| 暴力団をはじめ組織による暴力、テロ事件が後を絶たない。一方で、組織の報復を恐れず、体験を語り始めた被害者や遺族も増えている。シリーズ「犯罪被害者の人権を考える」の第九部は組織暴力の被害者を追う。(社会部・傍示文昭、山崎健が担当します) | |||||||||||||||
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| ご意見をお寄せください。あて先は〒810―8721(住所不要)、西日本新聞社社会部「犯罪被害者」取材班。ファクス=092(711)6246。 電子メールアドレス=syakai@nishinippon.co.jp |
| 第1回・巻き添え | ----市民襲う無法の銃弾 納得できぬ傷背負い---- |
鮮やかに色付いたイチョウが庭先で揺れる。玄関の呼び鈴を押しても応答はなかった。「あの事件の後、家族の姿はほとんど見なくなった」と隣人はいう。
十一月初旬。指定暴力団山口組最高幹部射殺事件の巻き添えとなって昨年九月に死亡した兵庫県芦屋市、歯科医平井博さん=当時(69)=の家族を訪ねた。
標高五百メートル。周囲には別荘も点在する山間部の閑静な住宅地。紅葉に覆われた平井さんの自宅は、深まる秋の風景の中に埋没するように静まり返っていた。
荷造りテープで隠された玄関の表札。玄関先を見張る防犯用の監視カメラ…。その一つひとつが事件の後遺症を物語っているように見えた。
九月下旬、平井さんの家族に取材を申し入れる手紙を郵送した。今年一月から展開してきたシリーズ「犯罪被害者の人権を考える」の記事を同封した。
返事はなかった。電話をかけても、呼び出し音がいつまでも鳴り響いた。
平井さんが開業していた同県西宮市の歯科医院は、看板が変わっていた。今年六月から、機器ごと医院を借りているという歯科医は「知人を介したので、平井さんの家族については何も聞いていない」という。結局、平井さんの家族には会えなかった。
「捜査の進展がない状況では気持ちの整理のつけようがありません。日々を過ごしていくのに精いっぱいで、何かを話す心のゆとりもありません」
平井さんの妻(65)は一周忌の前、捜査員にそう語ったという。
一九九二年三月、暴力団対策法が施行された。以来、暴力団抗争は沈静化した。無関係の市民が抗争事件の巻き添えで死亡したのは同法施行後初めてだった。
だが、犠牲者は平井さん一人にとどまらなかった。この事件が引き金となって全国で三十五件の報復抗争が発生。熊本市の病院看護士(31)は組員と間違われてあごに銃弾を受け、三カ月入院した。
「幸い今年に入って仕事にも復帰し、生活する上ではほとんど支障はないところまで回復しました」
十月中旬、看護士は電話でそう話してくれた。いったんは会うことにも同意してくれたが、実現はしなかった。
「やはり会って話をするのはまだ…。申し訳ない」
丁重な断りの電話の向こうから、癒(い)えない心の傷の深さが伝わった。
「一周忌の前に岐阜県に引っ越したと聞いたよ」
平井さんの家族の近況を知らせてくれたのは、シリーズの第三部「私はこう動く」で紹介した兵庫県尼崎市の堀江ひとみさん(63)だった。十三年前、暴力団抗争の巻き添えで一人娘を殺された。お互いの自宅も近い。事件以来、同じ境遇に置かれた平井さんの家族を気にかけていた。
「引っ越しの前に、警察を通して『お参りさせてほしい』とお願いしたが、捜査員の答えは『無理でしょうね』だった。外で物音がしただけで恐怖心が走るため防犯カメラを付け、親族との付き合いもすべて断っているとも聞いたし…」
堀江さんは、六年前から「娘の死を無にしないために」と人前で体験を語り始めた。全国から講演依頼が相次いでいる。各地で知り合った犯罪被害者との交流も始まった。十二月二日には、堀江さんら全国の遺族や弁護士が中心となって被害者の民事訴訟を支援する「暴力団被害者救援基金」が設立される。
「いつの日か、平井さんの家族も仲間に入ってもらえたらうれしい」。堀江さんはそう願う。
「でも、私だって体験を話せるようになるまでに七年かかった。今は、そっとしておいてあげるしかないよ」
=1998.11.22朝刊掲載
| 山口組最高幹部射殺事件 昨年8月28日午後、神戸市中央区のホテル4階ロビーにある喫茶店に暴力団員風の男4人が乱入し、歓談中だった山口組若頭の宅見勝・宅見組長=当時(61)=を射殺した。流れ弾が隣の席にいた平井博さんの後頭部を貫通。平井さんは重体で病院に運び込まれ、6日後の9月3日早朝、一度も意識が戻らないまま死亡した。兵庫県警は内部抗争とみて捜査しているが、実行容疑者が特定されないなど未解決のまま。 |
| 第2回・乗っ取り | --「法は誰のために…」----- |
十月初旬、気丈だった夫(73)が倒れた。脳梗塞(こうそく)だった。
九州北部のある街で飲食店を経営する相本和子さん(64)=仮名=は、救急車に横たわる夫に寄り添いながら、身もだえるような二十五年の歳月を思わずにはいられなかった。
平穏な余生のためにと考えたビル建設。暴力団関係者の入居。度重なる嫌がらせ。裁判による闘い。そして、身をもって知った法の無力さ…。
和子さんの脳裏で、いつか報われると信じながら闘ってきた日々が浮かんでは消えた。
「このまま死なせないよ。死ぬもんか」
和子さんは夫の手を強く握り締めながら、そう心の中でつぶやき続けた。
一九七〇年代前半、相本さん夫婦は所有地に六階建てのビルを建てた。二階で飲食店をやりながら、ビルのテナント料で余生を送ることを夢見た。
建設を請け負った建設会社と施工代金の支払いをめぐってトラブルになった。裁判にまでなったが、ビルを当面、共同所有することで和解が成立した。
本当の試練は、その五年後にやってきた。三、四階に入居していた遊技場経営者が、借金のかたに経営権を譲渡したのがきっかけだった。譲渡先は、暴力団組長の兄弟が経営する金融会社。暴力団のフロント企業の疑いが強かった。さまざまな手段で入居店舗への嫌がらせが始まった。
電力会社をだましてビルへの送電をストップさせたり、三階を汚水漏れにして一、二階を水浸しにしたり…。暴力団組員も度々ビルに出入りした。
ある日、飲食店の外灯スタンドが何者かに壊された。和子さんが警察に通報すると、居合わせた組長がすごんだ。「貴様、火炎放射器で焼き殺すぞ」
翌秋、金融会社は勝手に「自社ビル」と名乗り、落成式を催した。ズラリと並んだ暴力団関係者の花輪が夫婦の恐怖心をあおった。
「ビル乗っ取り」。金融会社の目的がはっきりしたのは、ビル所有権が夫婦に移ることになっていた九〇年十一月だった。
金融会社は建設会社に圧力をかけ、強引に無期限の賃貸借契約を結んだ。賃借権も登記した。所有権が相本さんに移っても、前の所有者が結んだ賃貸借契約の方が優先される借地借家法を悪用した手口―。
「この日が来れば平穏な生活が訪れると信じていたからこそ、真綿で首を絞めるような嫌がらせにも耐えられたのに…」
がく然とする夫婦は、気を取り直して退去を求める訴訟に望みを託した。「裁判所はきっと分かってくれる」。そう信じたが、借地借家法はここでも夫婦の願いを砕いた。
昨年、言い渡された地裁判決は、夫婦側の全面敗訴。暴力団組長らの度重なる脅迫行為も「証拠がない」と退けられた。
「いったい法律は誰(だれ)のためにあるの」
やり場のない怒りとむなしさだけが残った。
バブル経済期、暴力団が「地上げ」に絡んで土地取引に介在する事件が横行した。今、経済事情は変わっても、暴力団が「土地」や「建物」に群がる構図は同じだ。
債権回収妨害、競売入札妨害、担保物件の占有妨害、会社整理に付け込んだ企業乗っ取り…。
「なかでも借地借家法を逆手に取った居座り、立ち退き料の要求、乗っ取りは、古典的な手法ながら、今も暴力団の典型的な手口であることに変わりはない」。暴力団犯罪に詳しい福岡市の弁護士はこう解説する。
夫婦は当然のように控訴した。和子さんは、今も入院が続く夫とともに生涯をかけて闘うつもりだ。だが、逆転勝訴への期待の前には借地借家法が立ちふさがる。その壁は、想像以上に高く、険しい。=1998.11.23朝刊掲載
| 暴力団フロント企業 暴力団に資金を提供するなど組織の維持、運営に積極的に協力する企業。(1)暴力団が設立し、その経営に直接関与している(2)暴力団と関係の深い者が経営している―の2タイプがある。かつては「企業舎弟」と呼ばれた。警察庁によると、1997年に何らかの犯罪で摘発されたフロント企業は234社で、業種は建設、不動産、飲食、小売り、風俗、金融、運輸など各分野に広がっている。 |