西日本新聞
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初期の大会は観客の服装が決められていた(柔道剣道)
大正5年、金鷲旗玉竜旗玉大会の原型にあたる九州学生武道大会が初めて行われた。試合観戦や入場に際しては、現在からは考えられないような禁止規則が決められていました。そのうちのひとつが、服装の制限。さて、その服装制限とは?

(1) 厳粛な武道の場、雰囲気を壊さぬように男子は背広、女子は入場禁止
(2) 洋装は禁止。羽織袴(はおりはかま)姿に限る
(3) 選手と同じ試合着にする
(4) 洋装または袴(はかま)着用

正解は (4)

試合の神聖を保つため、主催者のとった規制は!
会場に入るときは、洋装または袴着用を義務付けていました。
さらに喫煙は所定の場所以外では認めず、場内は禁煙。そして、場内の静粛を保つために、「応援は一切之を許さざること」とし、もしも再三の注意をきかない場合は、退場を命じられることも定めていたのです。応援もはばかられるような厳粛な武道の場だったのでした。
現在もなお、応援は禁止ですが服装の制限はありません。

三池中は決勝戦に進出したが全選手の竹刀が折れていた
   (剣道)

昭和12年剣道大会。三池中は決勝戦で八幡中学と対戦することになりました。
しかし、それまでの激戦で手持ちの竹刀は5人とも全部折れていました。
折れた竹刀を構えていると、審判から「こんなのはだめだ。竹刀を取り替えろ」と命じられました。さて、その後、三池中はどうなったでしょう?

(1) 取り替える竹刀がなく失格に
(2) 相手高校から竹刀を借りて戦い優勝
(3) そのまま戦い敗北
(4) 折れた竹刀を補修して使用

正解は (2)

「取り替える竹刀がありません」といったら、審判は5人全員の竹刀を調べて、全部折れている事を確認。対戦相手の八幡中学の竹刀を調べて、「これを貸してやれ」と審判の助けで対戦校から借用しました。
借用した竹刀で戦う三池中は、そのまま優勝してしまいました。
三池炭鉱をはじめ国内不況のまっただなかで、三池中学の選手たちは、予備の竹刀はおろか、自前の防具を持っている選手が3人しかいませんでした。



死傷者152名の暴風雨下でも
   試合時間に遅刻すると失格になった(柔道剣道)

昭和5年大会は、福岡県下が大暴風雨に見舞われた。
倒壊家屋1800戸以上、死傷者152名と報じる中、開催された大会は、大暴風雨の中、大 会会場の福岡市内は九州各地からかけつけた出場者と引率者、応援者でごったがえす。
大会は福岡市の武徳殿に午前8時集合。
さて、遅刻した場合は?

(1) もちろん棄権とみなし出場停止
(2) 試合時間から遅刻分を差し引いた
(3) 故郷が被災した学校は10分間の遅刻を容認
(4) 災害時特別ルールを適用、試合開始時間に間に合えば容認

正解は (1)

遅刻した場合の規定も定めてありました。暴風雨の事実を報じる同じ紙面で、わざわざ強調している規定は、こうでした。
 「万一定刻に参集なき場合は、棄権とみなし組合より除外する」。
いかなる天候、悪条件でも遅刻は許されなかったのです。暴風雨で交通途絶する中、会場にやってきたのに、これって厳しすぎないですか。

選手監督用リボンは一部の人々にとって
   人気のアイテムだった(柔道剣道)

昭和35年の金鷲旗大会。
試合に早く負けて会場を去る学校関係者から選手の付き添い用のリボンを出口で回収する人々が現れました。集めたリボンをどうしたでしょう?

(1) リボンを集めて愛好家に高く販売した
(2) 来年の入場券代わりに手に入れた
(3) 入場券代わりに販売する新手のダフ屋
(4) 記念品としてちゃっかり路上販売するため

正解は (3)

盛況を極め、福岡スポーツセンターの会場に入れない応援の人々も多数出たこの大会。外には一目試合を見たい人々で溢れていました。
監督や引率教師の胸には場内入場の許可証かわりにリボンをつけています。これに目をつけたダフ屋たちは、早めに敗退して出てきたチームの監督や選手から、リボンを回収し、「リングサイド特別入場券」として、表で入りたがっている人々に売りつけていました。
しかし、この名案?も警備の警官にばれて、追い払われました。

大将戦だけは冷房なしの道場で
   勝負がつくまで時間無制限で試合した(柔道)

大将戦は時間無制限としていた、初期の大会では、延々と決戦が続く事もありました。
語り継がれる大正8年の柔道大会での修猷館の大将、吉田選手と、久留米商業の深谷選手の試合はどのくらいかかったでしょう?

(1) 15分試合して10分休憩し通算2時間
(2) 30分でドクターストップがかかり引き分け
(3) ぶっとおしで55分間
(4) 20分で双方ばてばてになり20分後に再試合

正解は (3)

柔道は、5分も全力で戦えばへとへとになる格闘技。
しかも当時は真夏でも冷房設備のない炎熱地獄の会場で、大正8年の柔道大会での修猷館の大将、吉田選手と、久留米商業の深谷選手は、汗みどろになりながら延々55分も勝負。双方の意識ももうろうとし、なにより冷房がない館内の観衆もぐったりとしていたころ深谷選手が大外刈りに来たところを、内股で かえした吉田選手が勝利。母校を優勝に導いたのでした。


5チームをたった一人で倒した男がいた(剣道)
剣道の勝負は早いので5人抜きとかはよく出ますが、これだけ抜いた選手はそうそういません。語り継がれる記録です。
昭和30年の剣道大会、若松高校一年生の桑原和真選手は、いったい何人抜いたでしょう。

(1) 連続で26人抜いた
(2) 途中一人に負けたが通算30人を抜いた
(3) 20人抜きしたところで選手交代を告げられた
(4) 25人抜きで試合を辞退した

正解は (2)

初日の一、二回戦で10人を抜き、二日目も4人抜いて14人抜き。
一回負けたあと、このあとも勝ちつづけました。
さらに4回戦で4人を抜き、相手大将と引き分けたが、準々決勝と準決勝でも5人抜きして再び10人抜きを達成。ここまで通算28勝1敗1引き分け。さらに決勝でも2人を抜いて大活躍。
桑原選手が引っ込んだ後、チームメイトはやっと出番が!母校は大将戦にもつれこんだが、みごとに優勝しました。


たった一人で
   チームを5回戦進出まで導いた1年生がいた(剣道)

昭和41年剣道大会。
朝倉高校の一年生、斉田英治選手が、大会始まって以来、初めての連続20人抜きを達成。朝倉高校は斉田以外、誰も戦わずに5回戦を迎たのですが、斉田選手に続けと、試合に臨んだ朝倉高校はどこまで勝ちあがった?

(1) 斉田の活躍で初優勝
(2) 決勝で負けたが準優勝
(3) 準々決勝で無念の敗退
(4) あっさり5回戦で消えた

正解は (4)

大活躍する選手がいると、戦力を温存できる利点があるものの、斉田選手みたいにここまでの大活躍すると、彼が負けたあと出場するほかの選手は、試合勘がないままレベルが高い上位の高校といきなり戦うはめになります。
斉田選手が負けたあと、残り4選手は初めて試合に臨み、大将戦までねばったが敗北したのでした。


田村亮子選手は
   金鷲旗に一度しか出場していない(柔道)

平成5年、バルセロナ五輪で銀メダルをとっていた当時の田村亮子選手(現:谷亮子選手)は、高校3年の夏に金鷲旗柔道大会に初出場しました。
高校一年生のときから、世界大会などに国内代表選手として出場していたため、金鷲旗大会に出るのは、最初で最後でした。
五輪メダリストで後に金メダルもとった、彼女の金鷲旗大会の成績は?

(1) メダリストの貫禄で5人抜き達成
(2) なんと4人目で敗退してしまった
(3) 無差別級の金鷲旗では実力だせず2人抜きどまり
(4) 負け無しの3勝で終える

正解は (4)

田村が金鷲旗に出る!
すでに国際大会の日本代表選手だった彼女にとって、高校生の大会に出場する機会はなかなかありませんでした。三年生最後の年に福岡工業大付属高校(現:福工大城東)の先鋒として出場。3試合に出場し、3勝を記録しています。
いかにメダリストとはいえ、田村選手は軽量の48キロ級。重量級と混在する無差別抜き勝負のこの大会では、体重差がありすぎる対戦もあります。
当時は、女子は3人総当り制でした。3人抜き勝負こそ見れませんでしたが、軽量級の田村選手が、大型選手相手に戦う初めての試合とあって、会場は彼女の試合を一目見ようと、大観衆が詰め掛けました。



糸島高校は決勝戦で
   2度にわたって快挙を遂げた(剣道)

昭和36年と昭和44年の剣道大会。
糸島高校は、決勝戦で同じ高校が2度にわたって快挙を遂げた、といわれる記録をうちたてて優勝しています。いったいどんな勝ち方でしたでしょう。

(1) 先鋒が大活躍で5人抜き
(2) 4人に抜かれるが大将戦で優勝
(3) どちらも5人抜きでの逆転優勝
(4) 2度とも相手が失格

正解は (3)

糸島高校は、昭和36年大会で、3人抜かれてからの逆転5人抜きで優勝しています。
昭和44年大会は中堅の松崎選手が、2人抜かれたところで登場。得意のメンを次々に決め、5人すべてを片付けて優勝しました。決勝戦での5人抜き勝利は、史上2人目。ともに同じ高校の選手が達成しました。

遅刻失格の直前に現れた福島高校は
   初戦に勝った(剣道)

昭和49年、剣道大会。
熊本一工の対戦相手の福島高は、いつまで待っても試合場に現れませんでした。場内アナウンスにも応答はなし。審判団が棄権を宣言しようとしたそのとき。
福島高校は全選手、尋常でないほどの汗をかいて現れたのですが、いったいこんなギリギリの時間まで何をしていたのでしょうか。

(1) 列車が間に合わず博多駅から走ってきた
(2) 母校の応援団から激励を受けていた
(3) 練習しているうちに時間を忘れそうになった
(4) 別の大会で試合していた

正解は (3)

試合開始30秒前、汗だくの選手たちが、試合場に現れ、棄権敗退寸前に整列完了。試合は開始となり、福島高の先鋒があっというまに4人を仕留めました。最後の熊本一工の大将も次峰が倒し圧勝しました。
遅刻寸前になったのは、「練習に練習をするうちに試合開始時刻が迫っているのを忘れてしまった」というのが理由でした。
練習のし過ぎには注意したいところです。

20人抜き選手が2人も現れ、
   22人抜きの大会記録に同時に挑んだ(剣道)

昭和33年、剣道大会。
長崎東の本多直彦選手は、引き分けをはさんで22人抜きの大会記録を残しました。
そして、昭和57年大会では、なんと2人の選手がこの記録に挑みました。
さて、2人の選手は記録を更新したでしょうか。

(1) 1人は達成し1人は失敗
(2) 2人とも22連勝ならず
(3) 2人とも22連勝を達成
(4) 2人とも新記録の24連勝

正解は (2)

一人は、福大大濠の先鋒・金丸繁利選手。戦後では史上初の連続25人抜きを目指して5回戦の宮崎中央高校に挑みました。相手先鋒を軽く退けて21人抜き。場内の期待が高まる中、22人目は相手選手にドウを連取されて敗退。21連勝でストップしました。
また、この大会では、和歌山北の先鋒・岩本浩二選手も20人抜き。金丸選手の後から22人抜きに挑戦しましたが、金丸選手と同様に21人抜きのあとで、敗れ22連勝はなりませんでした。

せっかく 5人抜きしたのに
   試合が無効になってしまった(剣道)

平成2年女子剣道大会。
高千穂高校は、試合終了後に規約違反で失格になってしまいました。失格の理由は?

(1) 届け出の登録メンバーが違っていた
(2) 男子の袴を借用したため不謹慎
(3) 逃げる相手に止めを刺した退
(4) 整列するのに時間がかかりすぎた

正解は (1)

優勝候補の高千穂高校。先鋒の岡本は、相手高の選手に一本も許さず完全勝利の5人抜き。試合を終えて、両校選手が礼をして別れる場面をみていた審判団は、高千穂の選手登録届け出と、実際に並んだ選手が違う事を発見したのです。補欠の届け出がある選手が中堅に並び、中堅に届がある選手が補欠席にいました。
実際に出場しなかった選手についての届け出違反なので、「固いこと言わずに」と言いたいところですが、協議の結果、大会規定違反で失格となりました。



昭和63年から平成3年、中村3兄弟を擁した
   東海大五高は当時、高校最強といわれた(柔道)

昭和63年から平成3年の柔道大会。
東海大五高は、五輪出場で金銀メダルを獲得したり国際大会で大活躍した「中村3兄弟」を擁した強豪チームでした。
春の高校選手権、夏の高校総体の優勝常連校だった東海大五高の金鷲旗大会での成績は?

(1) 決勝で敗退し常に2位
(2) なんと準決勝進出も1度だけで敗退続き
(3) 準優勝2度だけに終わる
(4) 平成3年度に1度だけ優勝た

正解は (2)

3人の手記があります。
長男の佳央選手(アトランタ五輪代表)は昭和63年大会。「副将の自分が相手大将と引き分け、その後の敗退を招いた。積極的に攻めなかったことが悔やまれる」。
次兄の行成選手(アトランタ五輪銀メダル)は、「65キロ級の自分の相手はいつも一回りも大きかった」。
末弟の兼三選手(アトランタ五輪金メダル)は「つらい想い出ばかり。最後の試合は、自分が延長の末に判定負けしました」。と、苦戦の連続。優勝候補と言われていたが、平成元年が3位、平成2年がベスト8、平成3年はベスト16で敗退しました。
金メダリストの兼三選手は、手記の中で「悔しさを忘れるためにがむしゃらに練習した。その姿勢が五輪のメダルにつながった」。
金鷲旗の奪取に失敗したからこそ、その後の活躍があったと書いています。

若松高校の麻生選手は母校を5回戦進出に導き、
   その後、福岡県知事になった(柔道)

昭和32年、柔道大会。
福岡県知事の麻生渡選手は、若松高校の大将として出場していました。4回戦では強豪の柳川高校と対戦しました。劣勢だったのを大将麻生選手が相手の副将、大将を続けて破り勝ち残りました。
「会場に母校から一人の女子高生が応援に来ていて」選手が張り切ったのが勝因のひとつ。というコメントもあります。
5回戦進出に大喜びの選手たちでしたが、ちょっと困った問題がありました。

(1) 旅館の手配をしていなかった
(2) 応援の女子高生に誰がお礼に行くかもめた
(3) 勝ったものの負傷した
(4) 応援団が来る事になった

正解は (1)

麻生知事の当時の得意技は、はね腰、内股、足払い。
女子高生たちは当時、人気絶頂だった野球部の応援に出払うのが常で、柔道の応援に来てくれたのは珍しい。よほどうれしかったのか「感謝している」と手記に記している。
ところで勝ったのはよかったが、若松高校は毎年初日で敗退していたため、このときも、「初日で負けて帰る予定」で旅館の手配をしていなかったのです。
柔道部の指導教官も「たまにはかつこともあるものだな」とびっくり。急いで手配した旅館で上機嫌でお酒を飲んでいたとか。

金メダリストの斉藤仁選手は、高校時代も、
   スターになれるかなれないか、という場面を経験(柔道)

昭和53年、柔道大会。
この年は福岡市は「福岡砂漠」といわれたほどの大渇水でした。試合場の冷房も制限され、猛暑の中で、国士舘高の斉藤仁選手(ソウル五輪金メダル)は決勝戦に大将で出場していました。味方はすでに4人が消えて自分だけ。3人を倒さないと優勝はありません。負けたら終わりの勝負を前に監督に呼ばれて「スターになりたかったら勝ち抜いて来い」と激励されました。その結果は?

(1) 引き分けて、チームは敗退
(2) 2人抜いたが挫折
(3) 3人抜きして逆転優勝
(4) いきなり敗北して敗退

正解は (1)

斉藤選手の手記によると「3人抜くぞ」と意気込んだものの、いきなり引き分けに。チームは敗北してしまいました。
このときは、スターになれなかった斉藤選手ですが、昭和58年の世界選手権無差別級で優勝。59年のロス五輪では、各級の柔道が金メダルを逃す中、一人95キロ超級で金メダルを獲得。一躍スターになりました。