| 今年、半世紀の節目を迎える九州一周駅伝。選手たちは郷土の期待を担い、数々のドラマを織りなしてきた。走者や周辺の人々の“激走の記憶”に迫る。 |
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「何日もかけて走り継ぐ駅伝が果たして成功するだろうか」
一九五〇(昭和二十五)年、社の幹部から九州を一周する駅伝の実現の可能性を打診された西日本新聞の当時工務局長だった納戸徳重は、九州一周駅伝創設に関する回顧記事でそう語っている。コース設定、選手や裏方の移動、中継点の人手…。通常の競技場内だけでも大変なのに、舞台は九州を巡る。「円滑な運営ができようか」 しかし、この一大イベント成就へ進ませる情熱や機運というものが醸成されつつある時代だった。 日本は戦後の疲弊からようやく立ち直ろうとするころ。一方で、イデオロギー闘争は激化。下山事件や三鷹事件が起きるなど陰うつな世相にあった。「世の中が明るくなることを企画したい」。陸上界にも新聞社側にもその思いが強くなっていた時期だった。 納戸は一九五二年一月、マラソン指導者の金栗四三から「九州一周駅伝を始める話はどうなっているの」と問われ、推進を促された。 ビッグ構想にしゅん巡する納戸とて、駅伝への情熱は長い間持ち続けていた。それはだれより大きかったとさえいえる。 四百、八百メートルの選手だった納戸は一九二四年のパリ五輪出場後の談話で要旨こう語っている。「体格、体力的に短距離は外国人にかなわない。しかし日本人は長距離なら練習次第で有利に争えるだろう。持久力は小柄の者が優れていることが多いからだ。持久力をつけるには駅伝がいい。タスキを継ぐ駅伝は責任感が必要で、苦しさに耐え続けねばならない。それが持久力養成になる」 その後納戸が一九二八年の久留米―福岡間中学駅伝を皮切りに、九州各地の駅伝を企画し、育ててきたのはこの考えからだった。 納戸が九州一周駅伝実現へ意を決してからは、推進態勢は次々と固められた。納戸は当時の西日本新聞・運動部長の正木敬造とコースの実地調査、設定に当たるなど実施計画を詰めていった。 コース全長1090・29キロ、70区間、日程十日。一県二十四人。実施の社告が出たのは、一九五二年四月二十八日。対日平和条約発効の日だった。
第二次大戦の惨禍から、世の中が立ち直り元気を見せ始めたこの年の十一月十五日、九州一周駅伝は、長崎県庁前で第一回大会の号砲が鳴らされた。晩秋の九州路は熱走ドラマに沸き立った。 |