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【きょうのテーマ】筑紫君磐井 どんな人? 福岡県八女市 「岩戸山古墳」を訪ねて

石井さん(右)から前方後円墳の特徴を聞く。写真後方が岩戸山古墳
石井さん(右)から前方後円墳の特徴を聞く。写真後方が岩戸山古墳
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岩戸山4号古墳の石室
岩戸山4号古墳の石室
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石人・石馬の実物など迫力ある展示が楽しめる
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筑紫君一族が勢力を拡大した過程を学んだ
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 ●反逆者? 英雄? 古墳と石像で力誇示

 福岡(ふくおか)県八女(やめ)市の北西部に広がる八女丘陵(きゅうりょう)には約300基(き)の古墳(こふん)があります。中でも北部九州最大の規模(きぼ)を誇(ほこ)る前方後円墳が「岩戸山(いわとやま)古墳」(国指定史跡(しせき))です。6世紀の豪族(ごうぞく)・筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が築(きず)いたとされ、古墳から出土した「石人(せきじん)・石馬(せきば)」は古代の九州文化を象徴(しょうちょう)する遺物(いぶつ)として注目されています。当時の大王(だいおう)(天皇(てんのう))に匹敵(ひってき)する大きさの古墳を築いた磐井とは何者だったのか。6人のこども記者が歴史ロマンを探訪(たんぼう)しました。

【紙面PDF】きょうのテーマ 筑紫君磐井 どんな人? 福岡県八女市 「岩戸山古墳」を訪ねて

 ■想像以上の大きさ

 まずは歩いて大きさを体感した。古墳(こふん)に隣接(りんせつ)する岩戸山(いわとやま)歴史文化交流館の石井龍一(いしいりゅういち)さんが「岩戸山古墳の墳丘長(ふんきゅうちょう)は約135メートル。対立したヤマト王権(おうけん)の継体大王(けいたいだいおう)(天皇(てんのう))の約190メートルと比(くら)べても見劣(みおと)りしない」と教えてくれた。

 古墳は6世紀前半、磐井(いわい)が生前に築造(ちくぞう)したとされ、古墳を囲むように周堤(しゅうてい)と周壕(しゅうごう)があった。周堤の一部は太平洋戦争末期にはイモ畑にされたという。

 石井さんの説明を聞きながら外周を歩いたが、想像(そうぞう)以上の大きさに、6人は汗(あせ)だくになった。古墳の後円部墳頂(ふんちょう)にも立った。

 木原萌(きはらもえ)記者は「天国につながるような長い階段(かいだん)を上り、やっとたどり着いた」とへとへとになったが、上から「てるてる坊主(ぼうず)」のような形をした前方後円墳の特徴(とくちょう)がよく見えた。石倉(いしくら)みゆ記者は「古墳のくびれを実感できて感動した」という。

 ■二つの特色の意味

 岩戸山古墳には二つの特色がある。一つは古墳の東側に正方形(一辺43メートル)の区画(くかく)「別区(べっく)」があることだ。これほど大規模(だいきぼ)なものは全国でも岩戸山古墳にしかなく、儀式(ぎしき)や祭祀(さいし)が行われた場所と考えられている。もう一つは兵士や馬などを阿蘇山(あそさん)の噴火(ふんか)でできた凝灰岩(ぎょうかいがん)で作った等身大の「石人(せきじん)・石馬(せきば)」だ。墳丘上や別区に配置され、古墳周辺で破片(はへん)も含(ふく)めると100点以上が出土している。

 石井さんは「石人は筑紫君(つくしのきみ)一族のシンボル」とし、「北部九州の盟主(めいしゅ)としてヤマト王権の埴輪(はにわ)にはない石製品(いしせいひん)の迫力(はくりょく)で権威(けんい)を誇示(こじ)した」と語った。

 ■石室開く日はいつ

 岩戸山古墳の西側にある岩戸山4号古墳(7世紀初頭)の横穴式(よこあなしき)石室にも入った。一枚岩(いちまいいわ)を使った重厚(じゅうこう)な構造(こうぞう)に圧倒(あっとう)された。

 石井さんは電気を使って岩戸山古墳の内部を調べたところ「石室と思われる空間があると分かった。石室であれば内部が装飾(そうしょく)されている可能性(かのうせい)もある」と話した。甲斐有莉(かいゆり)記者は「なぜすぐに発掘(はっくつ)しないのか」と疑問(ぎもん)を持った。

 石井さんは古墳の調査(ちょうさ)には相当な準備(じゅんび)が必要であることを説明し「君たちが大人になるころには石室が調査されるかもしれないね」とほほ笑んだ。6人は「石室が調査され、もし壁画(へきが)があったらぜひ見たい」と心をときめかせた。

 ●「磐井の乱」 古代史最大の内乱

 岩戸山(いわとやま)歴史文化交流館の常設展示室(じょうせつてんじしつ)で末継彬子(すえつぐあきこ)学芸員が古代史最大の内乱(ないらん)ともいわれる「磐井(いわい)の乱」について教えてくれた。

 末継さんは筑紫君(つくしのきみ)一族が早くから大船を建造(けんぞう)して、筑後川(ちくごがわ)、有明海(ありあけかい)を通って日本海(にほんかい)を渡(わた)り、大陸からさまざまな文化を取り入れ勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)した過程(かてい)を紹介(しょうかい)。朝鮮(ちょうせん)半島では百済(くだら)と関係を深めたヤマト王権(おうけん)(現在(げんざい)の奈良(なら)、大阪(おおさか)地方を勢力圏(せいりょくけん))と一線を画し、新羅(しらぎ)とも交流したと説明した。

 継体大王(けいたいだいおう)(天皇(てんのう))の世、ヤマト王権は朝鮮半島進出を図(はか)り、軍事的、経済的負担(けいざいてきふたん)を九州の豪族(ごうぞく)に求めた。中央からの圧力(あつりょく)を拒(こば)んだ磐井は527年、火国(ひのくに)(熊本(くまもと)など)と豊国(とよのくに)(大分(おおいた)など)とともに乱を起こしたといわれている。

 浅田叡杜(あさだえいと)記者は「磐井は新羅との関係から朝鮮半島への出兵を断(ことわ)ったのではないか」と考え、弟の暁彦(あきひこ)記者は「ヤマト王権から船や食料を要求された九州の豪族たちの不満が乱につながった」と推測(すいそく)した。

 ヤマト王権側は6万の兵を出したが戦いは1年半も続いた。奈良時代に書かれた「日本書紀」「古事記」で磐井は大王に従(したが)わない悪賢(わるがしこ)い人物として描(えが)かれ、最後は御井郡(みいのこおり)(現在の久留米(くるめ)市付近)で切り殺されたとされている。

 しかし「筑後国風土記(ちくごのくにふどき)」の逸文(いつぶん)(後の時代に書かれた引用文)では、磐井は「豊前国(ぶぜんのくに)」の深い山中に逃(に)げのびたと記されている。

 最近の研究では「磐井の乱」はヤマト王権からの「独立(どくりつ)戦争」であったとする説もある。末継さんの「磐井が反逆者(はんぎゃくしゃ)というのはヤマト王権が作ったイメージで、地元から見れば領民(りょうみん)のために戦った英雄(えいゆう)と映(うつ)ったのでは」という言葉に、荒木奎樹(あらきけいじゅ)記者は「磐井は領民の心をつかんでいたからこそ九州の半分以上を治めることができたのでは」と考えた。

 ●わキャッタ!メモ

 ▼八女(やめ)市岩戸山(いわとやま)歴史文化交流館「いわいの郷(さと)」 福岡(ふくおか)県八女市吉田(よしだ)。常設展示室(じょうせつてんじしつ)では「石人(せきじん)・石馬(せきば)」の実物(国指定重要文化財含(ぶんかざいふく)む)ほか約180点を展示し、磐井(いわい)と八女古墳群(こふんぐん)の歴史を紹介(しょうかい)。弓矢体験や勾玉(まがたま)作りを通じて古代の生活も学べる。年末年始と月曜休館(祝休日の場合は翌日(よくじつ)休館)。入場無料。同館=0943(24)3200。

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=2017/11/08付 西日本新聞朝刊=

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