【人の縁の物語】<31>ゆいぶみ 「手紙」が伝える戦争(3) 150通のラブレター

夫からの手紙を読み返す貴島テル子さん。リビングには遺影や二人の写真が飾られている
夫からの手紙を読み返す貴島テル子さん。リビングには遺影や二人の写真が飾られている
写真を見る

 70年間、心の支えにしてきたものがある。たんすの引き出しいっぱい、約150通に及ぶ手紙。26歳で戦死した夫が残したラブレターだ。

 寂しいとき、悩んだとき…。宮崎市の貴島テル子さん(97)は折に触れて手紙を広げる。「気持ちが落ち着いて、元気になるんです。手紙の中の彼は生きているから」。海軍航空隊のパイロットだった夫の政明さんは、1942年9月5日、ソロモン諸島で戦死した。結婚から1年8カ月、一緒に過ごせたのはたったの75日間だった。

 親友の兄だった政明さんと知り合ったのは、23歳のとき。父の赴任先の中国から宮崎に帰省中だった。海を隔てた手紙のやりとりが始まり、互いにひかれていった。

 《貴女(あなた)を得ればほかのものを全て失っても悔いないくらいです》《毎日毎日貴女のことでいっぱいで苦しい》《この幸福が何時(いつ)までも何時までも続く様 確信すると同時に二人でそれを築き上げませう》

 手紙は3日と空けずに届いた。「命が危険にさらされている飛行機乗りなんて」と反対する親を説得して日本へ戻り、41年1月に結婚。だが、新居を構える間もなく、政明さんは任地へ赴いた。

 文通は結婚後も続いた。同年12月の開戦後は、封書に「軍事郵便 検閲済」の印が押され、文面にも変化が見られるようになった。

 《軍人として覚悟は出来ているから安心あれ》《何時如何(いついか)なることがあっても十分な覚悟は持って居てくれる様に》

 それでも、夫が搭乗しているのは戦闘機ではなく、輸送機だから大丈夫と信じていた。ところが、ぱたりと手紙が途絶えた。そのまま3カ月が過ぎたころ、小包が届く。包みには「遺品」と書かれ、テル子さん宛ての遺書が入っていた。

 《余(よ)亡きあと然(しか)るべく身を処せられよ。良縁あれば遠慮するなかれ。父母によろしく、尚、テル子の将来の幸福を祈りてやまず》

 一緒に暮らせたのは、結婚式直後とわずかな休暇、政明さんが感染症で入院していた期間だけ。遺骨は戻らず「ある日ひょっこり帰ってくるのではないか」と戦死公報が届いても信じなかった。

 夫の実家は開業医だった。毎日泣き暮れていたテル子さんは「夫に代わって親孝行を」と決意し、28歳で大阪女子高等医学専門学校(関西医科大)へ入学する。34歳で医師免許を取得し、宮崎市内に「貴島」の名を継いだ小児科医院を開いた。

 夫との間に子どもを授かることができなかった代わりに、すべての子どもを自分の子として見守っていこうとの思いで、診療にあたってきた。今も近くの保育所の園医を務め、健診をこなす。

 再婚は考えなかった。「彼以上の人なんていないから」。夫の分まで生きようと、仕事に打ち込む一方でいろんな国を旅して回った。5月に政明さんへの思いをつづった自伝「75年目のラブレター」を出版した。

 終戦を迎えた日、「ああよかった」という思いとともに「夫たちの死は何だったのだろうか」と考えずにはいられなかった。あまりにも多くの命が失われすぎた。

 「戦争がなかったら、まったく違う人生だったでしょうね。戦争って本当に嫌なものですよ」


=2013/08/27付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞のイチオシ [PR]

西日本新聞のイチオシ [PR]