■ネットワークアジアの構想を 九州21世紀のために■
タイ・チェンマイ、メーホンソン
●メモ
バンコクの日本大使館によると、現在、タイで活動している日本の非政府組織(NGO)は約30団体・個人。1970年代後半、内戦のカンボジアからタイに大量の難民が流入したことをきっかけに活動を開始した団体が多く、曹洞宗国際ボランティア会(現シャンティ国際ボランティア会)などは現地事務所を構え、複数の日本人ボランティアが常駐している。
活動内容は貧困、教育、女性自立、障害者、エイズ問題などで、教育支援が最も多い。九州関係のNGOでは慧燈財団のほか、熊本県出身の谷口巳三郎さんがタイ北部の「21世紀農場」で、有機農業を普及し山岳少数民族を支援している。これまでは、年率10パーセントを超した高金利を活用した基金による運営が可能だったが、経済危機で金利は3パーセント前後に急低下、運営資金の確保が課題になっている。日本政府は政府開発援助(ODA)の一環として、現地で活動中のNGOなどに対し「草の根無償資金協力」を実施しており、1999年度のタイでの支援は20件、約1億7000万円に上る。
遺骨収集から交流の人材育ち 歴史に学び新世紀開く
「北方のバラ」と称され、年間五万人以上の日本人観光客が訪れるタイ北部の花の都・チェンマイ。タイの老僧が、この美しい古都で問いかけた厳しい言葉からすべてが始まった。
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ほぼ完全な形で発掘された遺骨を前に、旧日本兵の霊を弔う調さん。タイ側は17―20歳の日本兵と推定している (1999年9月、メーホンソン県ファイポン村)
「タイ北部にはまだ多数の日本兵が埋められたままになっているのに、日本人はこれを顧みない。日本からの観光客も日本兵のことを考えていない。あなた方は日本人か。そんな日本人は人間か」
「そんな日本人」と名指しされたのは、カンボジア難民を慰問した後、観光気分でチェンマイを訪れた佐賀県基山町の僧りょ調寛雅(しらべかんが)さん(79)ら約五十人の難民慰問団だった。カンボジアに侵攻したベトナム軍が撤退し、日本では年号が昭和から平成に変わった一九八九年のことだ。そしてこの年の暮れ、冷戦が終結した。
一行の中にいたインド・インパール作戦の体験者が泣き出した。
「最初は遺体に土をかけた。次には遺体をまたいだ。最後は死体を踏みつけて逃げた」
第二次大戦末期のインパールからビルマ(現ミャンマー)、タイ北部に撤退した旧日本軍は悲惨を極め、タイ北部には「白骨街道」と呼ばれた撤退ルートも残っている。今なおビルマ戦線の日本兵約四万五千人が「未帰還」とされ、遺骨は現地に放置されたままだ。
老僧の問いは一行にタイ北部の遺骨収集を即断させ、調さんらは翌九〇年、「タイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会」を結成した。
あれから十一年。調さんは今、二カ月に一回以上の頻度でタイ北部と佐賀を往復する。パスポートは、昨年六月から一年間だけで計十回も出入国を繰り返した記録で埋まり、タイ、ミャンマー滞在は延べ五十九日にもなる。
ここ数年、チェンマイ空港を利用すると、空港職員が荷物を運び、搭乗手続きなどの便宜を図るようになった。白髪、七十九歳になった調さんの活動に対し、タイ当局は「日タイ交流の民間大使」級の特別待遇を命じていた。
タイ北部との交流が深まったのは、チェンマイ郊外の公立バンカート中高校の敷地に「タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑」が建立されたことが契機になった。日本から運び込んだ大理石を使って完成した慰霊碑を前に、調さんらには「今は立派でも時間が経過すれば荒れ果てる。慰霊碑の維持・管理と永続的存続のための方法はないか」との思いが募った。
その方法として始まったのが、バンカート中学生に対する一人年間二千バーツ(約六千円)の奨学金支給だ。その返礼として学校側は、慰霊碑の管理を約束した。
貧困問題を抱えるタイ北部での奨学金支給の重みは、日本での想像をはるかに超える。
「アジアの奇跡」ともてはやされた成長期の恩恵は北部国境には届かず、経済危機は貧困層の増大を招いた。九九年のタイ北部の一世帯当たり平均月収は一万二百五十三バーツ(約三万円)で、バンコクの四〇パーセントにも満たない。
タイの事情が「ギブ・アンド・テーク」で始まった奨学金支給方法を転換させた。バンカート中学生六人を対象にスタートした支給は、四年前からチェンマイ、メーホンソン両県全域の中高校生計五百人に拡大。対象者の選抜は両県教育委員会が担当し、半ば「公的教育支援」に発展した。
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メーホンソン県クンユアムには旧日本軍が放置した車両や旧日本兵の遺品を展示した戦争博物館(後方の建物)がある
日本の過去への鎮魂と、タイの未来を担う若い世代への支援が融合し、調さんらの活動に「歴史に学び、新世紀を開こう」という視点が加わった。
過去四年間の支給対象者は延べ二千人を超える。この積み重ねは現地の対日感情にも大きな変化をもたらしている。
「家族や親類を加えると一万人以上が親日家になり、住民の心に、日本のために何かをしてあげようとの気持ちが生まれている」
調さんの実感は誇張ではない。具体的な恩返しとして、調さんの活動母体である慧燈(えとう)財団には、奨学金を支給している生徒の親から「少数民族の村に“ラペ”と呼ばれる旧日本兵がいる(昨年死亡)」との情報が届き、メーホンソン県庁には「日本兵が埋葬された場所を知っている」との多数の住民証言が寄せられた。
調さんは「国境を越えた心の交流が日タイ当局を動かし、メーホンソン県による日本兵埋葬所調査や日本政府の遺骨収集調査の再開につながった」と確信している。
交流を支える新しい動きも、タイと日本双方から始まっている。
バンカート高校では、佐賀県の九州龍谷短大留学から帰国した二人を教師に、二年前から正規授業の選択科目に「日本語」を採用、現在、約百人の高校生が日本語を学んでいる。慧燈財団はチェンマイ県の要請で現地の日本語学校の運営も任せられ、日本語を学んだ高校生の受け皿も用意できた。
九州との継続的交流を担う人材を育てる方法として「奨学金支給↓高校で日本語学習↓現地日本語学校で特訓↓日本への留学↓タイに帰国し交流の橋渡し役」を繰り返す「循環型交流」の仕組みも整いつつある。
調さんらの活動を知った福岡都市圏の若者グループは昨年から、メーホンソンで遺骨収集ボランティアを始めた。七月にタイを訪れる福岡市南区の杉尾浩さん(28)は、「過去を知らなければ新世紀は見つめられないから」と話す。
戦後五十五年、二カ月後には「戦争の世紀・二十世紀最後の終戦記念日」を迎える。
▼文と写真 矢野正美
●広がる九州とタイ北部の交流 1944年 ビルマ(現ミャンマー)を占領中の旧日本軍が英印軍対策としてインド北東部の都市インパールへ侵攻を命令(1月)▽補給路なく作戦失敗、中止命令(7月)、日本軍の戦死3万人、戦傷病死約4万2000人 45年 日本が無条件降伏、太平洋戦争終結▽ビルマ・タイ北部国境でも撤退の日本兵多数が死亡、放置される 89年 調さんらカンボジア難民慰問 90年 九州関係者でタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会結成 93年 チェンマイに戦病没者追悼之碑建立、遺骨収集開始 94年 タイ北部・ミャンマー国境で多数の遺骨収集。確認分だけでも前後3年間で計5515柱に 95年 日本とタイに「慧燈財団」設立、チェンマイの中学生6人に奨学金支給開始▽タイ学生が九州龍谷短大へ留学開始 97年 奨学金支給をタイ北部の中高校生500人に拡大した里親制度スタート▽奨学金受給の親から「ラペ」と呼ばれている旧日本兵生存の情報 98年 チェンマイ・バンカート高校が日本語の授業開始▽メーホンソン県の旧日本兵調査に資金援助▽厚生省が同県ファイポン村で13柱の遺骨収集▽ミャンマーの中高校生200人にも奨学金支給開始 99年 福岡都市圏の若者団体がタイ北部で遺骨収集ボランティア開始 2000年 メーホンソン県がまとめた日本兵埋葬所調査報告書を受け、厚生省が遺骨収集調査再開▽チェンマイ日本語学校運営へ(7月) 2001年 追悼之碑敷地に鐘楼建立へ
掲載2000年6月15日(朝刊)