1幕2幕3幕4幕5幕番外編

舞
台
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鳥坂
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嘉穂劇場1日ドキュメント嘉穂劇場などの絵看板描き50年

第1幕・舞台総監督 井上友市さん ----公演をそでで見守る

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 「あれっ?」。水前寺清子さんの歌謡ショーを待ちわびる客席がどよめいた。今年一月三十日、午後一時。昼の部の開演まであと三十分。そのとき突然、嘉穂劇場内の明かりが消えた。
 正面玄関で入場券の整理を手伝っていた井上友市さん(63)は、瞬時に、舞台そでの「電気室」へ走り出していた。
 劇場内の配線からコンセントの位置に至るまで、電気関係を熟知する井上さんの分析は素早かった。「舞台だけでなく売店の電気も消えた。停電だ」。電力会社に確認するよう指示を出した。
 停電は間もなく回復した。もし照明機器などが原因なら、公演中に再び電気が落ちる恐れもあっただけに、水前寺さんのスタッフには一時不安も漂ったが、井上さんの見立てと、的確な対応に安どの表情が浮かんだ。
     
 「井上さんなしに、嘉穂劇場の舞台は、幕が開かない」。筑豊の演劇関係者はこう語る。
 約三十四年前まで、井上さんは舞台とは縁遠い世界に生きていた。専ら機械修理を職とし、飯塚をはじめ、大阪、福島など、各地で働いた。たまたま、里帰りし泊まっていた嘉穂劇場近くの旅館の関係者が、車の運転手を急募していた劇場を紹介。これが演劇との出合いにつながる。
 「当時、舞台の照明や美術などの担当は、たった二人。それで、運転手の仕事の傍ら、手伝うようになった」。初めて聞く業界用語、手掛けた経験のない舞台の照明法…。井上さんは劇場に住み込みながら、耳学問で同業のプロたちから学んでいったという。
 ■  ■  
 大きな公演の前、井上さんは乗り込んできたスタッフとともに舞台づくりに励む。ときに、開場を急ぐ劇場社長の伊藤英子さん(81)とぶつかることもあるが、「役者が思うような芝居ができる舞台をつくるのが仕事」。信念は曲げられない。
 公演中は、照明機器などのコードが集められた電気室が職場。そして時折、コードに触れてみる。「容量オーバーなどで熱くなっていないか、確認せんと。火を噴くかもしれんから」
 一九二八年、嘉穂劇場の前身「中座」が焼け落ちた原因は、電気室の漏電とされるだけに、気が抜けない。
 舞台そでで働く井上さんの姿は、観客席からは見えない。電気室に張ってある往年のスターたちの色あせたブロマイドだけが、井上さんの仕事ぶりを知っている。
 ◆     ◆
 嘉穂劇場(飯塚市)が六日、創立七十周年を迎えた。だが、ここまでの道のりは決して平たんではなかった。何度もあった廃業の危機を乗り切れたのは、社長の伊藤英子さんの力が大きいが、伊藤さんだけでは切り盛りできない。伊藤さんの脇を固め、劇場を支える“名優”たちを、嘉穂劇場の新世紀の幕開けを飾った水前寺さんのショーに追った。

=2001.2.8 朝刊掲載

     


第2幕・お茶子さん 鳥居さん 坂下さん 江藤さん 吉平さん ----長持ちの秘密は掃除

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 「お弁当を二つちょうだい、お茶も付けて」「お酒ある?」―。嘉穂劇場(飯塚市)で今年一月三十日にあった水前寺清子さんの歌謡ショー。劇場に入って左手にある売店は、お客さんでごった返していた。次々と舞い込む注文に、笑顔で応じるのは「お茶子さん」と呼ばれる女性たちだ。
 四人の「お茶子さん」の前職はさまざま。勤めて二十数年のベテラン、鳥居末子さん(63)は和菓子屋の元製造員。二番目に古い坂下フデ子さん(68)は食堂を営んでいた。二人とも、既に劇場で働いていた知人に誘われた。
 残る二人は元会社員で、江藤信枝さん(66)は、劇場玄関の張り紙を見て応募。吉平光子さん(63)は、シルバー人材センターを介し二年前、採用が決まった。
     
 お茶子さんたちの仕事は、公演当日の売店勤務をはじめ、興行の宣伝用ポスター張りなどいろいろ。そして、昔から最も大事な仕事が掃除。かつて劇場の構造を調べた元・近大九州工学部の桑原三郎教授は「嘉穂劇場が創立七十周年を迎えられた秘密の一つはこまめな補修と、丁寧な掃除」とみる。
 公演の翌日、お茶子さんたちは客席二階から一階、舞台、楽屋とほうきで掃く。ここまでほぼまる一日。二日目がぞうきんがけ。ちょっとでもバケツの水が濁ると、すぐに交換。劇場社長の伊藤英子さん(81)も、とくにこの点は徹底するよう指示している。
 ■  ■  
 「どこで働いても慣れるまで大変だけど、嘉穂劇場の掃除は、業界用語も覚えなならん」。江藤さんは、“テケツ”がチケット売り場を指すとは思いもしなかった。「軽いパート感覚では勤まらない仕事」ともいう。
 しかし、古くから続く劇場で働く者ならではの楽しさも。「公演のある日、仕事の手が空くと、舞台を少しのぞける」と吉平さん。毎年十二月には、みそづくりともちつきがあり、お茶子さんたちにも配られる。
 「寒かった日など、伊藤社長が『きょうはきつくなかったかい』と声をかけてくれる。お母さんみたいですよ」。坂下さんは打ち明ける。
 劇場のにぎわい、華やかな舞台がのぞける仕事場、そして、伊藤さんの心遣い…。鳥居さんはこう思っている。「劇場が好きだから、社長がいいから働いている。私たちがしっかりと掃除するから、嘉穂劇場はいつまでも新しいのよ」

鳥居末子さん 坂下フデ子さん 江藤信枝さん 吉平光子さん

=2001.2.9 朝刊掲載

     


第3幕・重役姉妹 小金丸ワカ子さん 民子さん ----苦労を共に背負って

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 「ちょっと、小金丸の姉さんを呼んで!」。売店の隅で、おなじみさんと座席表をのぞき込んでいた嘉穂劇場の社長、伊藤英子さん(81)が叫んだ。いそいそと駆けつけた小金丸ワカ子さん(72)に何やら話すと、伊藤さんは笑みを浮かべた。
 「三月十日の梅沢富美男の芝居で、常連さんの望んだ席に先約がないか、姉さんに確かめたのよ」。先月三十日にあった水前寺清子さんの歌謡ショー。この日、ワカ子さんはいつも通り、劇場事務所で次の公演の指定席の予約を受け付ける一方、売店でも働いた。
 妹の小金丸民子さん(65)も売店の仕事のほか、客席の清掃やアルバイトの食事づくりなどに奔走。公演のない日は、お茶子さんたちとともに劇場の掃除、宣伝ポスター張りなどにも取り組む。
     
 小金丸さん姉妹は終戦の翌年の一九四六年、劇場を手伝い始めた。相次ぐ両親の死がきっかけだった。二人は、伊藤さんの母の弟の子ども。見かねた伊藤さんの母が引き取ったのだという。
 戦後すぐは、炭鉱の景気もよく、劇場もにぎわった。「でも、お客さんの行儀も悪くてね」と民子さん。悪役が主役をいじめる場面。芝居にもかかわらず、怒った観客が、悪役に卵やミカンを投げつけた。
 また、当時は、禁煙席のなかった時代。今も花道の両端には黒い染みが無数に残るが、「タバコの火を押し付けて消した跡。いくらふいても取れやせん」。民子さんは苦笑する。
 ■  ■  
 だが、六〇年代、時代は暗転する。炭鉱の相次ぐ閉山、テレビの普及や娯楽の多様化。そして、六四年、伊藤さんが創業者の父の死後、最も頼みとしていた姉・千枝子さんが急死する。伊藤さんと嘉穂劇場は追い込まれた。
 翌年初め。小金丸さん姉妹と伊藤さんは夕食後、土間で七輪に当たり暖を取っていた。そっと姉妹が切り出した。「私たちも一生懸命やるから、頑張ろう」。この言葉で、伊藤さんは立ち直った。劇場は救われた。
 「私たちも食べていかなならんかった」。当時を振り返り、民子さんは謙そんするが、伊藤さんは「二人は大恩人。私の右腕、左腕」と、姉妹に絶対の信頼を寄せる。
 「この年になって、劇場で働いてよかったと思えるようになった」とワカ子さん。伊藤さんと苦労を共にした小金丸さん姉妹の劇場人生は、もう半世紀を越えた。

=2001.2.10 朝刊掲載

     


第4幕・後継夫妻 伊藤英昭さん 真奈美さん ----新しい時代の姿模索

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 ずらりと六十五台のパソコンが並ぶ。飯塚市菰田東の近畿大九州短大の一室。助教授の伊藤英昭さん(52)は平日、ここで学生にコンピューターの扱い方などを教える。だが、英昭さんは、もう一つの“仕事場”がある。同市飯塚の嘉穂劇場だ。
 英昭さんは、劇場社長の伊藤英子さん(81)の“息子”。水前寺清子さんの公演があった先月三十日、英昭さんは、舞台機材の搬入にはじまり、正面玄関での入場券整理、最後の戸締まりなど、早朝から夜遅くまで働き通しだった。
 インターネットなど時代の最先端を指導する短大と、江戸時代の芝居小屋の面影を色濃く残す劇場兼自宅。「双方を行き来すると、タイムスリップしている気分になる」。英昭さんは笑う。
     
 実は、英昭さんは一九七五年まで、「国弘」英昭さんだった。大阪の近畿大大学院で建築学を学んだ国弘青年は、同大九州工学部の助手として七三年、飯塚市に着任した。そのときの下宿先が嘉穂劇場。かつて同劇場の構造を調べた九州工学部教授の紹介だった。
 「ほかに探すのも面倒だし、食事も付くからいいか」。これが、英昭さんの人生の転機だった。
 大学の傍ら、劇場を手伝う英昭さんに「一本、芯(しん)が通った」人柄をみた独り身の伊藤英子さんは考えた末、養子に迎えようと決意、国弘家に申し込む。
 「寝耳に水だった。悩んだが、状況に合わせ生きていくのが特技といえば特技なので…」。縁組はまとまった。
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 英昭さんの、劇場と先生の二足のわらじ生活も四半世紀。英子さんが興行会社にお金を支払うときは立ち会うなど、劇場経営の要所を締める。
 一方で新しい試みにも挑む。二年前から始めた団体の劇場見学客の説明は、子育てが一息ついた妻の真奈美さん(43)の担当。昨年六月には、劇場のホームページも立ち上げた。
 しかし嘉穂劇場の行く末を考えると楽観的にもなれない。英昭さんはこう思っている。
 「創立七十周年を迎えられたのは、母にとって嘉穂劇場は父の遺産であり、暮らしの場でもあったから。単にビジネスの場でしかなかったら、残っていなかったかもしれない」と。
 個人で劇場を切り盛りする時代は、そろそろ限界ではないか―。ふとかすめる不安を胸にしまい、英昭さんは真奈美さんとともに新時代の嘉穂劇場を探し続ける。

=2001.2.11 朝刊掲載

     


第5幕・劇場社長 “主役”の伊藤さん語る ----甘え許さず、歩んだ道

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 創立七十周年を六日に迎えた嘉穂劇場(飯塚市)の社長、伊藤英子さん(81)を中心とする「一座」の物語も、いよいよ最終幕。やはり“とり”は、「看板」(主役)の伊藤さんご本人に出番を願うしかない。伊藤さんに、「激動と風雪の七十年」を語ってもらった。
 ―先月三十日の水前寺清子さんの公演で、ずっと劇場内を見て回っていましたが。
 嘉穂劇場は一九三一(昭和六)年に開場しましたが、前身の「中座」は、公演中、火災で焼失しています。だから、公演のある日は、火の用心も兼ねて劇場内を回ります。
 開場時の記憶は、まだ幼かったのでありません。最初の思い出は、三五年ごろか、劇場の「大勘定」(支配人)がお金をごまかしていたことが分かり、激怒した父が辞めさせたことです。
 それからです。私が「テケツ」(チケット売り場)に入ったりし始めたのは。初めて売った前売り券は歌舞伎公演だった気がします。

 ―最も劇場が活気付いていたのは。
 四五年から六十年にかけてです。今は、六、七人の役者さんのお芝居が多いですが、戦後すぐは四、五十人規模のスケールの大きな舞台がありました。でも、いい劇団ばかりとも限りません。公演の口約束だけしてお金だけ受け取った劇団もありました。
 父が四六年に死に、残された家族が、まったくの手探りで劇場経営に乗りだしていたころで、下を向いて泣くことも数多くありました。

 ―もう劇場を手放そうと思ったことは。
 六〇年代になると、炭鉱の閉山が相次ぎ、テレビや車の普及、旅行をはじめとする娯楽の多様化が始まりました。私にとっても筑豊にとってもつらい時代でした。「負けてたまるか」という気持ちだけでは、通じない時代でした。
 姉も六四年に亡くなり、やる気すら起こらず、毎日、泣いていました。売ろうにも結局、敷地が広いものだから買い手もつかない。
 母の弟の子どもだった小金丸姉妹の「何とか頑張ってみよう」という支えが、嘉穂劇場の七十周年につながりました。

 ―その後は順調だったのですか。
 七九年、消防法の改正で防火設備の設置を迫られました。見積もると、費用は当時のお金で最低でも千万円。小さいころから貧乏しているので、借銭(借金)だけはすまいと決めていました。「嘉穂劇場をつぶすのか」という世論に配慮したのか、もし、あのとき、消防署が「少しずつ整えていけばいい」と柔軟な態度を示してくれていなければ、どうなっていたか。
 ―しかし、当時、県からの支援の申し出を断られた。
 知事が一生懸命になってくれ、二千万円の助成が決まっていたそうです。正直、気持ちも揺れました。でも、甘えることを快しとしない性格。「歩ききらんようになったら助けてください」とお断わりしました。

 ―七十周年を迎えられた今、思うことは。
 よくぞ、ここまで来れたなあと。女だからといって甘えは一切、通じない世界でした。仮に、進む道があい路と分かっていても、自分で切り開いていくしかありませんでした。
 芝居やショーが好きなお客さんが今日まで支えてくれたのは言うまでもありません。「おもしろかったよ」と言われると、企画したこちらもうれしくなります。でも、半面、また芝居をせなならんなあ、困ったなあ、とも少し思います。
 劇場の切り盛りは一人ではできません。お茶子さんをはじめ、私を寡黙に支えてくれた家族同然の従業員たちの力があってこそです。本当に感謝しています。

 ―二十一世紀の嘉穂劇場は。
 劇場は、芝居やショーをやってこそ劇場。お寺やお宮ではないし、議論や講演する場でもありません。自分に厳しい姿勢がないと劇場は回せません。行動力、忍耐力、時代の流れを知ることも必要です。口がもつれてしまったり、頭が切れなくなったらもうだめですが、幸い、そうなる暇もないほど、仕事が追いかけてきます。
 背負い切れない苦労を背負ってきました。振り返るとうれしいことは少なく、悲しいことが多かったような気もしますが、それもまた人生かなと、思っています。
 =おわり
 (この連載は筑豊総局・浜田直文が担当しました)

=2001.2.12 朝刊掲載

     


番外編・記者ノート ----もっと誇っていい

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 嘉穂劇場が二月六日に創立七十周年を迎えると聞いて、まず思ったのは、「よく今までもったな」ということだった(劇場の皆さん、すいません)。次いで、「なぜ、七十年も続けられたのか」という疑問がわいた。取材の出発点だった。
 劇場社長の伊藤英子さん(81)については、多くの人が語っている。劇場の中心が伊藤さんであることは、疑いようもない。しかし、いい舞台には、素晴らしい主役のほか、いぶし銀の魅力を放つわき役が欠かせない。
 嘉穂劇場の歴史そのものを一つの舞台と見立ててれば、主役は間違いなく伊藤さんだが、わきを固める“裏方さん”もまた、重要な役回りを演じたのではないか。
 取材を進めるうち、推測は確信に変わった。連載の題を「伊藤英子“一座”の物語」としたのも、このためだ。
     
 だが、実のところ、取材は難しかった。ほとんどの“裏方さん”が寡黙だったからだ。微笑んでうなずいたり、かぶりをふって否定したり―。ぽつり、ぽつりと漏れる言葉をつむいで、日々の仕事ぶりに迫っていくしかなかった。
 そうやって浮かび上がってきたのは、“裏方さん”たちのプロ意識だった。
 井上友市さん(63)は、客席から見えない舞台のそでで劇場の安全をそっと見守り、小金丸民子さん(65)とお茶子さんは、公演のない日、二日がかりの掃除で劇場を磨き上げていた。
 「観客の笑顔を見ることが楽しみ」と小金丸ワカ子さん(72)。“裏方さん”の思いは、この一点に尽きる。
 苦しかった時代でさえ、“官”の支援を断り、「芝居をやってこそ劇場」の信念を貫いてきた伊藤さん。そんな彼女を信じ、客席の笑顔を支えに仕事をこなす“裏方さん”。なぜ、嘉穂劇場が七十周年を迎えられたのか、一つの答えを見つけた気がした。
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 嘉穂劇場の上手、一階の桟敷席には、「特等席」という漆塗りの札がかかる。下手の花道で役者は、この席に向かい見得を切る。かつては、一番の席とされた。
 だが、今、人気は、花道に近い下手の桟敷席か、前から二列目のマス席に移る。嘉穂劇場の舞台と客席の近さを実感できる席だからだ。時代は変わる。
 嘉穂劇場も、伊藤英子さんの息子夫婦、英昭さん(52)と真奈美さん(43)の発案で二年前から、団体見学客への説明を始め、昨年六月には、ホームページも立ち上げた。時代に取り残されない努力を怠らない。
 伊藤英子さんの強烈な個性と、それを黙々と支える“裏方さん”たちとの結束を大きな力に、他者に甘えず、危機を乗り越え、時代とともに歩み続ける嘉穂劇場。
 「伊藤英子“一座”」の取り組みは今後、石炭六法が失効し、息の長い自立への歩みを迫られる筑豊の「新時代」を切り開く上で、手本の一つとなるのではないか。
 考えてみると、今でこそ「博多座」があるものの、あの博多でさえ、古くからの劇場を残せなかった。筑豊は、もっと嘉穂劇場を誇っていい。 (筑豊総局・浜田直文)

=2001.2.14 朝刊掲載

     
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