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■<上>苦悩 「火災」に絶たれた希望 |
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■否定とは裏腹に
居並ぶ労働組合幹部を前に、経営陣は立ち上がって深く頭を下げた。「社員、家族、地域社会全体に大変なご迷惑をかける形になりました」
十二日午後、福岡市であった松島炭鉱(福岡市)労使による臨時経営協議会。冒頭に田代勉社長が、九州に唯一残る炭鉱、池島炭鉱(長崎県外海町)の十一月二十九日閉山を提案した瞬間だった。
労組の井手口二郎代表は提案書を見て「鳥肌がたった。まさかと思った」と言う。今年五月に浮上した池島鉱の閉山問題だが、会社側は「事実無根」と回答し続けていたからだ。しかも協議会の開催召集は前日の十一日。唐突にみえる会社の方針転換だが、かたくなに閉山を否定し続けてきた裏で、存続を断念せざるを得ない“事件”が起きていた。それは現場で働く炭鉱員にも先行きを予感させるものだった。
●池島炭鉱
(松島炭鉱)の歩み
1913 三井鉱山が旧松島炭鉱(現三井松島産業)を設立。松島(長崎県大瀬戸町)で本格採炭開始
1934 松島の坑内出水で54人死亡
1935 大島(同大島町)の開発に着手、翌年出炭
1952 池島(同外海町)の開発に着手
1959 池島鉱で営業出炭開始
1970 大島鉱業所が閉山
1971 蟇島(ひきしま)区域の開発に着手
1973 松島炭鉱が松島興産に商号変更。石炭生産部門を分離して新たに現松島炭鉱を設立
1976 蟇島入気立て坑完成
1983 松島興産と三井鉱山建材販売(東京)合併、三井松島産業に商号変更
2000 池島鉱で坑内火災、5カ月間本格出炭中止
2001 池島鉱の閉山提案
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■出炭確保難しく
「これは厳しいな」。今夏。池島鉱内に炭鉱の社員と入った九州鉱山保安監督部職員たちは口々につぶやいた。坑内が水浸しになっていた。
その坑内は、本年度からの主力の採炭場所に期待していた「払い」。しかし六月ごろ、毎分五立方メートルという大量の出水があり、その後も採掘可能なまでには水量は減らず、採炭を断念する。
当時、会社は閉山をにらみながら、大幅な減産や合理化による炭鉱存続も模索していた。会社首脳が「今何を言っても誤解される」と漏らした時期に重なる。しかし、さらに別の坑道でも断層が見つかり、満足な出炭が確保できない状態となり、選択肢は尽きた。
誤算の始まりは、大幅減産の原因となった昨年二月の坑内火災。一九六六年に同じ坑内火災で多額の損失を出し、大島鉱業所の閉山に踏み切った松島興産(現三井松島産業)元社長の武富敏治さん=福岡市在住=は「あの火災が起きた時点で、池島鉱の命運は尽きていた」とみる。
■国に突き放され
「われわれには株主も大切なんだ」。会見で、苦渋に満ちた表情で思わず漏らした松島炭鉱の親会社、三井松島産業(福岡市)の多河喜史社長の言葉は、上場企業経営者としての本音だった。
経済論理からは、既に国内炭はその価値を失っていたのは事実だ。三井松島産業に融資する金融機関からは、今春から「(短期資金の)借り換えはご遠慮願いたい」という要請が続き、唯一のユーザーである電力会社は炭鉱存続を求める声を上げなかった。五十四億円の債務超過に陥り、経営改善が見込めない炭鉱を維持していく余力を三井松島産業グループも持っていなかった。
さらに、政府も、連結決算対象外にすることを認めてきた松島炭鉱の例外扱いを「ルールにのっとってもらうのが筋」(資源エネルギー庁)と、例外措置の継続を求めてきた会社の要請をあっさり突き返した。
「石炭の将来性はまだあるはず」。多河社長は会見の最後に、閉山決定を前に揺れた気持ちを漏らした。だがそのために費やす時間や余力は、もう残っていなかった。
◇ ◇
九州最後の炭鉱、池島炭鉱の閉山が事実上決まった。日本の近代を支えてきた九州の石炭産業がついに終えんのときを迎える。「閉山決定」を巡る会社、地元、国三者の思惑と今後の課題を探る。
10月13日朝刊掲載
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