連帯が核兵器を包囲する
 核兵器がどのような現実をもたらすかを知ることは、国際的な安全保障の枠組みや、国内の政策のあり方を考えていくうえで、貴重な礎を用意する。
 二十一世紀を間近にしたいま、核を頂点にした惨禍の時代を転換させていく英知を求めようとするならば、あらためて原爆のもたらすものに目を向けることが必要だろう。
 広島からリレーされた世界平和連帯都市市長会議が八日、長崎で始まった。九日の原爆忌にアピールを発表する。
 会議初日に諸外国からの参加者が二人の被爆者代表と懇談した。
 吉田孝子さん(70)は、爆心地から七百メートルで被爆した。奇跡的に助かったが、一緒に被爆した両親、祖父は相次いで他界した。吉田さんはいまも動脈瘤(りゅう)など、体調の不安にさいなまれている。
 「五十二年を経ても、放射線の影響は、体のあちこちに表れている」と、原爆の恐怖から逃れられぬ苦悩を語った。
 懇談のアドバイザー役の長崎大教授、朝長万左男さんが専門家の立場から口を添える。「心の奥底にどのような傷を負っているのか。壮年期を迎える被爆二世に遺伝的影響があるのかどうか。原爆後障害研究は未解明な部分を多く残している」
 各都市の参加者からは、次のような声が寄せられた。
 「証言を聞いて平和の行動へ決意を固めることができた。(核実験反対の)南太平洋の国々と結び付いた運動を強めたい」(サン・ドニ市=フランス)「欧州でも膨大な惨劇があった。原爆についても投下の正当化論があるが、市民が犠牲になる戦争の正当化は決して許されない」(マルザボット市=イタリア)
 原爆被害は、アジアに関しては日本の加害との関係で、複雑な視線が投げかけられている。懇談では「アジアの声」は聞かれなかった。

 核の恐怖の深淵をのぞく

 ただ、時間を超えて深刻な影響を与え続ける、その非人道性については、会議参加者の胸に焼き付いたのではないか。
 長崎、広島両市長の呼び掛けで始まった同会議には、海外三十二カ国七十三都市、国内二十七都市の市長、議員らが参加した。
 「核兵器廃絶のために、国の壁を超えて都市の連帯を図る」ことを目標にしているが、会議のあり方に悩みがあることは、事務局を務める広島市側も認めている。
 幅広い連帯を目指すため、核問題だけでなく飢餓、貧困、人権、環境問題などに論議のテーマを広げている。平和の問題に多角的な取り組みをするとの狙いは、確かに都市レベルの活動として理にかなっている。ただ、半面で核問題が拡散しかねない恐れがある。
 テーマの広がりの中に、どう凝縮を図っていくかが長崎、広島両市に課せられた課題だ。
 そうした難しさがあるとしても、都市の連帯は核兵器を決して手放そうとしない核大国の包囲網になり得る力を秘めている。
 何よりも、被爆者との懇談のように、核兵器の恐怖の深淵(しんえん)を、海外の人々がじかにのぞき込む機会は、極めて貴重なものだ。
 参加者が世界各地にそれを持ち帰ることによって、市民レベルの新しい取り組みが始まる可能性がある。会議の活動とは直接リンクしていないが、多くの都市が被爆地を知ることは、自分の町での原爆展開催のきっかけとなるだろう。
 今年三月にイタリアのアッシジ、五月にはスペインのバルセロナで原爆展の開催にこぎつけたが、両市は会議加盟都市である。ゲルニカ(スペイン)も開催に意欲的だ。
 国内に目を転じてみよう。都市レベルでの取り組みは、決して低調ではない。
 「国会に働きかけても、一向にことが進まない」といういらだたしい現実に、しびれを切らした形で、千葉県浦安市議会が六月に一つの決議をした。
 核兵器禁止国際条約の「早期交渉開始と今世紀中の締結を求める決議」で、全国の地方議会に先べんをつけるものだ。
 核兵器禁止条約は、いま非同盟国を中心にした核反対運動の中心テーマとなっている。
 その契機となったのは、九五年に国際司法裁判所が出した「核兵器使用は一般的には違法」との勧告的意見である。この判断を受けて昨年末、国連総会で加盟国に核兵器禁止条約の策定交渉を九七年から始めるよう要請する決議が採択された。
 しかし、核保有国は決議に反対し、日本政府は棄権した。交渉開始の見通しは立っていない。それを動かすことが、国際的な非政府組織(NGO)を含めた市民レベル運動の「標的」になっている。
 浦安市は非核宣言自治体の一つで、決議もその延長線にあるが、提案者の女性市議(保守系)は「抽象的、きれいごとの非核宣言だけではだめだ。具体的に目標を絞る必要がある」と、決議の狙いを語る。

 地に足ついた非核自治体を

 非核宣言自治体は確実に広がりをみせている。全自治体数の三分の二を超える二千二百七十四に上る。  数だけでなく、その内実が問われているのだが、昨年六月、行政として非核自治体宣言をした福岡県水巻町のようなケースもある。  炭鉱地帯だった同町には戦前、外国人捕虜収容所があり、オランダ人、イギリス人捕虜らが強制労働に従事させられた。この歴史を踏まえ、オランダとの間に中学生のホームステイ交流が開始され、今年は六日の広島原爆忌に初めて長崎の被爆者を招いて講演会を開いた。地に足をつけようとする試みと言える。  確かに、国際社会も日本国内でも「核のない世界」への壁は厚い。広島市長が平和宣言で「核の傘」に頼らぬ安全保障政策を求めたのに対し、橋本竜太郎首相は「被爆地の思いは理解できる」としただけだ。  壁は厚くとも、しかし、核廃絶のさまざまな運動は続いている。  被爆者が痛みを語る、それを胸に刻み込んだ人々の輪が広がる。アジアに与えた痛みは、私たちが担わなければならない。  九日、長崎は被爆五十二年目の原爆忌を迎える。今後に確かな希望があることを、犠牲になった人々に伝えたいと思う。

1997年8月9日朝刊





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