(しょうこう)は自動車や馬で移動した。父たち機関銃(きかんじゅう)隊はこの装備(そうび)と分解(ぶんかい)した重い銃(じゅう)をかついで1日数十キロを歩いた」という慈海さんの言葉に驚(おどろ)いた。

 軍服にも触(さわ)った。将校服の布地(ぬのじ)は柔(やわ)らかかったが兵隊服はごわごわしていた。「服のサイズが合わなくても兵隊は『体を軍服に合わせろ』と言われた。軍は階級がすべて。将校以上と兵士の待遇(たいぐう)には大変な差があった」と慈海さん。石倉(いしくら)みゆ記者はずっしりした背のうに「1分歩いたら倒(たお)れそう。これは兵士の苦しみや怒りの重さ」と感じた。

 ■飢(う)えと渇(かわ)きに倒(たお)れ

 戦況(せんきょう)が厳(きび)しくなると物資(ぶっし)が不足し、多くの日本兵が飢えで命を落とした。パプアニューギニアで餓死(がし)した指物師(さしものし)(木工職人(しょくにん))が戦場で作ったはしとはし箱があった。慈海さんの「飢えを忘(わす)れたくて作ったのかもしれない。はしの立つごはんを夢(ゆめ)見て皆(みな)死んでいった」という言葉に、土居桜子(どいさくらこ)記者は「兵士がどれだけ食料が補給(ほきゅう)されるのを待っていたか」と胸(むね)を痛(いた)めた。

 松井智美(まついともみ)記者は水筒(すいとう)を手に取った。銃弾(じゅうだん)が貫通(かんつう)して大きな二つの穴(あな)が開いたもの、穴に木くずを打ち込(こ)み漏(も)れないようにしたもの、二つの名前が彫(ほ)られたもの…。水が無くなれば戦友や戦死者から水筒を奪(うば)うこともあった。慈海さんは「水筒の水に命がかかっていた。生きるためには仕方なかった」と悲しそうに語った。

 ■動物たちも犠牲(ぎせい)に

 出征する兵士の無事を祈(いの)って女性(じょせい)たちが布に赤い糸で玉を作り縫(ぬ)い付けた「千人針(せんにんばり)」も手にとった。慈海さんが「愛馬の出征」と題された1944年撮影(さつえい)の写真を見せてくれた。飯塚(いいづか)市出身の2人の兵士と2頭の馬が写っていて、説明には「愛馬と一緒(いっしょ)に2人の若者(わかもの)も戦死」とあった。

 太平洋戦争中、数十万頭の馬が戦地に送られ、一頭も帰らなかったという。慈海さんの「飼(か)い犬や猫(ねこ)も集められ、防寒服(ぼうかんふく)に使う毛皮にされた」との言葉に矢野衣真(やのえま)記者は「コート1着に4匹(ひき)の動物の命が奪われた」とショックを受けた。

 浅田叡杜(あさだえいと)記者は「遺品に囲まれて取材をしたので持ち主の声が聞こえた」ように感じたという。館内に掲示(けいじ)された「国家間の戦争のつけは最後はすべて庶民にまわる」という登巳男さんの言葉が心に重く響(ひび)いた。

 ●「戦争は ある日突然起こるわけではない」 武富慈海副館長に聞く

 こども記者は副館長の武富慈海(たけとみじかい)さんに質問(しつもん)した。

 -資料館( し りょうかん)を作ったきっかけは?

 「父の還暦(かんれき)祝いを計画したとき『戦争資料館を作りたいので、お金はその準備(じゅんび)に使いたい』と言われた。戦争の真実を伝えることが、子孫への遺言(ゆいごん)だと考えていた」

 -遺品(いひん)はどうやって集めたか。

 「戦後、父が古物商から購入(こうにゅう)して収集(しゅうしゅう)した。開館後は全国から多くの寄贈(きぞう)があった。父は『遺品が遺品を呼(よ)ぶのだ』と話していた」

 -印象に残っていることは?

 「遺品を見て、戦死した父親に会えたようだと涙(なみだ)した人もいた。今年4月に太平洋戦争の激戦地(げきせんち)だったパプアニューギニアのガブリエル・ドゥサバ駐日(ちゅうにち)大使(当時)が来館し、『戦争をありのままに伝えている。感動した』と話してくれた」

 -戦争を体験した人にしか分からない気持ちを知るには?

 「生死の境(さかい)をさまようような限界状況(げんかいじょうきょう)は体験者でないと分からないが、人間には想像力(そうぞうりょく)がある。実物の持つ迫力(はくりょく)で戦争を追体験できれば、少しは兵士の厳(きび)しい日常(にちじょう)やつらい気持ちが理解(りかい)できる。『どうぞ触(ふ)れてください』と来場者に呼び掛(か)けた父の思いはそこにある」

 -最も伝えたいことは?

 「今、自国中心主義(しゅぎ)が全世界ではびこっている。戦争が起これば弱い立場の人々、兵士と庶民(しょみん)が一番犠牲(ぎせい)になる確率(かくりつ)が高い。戦争は人間性(にんげんせい)の破壊(はかい)であり、最大の人権侵害(じんけんしんがい)。遺品を見て、戦争は命を奪(うば)うだけで何も生み出さないと知ってほしい」

 -平和のために私(わたし)たち子どもができることは?

 「戦争はある日突然(とつぜん)起こるわけではない。戦争の道へと進んでいることに気付くことが大事だ。そのためには新聞などで情報(じょうほう)をつかみ、分析(ぶんせき)する力を付けてほしい。家族や友人と戦争に関する考えや学んだことを議論(ぎろん)することで、どうすれば平和を保(たも)つことができるかが自然に見えてくる」

 ▼兵士・庶民(しょみん)の戦争資料館(しりょうかん) 福岡(ふくおか)県小竹町(こたけまち)御徳(ごとく)。資料館は1979年に旧(きゅう)穂波町(ほなみまち)(現(げん)飯塚(いいづか)市)の自宅(じたく)の一部を改造(かいぞう)して開館し、97年、現在地(げんざいち)に移転(いてん)。開館は通常(つうじょう)午後1時半~5時(水、木曜は休館)。入場無料。来館には事前の連絡(れんらく)が必要。同館=09496(2)8565。

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=2017/10/14付 西日本新聞朝刊=

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