「ひとりの子を 見失うとき 教育は その光を失う」 大正・昭和の教師 安部清美さんの教え

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資料室に展示されている安部さん直筆の書を前に「教師たちの子どもへの情熱は今も変わらない」と話す久保田校長
資料室に展示されている安部さん直筆の書を前に「教師たちの子どもへの情熱は今も変わらない」と話す久保田校長
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 ●教え子の死原点/自主性尊重

 〈ひとりの子を 見失うとき 教育は その光を失う〉。福岡市早良区の曲(まがり)渕(ふち)小学校を舞台に4月に連載した「山っ子たちの春」で、校長室に掛けられた書を紹介した。すると読者から情報が寄せられた。大正、昭和の時代、教育者として知られた安部清美さん=写真=の言葉だという。教え子の死を原点に先覚の教育を実践した。「東洋のペスタロッチ」とまでいわれた「カリスマ教師」だったという。

 評伝、年表などのまとまった資料は、福岡県福津市の神興(じんごう)東小の「安部清美資料室」にあった。

 安部さんは宗像郡東郷村(現在の宗像市)出身。1920(大正9)年から12年間、同校の前身の神興尋常高等小学校で訓導(教員)として勤務した。

 旧福岡師範学校を卒業した安部さんは、新任教員として着任。4年生の担任になった。その年の10月、運動会の練習中、担任していた女子児童がリレーのバトンを持ったまま亡くなった。心臓まひだった。自責の念にかられた安部さんは自死を図ろうとするが、同僚らに助けられる。

 大みそか、心に誓った言葉が〈ひとりの子を 粗末にするとき 教育は その光を失う〉。曲渕小の文言は少し違うが、その精神を受け継いでいた。

 ☆ ☆ 

 年明けの3学期から学校に復帰した安部さんが、まず力を注いだのが家庭訪問。子どもの育ちの背景まで知っていれば、との悔恨があったのだろう。教室の風景も変わっていった。

 評伝によると、教壇、教卓を撤去し、子どもたちの机の配列も変えた。教員の「上から目線」を見直す狙いがあったのだろう。教室の掃除も児童と一緒に当たった。すると児童一人一人が触発され、当番制が不要になったという。

 教室には畳敷きの一角も設けた。当時の農村は貧しく、親も忙しかった。弟や妹をおぶって登校する児童も珍しくなく、子守りを支援するためだった。

 小学校を、単なる子どもたちの学習施設ではなく、村人全体の学びの拠点として捉えた点でも新しかった。青年団を結成し、若者の先頭に立つ。学校では村人たちを対象にした農業研修会を開き、地域振興につなげていった。

 一連の取り組みは「愛の教育」「土の教育」「全村教育」などと称され、全国から視察が相次ぐ。多い年には年間3千人が押し寄せたという。

 神興小創立100周年記念誌(94年)で、ある教え子は「浅黒いグルグリ坊主の大きい先生で、詰め襟の洋服を着ておられた」。教室で児童の散髪をする先生、初めての輪唱、教室から裏山に飛び出しての授業などの思い出がつづられていた。

 ☆ ☆ 

 資料室を訪ねた日、神興東小では教員たちが校内研修に取り組んでいた。春の運動会を前に、発達障害、問題行動、体力差などを含め、すべての子どもたちが参加できるよう、支援態勢をどう組み立てるか、話し合っていた。

 久保田しげよ校長は「子どもたちが『学校、大好き』と言えるよう、子どもへの声掛け、言葉の吟味など、私たちも同じように格闘している」。学校と地域の連携を目指し、今は「コミュニティースクール」として、歩みを受け継ぐ。

 安部さんは、旧女学校の校長、参院議員などを歴任した後、81(昭和56)年、81歳で死去した。

 陣川桂三・福岡大学元教授(教育学)は「地域の暮らしや歴史、自然に学ぶ教科横断型の総合学習を、あの時代に実践した先覚者だ。子どもたちの自主性や個性を尊重し、伸ばしていく自由主義教育を地方に導入し、学校から地域全体に広めていった」と話した。

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【ワードBOX】ペスタロッチ

 スイスの教育家。産業革命、フランス革命などがあった18、19世紀、孤児教育や児童教育に取り組んだ。知能、身体、道徳の調和した発達を教育の目的とした。中世からの画一的、詰め込み型の教授法を見直し、児童の自発的活動、家庭の教育力を重視した教育を実践、提唱した。

=2013/05/21付 西日本新聞朝刊=

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