| 「爆心の丘」に座る平和祈念像
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| のしかかる虚像 |
■奈良の大仏
九日、長崎市の平和公園で原爆犠牲者追悼慰霊式が行われる。原爆投下の午前十一時二分、平和祈念像に向かって参列者がいっせいに頭(こうべ)を垂れる。高さ九・七メートル、重量三〇トンの青銅製男子裸体像だ。長崎県南有馬町出身の彫塑家北村西望が一九五五(昭和三十)年八月につくり上げた。
天を指す右手は原爆の脅威、水平に伸ばした左手は平和への希求。柔和な顔は神の愛、仏の愛を象徴し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥(めい)福を祈る―とされる。
しかし、犠牲者への冥福は当然としても、そのことだけで像は建立されたわけではない。観光長崎の新名所をつくりたい市当局と、像制作で永遠に自分の名を残したい西望の「過剰な自意識」が一体となって出来上がったものだった。
そもそも祈念像の基本的な理念はどんなものだったのか。五〇年、長崎市の関係者を前に西望は、ぜひ自分につくらせてほしいと次のように熱弁をふるう。
「奈良時代に朝廷の下に全国を統一して日本を仏教国家にするために奈良の大仏がつくられた。同じように平和運動を進めるためにも奈良の大仏にならって出来るだけ大きな男神像をつくるべきだ。女神ではダメ、絶対男神だ。大きさは力である」。平和祈念像の下敷きは、奈良の大仏だった。そして像の内面的意味よりも外観(大きいこと)が絶対的価値だったのである。
■写真の背景
完成時にはこうも言っている。「後世に国宝として残るようなものに…。私はこれから数千年の後まで、この像とともに死なずに済む芸術家になった」。
完成から間もなく半世紀。像は期待通り長崎観光の名所として連日賑(にぎ)わっている。だが、その賑わいは写真撮影に格好の「背景としての賑わい」でしかない。
「差別と原爆」を撃ち続けた作家井上光晴は「なぜ長崎の人はもっと怒らないのか。怒り方が少ない。原爆まで妙な観光にしてしまって」(季刊「長崎の証言」3号)と嘆いた。
核実験に抗議する市民らの座り込みでさえ、原爆落下中心地ではなく、祈念像前である。観光客が多いこの場所がアピール効果が大きいとの判断からという。
九六年、長崎市は原爆投下中心碑を撤去して新しいモニュメントをつくることを唐突に発表した。制作者は長崎市出身の彫刻家富永直樹。西望の弟子で、祈念像制作に加わった一人である。富永が作ったのは、これまた台座も含め高さ約九メートルの巨大母子像、「第二の祈念像」の出現であった。
しかも、スカートのあちこちには金ぱくのバラが飾られ、どうみても「被爆で傷ついた子供を抱く母」には縁遠い。被爆者らからの強い反対に市は当初計画を断念したものの、いまも中心碑のすぐそばに立つ。
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| 原爆投下中心碑の撤去・移設に反対して碑を「人間の鎖」で取り囲む長崎市民(97年8月9日。末永浩氏提供)
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■おとしめる
広島の原爆ドームが市民の日常風景の中に溶け込み、怒りの象徴になっているのに比して、廃墟(はいきよ)の浦上天主堂を取り壊した長崎には目に見える「語り部」が存在しない。それに代わるものとして、長崎市は平和祈念像をつくり、母子像をつくった。しかし、所詮(しよせん)は“虚像”でしかない。それでも制作者に平和への燃えるような渇望があればまだ救われる。だが…。
八〇年八月五日付の本紙文化面に西望のインタビュー記事が掲載されている。インタビューの最後に記者が「ところで、真の平和は実現するのでしょうか」と尋ねたのに対し、西望はこう答えている。「ハッハッハ。こりゃもうどうしてもダメ。人間は欲張りだから。アッハッハッ…」。彼の人間観、平和観が端的に表現されている。
しかし、祈念像は「欲張りな人間」の愚かさを戒めるためにこそ建立したのではなかったのか。この言葉が像をおとしめ、実は制作者を「自己否定」していることに西望は全く気づいていない。被爆地は芸術家たちのアトリエではないのである。
(文中敬称略)
(地域報道センター・馬場周一郎)
2002.08.09掲載
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