| 暴力団をはじめ組織による暴力、テロ事件が後を絶たない。一方で、組織の報復を恐れず、体験を語り始めた被害者や遺族も増えている。シリーズ「犯罪被害者の人権を考える」の第九部は組織暴力の被害者を追う。(社会部・傍示文昭、山崎健が担当します) | |||||||||||||||
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| 第6回・お礼参り | 怒りを勇気に変えて |
右ほおに残る、長さ十五センチの傷あとが事件の残像を伝える。
「ほとんど目立たんでしょ? 再手術でこんだけきれいになったけど、はじめは縫い目のあとが大きゅう残ってね。あんときは、もう子どもの授業参観にも行けんと覚悟したですよ」
佐賀県伊万里市の川久保セツ子さん(51)は笑いながら当時を振り返った。そして真顔でこう付け加えた。
「これで逆に闘志に火がつきました。このままめいったら、やつらの思うつぼ。意地でも負けんぞと腹が据わりましたね」
一九八六年十月。伊万里市の暴力団石政組は自動車運転代理業者六社を集めて組合を組織しようとした。
セツ子さんは、その二年前から夫の文昭さん(47)と二人で「マイカー運転代行」を営んでいた。石政組は脅しとすかしを交えながら夫婦に組合加入を迫った。組合を操り、資金源にしようとする狙いを察知した。夫婦は拒み、脅迫容疑で警察に被害届を出した。
間もなく、石政組は組織ぐるみで“お礼参り”を開始した。
「殺すぞ」「みんな死ね」
受話器を取ると、いつも一言だけで切れた。自宅に猫の死がいが投げ込まれた。営業車が何度も傷つけられた。運転手は「辞めんとどうなっても知らんぞ」と脅され、辞める者もいた。
警察は巡回パトロールや警備を強化してくれた。が、石政組はその間隙(かんげき)を縫うように嫌がらせや脅迫を繰り返した。
八九年十月。祭りの日の夜だった。
セツ子さんは代行運転の依頼を受け、繁華街に車を走らせた。路地で待つと窓ガラスをたたく音がした。
「話のあるけん降りてくれんね」。石政組の若い組員だった。気付いたときにはカッターナイフの刃先が顔に突きつけられていた。
両手でその刃を払いのけようとした。刃先が右ほおの皮膚に食い込みながらせり上がり、鮮血が飛んだ。ザックリと切れた傷口からはほお骨がのぞいていた。
救急車に乗り込むとき、祭りの人込みに向けて叫んだ。「石政、女ばやっつけて、うれしかか」「こんまま黙ると思うな」
セツ子さんは痛みを怒りに変え、怖さを勇気に変えた。文昭さんも「つぶすかつぶされるかの闘いだと覚悟ができた」という。五人の子どもを抱えた夫婦の、命をかけた“反撃”の始まりだった。
夫婦は佐賀県警本部長に直訴状を送った。すぐに石政組壊滅作戦が始まった。組員は根こそぎ逮捕されたが、組長は「共謀」から逃れ続けた。
九四年三月。佐賀地裁は損害賠償請求訴訟で全国の先駆けとなる判決を言い渡した。
「一連の脅迫、傷害は、(石政組の)組長以下、組織ぐるみで行われた共同不法行為」
刑事事件としては立件できない「共謀」の壁を、民事訴訟ならば、事実の積み上げによって超えることができることが立証された。後に続く訴訟に勇気を与える画期的な判決だった。
判決はその年の暮れ、福岡高裁で確定した。損害賠償の認容額は千八百三十万円。川久保さん夫婦と弁護士十人が協力して勝ち取った勝利だった。
不満もある。石政組の巧みな財産分与によって、回収できた賠償金は約七割でしかない。石政組も存在する。だが、後悔はしていない。「闘いは終わっとらんけど、闘ったからこそ今があるとですよ」。セツ子さんはそう力を込めた。
川久保さん夫婦は本業の傍ら、暴力追放運動の講師として全国から招かれ、体験を語り続けている。昔も今も「二人だからできる」との思いは変わらない。 =1998.11.27朝刊掲載
| 暴力団損害賠償請求訴訟暴力団組員の事件に絡んで組長の使用者責任(民法715条)や共同不法行為責任(同719条)を問う訴訟は現在、全国で9件が係争中。沖縄県那覇市で1990年11月、組員と間違われた高校生=当時(19)=が射殺された事件で両親が組長らに損害賠償を求めた訴訟では、一審(96年10月)は全国で初めて使用者責任を認めた。二審(97年12月)では使用者責任は認められなかったが、共同不法行為を認定した。組長側が上告中。 |
| 第7回 ・言論弾圧 | 「口封じ」の風潮今も |
今年二月、新聞の片隅に小さな死亡記事が載った。
「正気塾の名誉塾長が病死」
長崎県警が「政治結社を装った暴力集団」と呼んだ右翼団体を率いた若島征四郎名誉塾長の死。死因は肝臓がん。五十四歳だった。
「個人的に恨みや憎しみはない。こういう言い方をすると、また誤解されるかもしれないが…。強いて言えば、最後まで和解できなかったことが残念だということかな」
前長崎市長の本島等さん(76)はこう語った。
市長時代の一九九〇年一月十八日。正気塾幹部から短銃で胸を撃たれた。八八年十二月、市議会で「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言したのがきっかけだった。
言論を暴力で封じようとする動きには「毅然(きぜん)と闘うしかない」という。発言を撤回するつもりもない。
なのに、なぜ「和解」なのか―。
本島さんが撃たれる半年ほど前、実際に「和解」の話はあった。「ほぼ同時期に、二つのルートから」。本島さんはそう述懐する。
一人は双方と面識のある地元議員。もう一人は、正気塾に強い影響力を持つ東京の評論家。とくに評論家は熱心だった。
「何とか話し合いで解決したほうがいい。協力しますよ」
本島さんは熟考の末、申し入れをやんわりと断った。相手は全国の右翼。一団体とだけ話し合っても事態が沈静化する保証はない。「あの時期に裏取引のような交渉はすべきではないと思った」のも理由の一つだった。
「あのとき、話し合いに応じなかったことを悔やんでいるわけではない。ただ考えの異なる者同士がどこかで話し合い、認め合う努力をしなければ、問題は何も解決しない。今もそう思う」
本島さんはそれが言論テロを防ぐ道だと信じる。
しかし、そうした「理想」と現実との隔たりは、あまりにも大きい。本島さんは名誉塾長の死まで「和解」どころか、対話の機会さえないままだった。
組織暴力は、暴力団だけではない。意見や考え方の違いを組織ぐるみで封殺しようとする動きは、むしろ右翼が中心だ。街宣車での嫌がらせ、問答無用のテロ、脅迫、怪文書…。
八七年五月、兵庫県西宮市にある朝日新聞社阪神支局が襲撃され、記者一人が死亡、一人が重傷を負った事件は、未解決のまま十一年以上になる。犯行声明に登場する「赤報隊」や「日本民族独立義勇軍」はその組織すら解明されていない。
九六年夏から秋にかけて従軍慰安婦問題を教科書に記載した出版社などに相次いで脅迫文が送り付けられた。いずれの文面にも共通点があった。「赤報隊精神」という文字だった。
昨年二月には、芥川賞を受賞したばかりの在日韓国人作家、柳美里さんのサイン会が一本の脅迫電話で中止に追い込まれた。電話の男は「独立義勇軍という新右翼だ」と名乗った。
亡霊のように現れては消える「赤報隊」や「独立義勇軍」。阪神支局で無言のまま散弾銃を撃った不気味な「影」が、時を超え、相手を変えて言論を封じ込めようとしているように映る。
長崎市街地を見下ろす高台にある閑静な住宅街。その一角に本島さんの現在の住まいがある。
そこで講演行脚と原稿執筆の日々を送る。テーマは「原爆と戦争」。頼まれれば、どこへでも出かける。全国各地での講演は、この三年で百五十回を超えた。
「このまま口を閉ざせば言論を暴力で弾圧しようとする連中をはびこらせることになる。堂々と行くしかない」
持論を展開し続ける精神はみじんも衰えていない。
=1998.11.29朝刊掲載
| 右翼の情勢 公安当局によると、国内の右翼は900団体前後で12万人余り。このうち活発に活動しているのは2万人程度。団体数については、分派したり、個人でいくつもの団体をつくったりしており、実態は定かではない。思想・政治活動を地道に続ける団体がある一方、最近は暴力団と密接な関係を持つ団体が増えている。警察庁によると、右翼関係者から押収した銃器類は昨年までの4年間で約450丁に上った。 |
| 8完・必要悪 | 「需要」断つ姿勢こそ |
暴力団が見えにくくなったといわれる。
組事務所から代紋や看板が消え、襟元に光る金ピカのバッジも見なくなった。歓楽街で、それと分かる格好で、肩で風切る姿も減った。暴力団対策法の施行(一九九二年三月)前後から、暴力団の「風景」は明らかに変わった。
だが、暴力団が消えたわけでは決してない。
債権回収、示談介入、売春あっせん、用心棒、とばく…。依然、暴力団は人の欲望のすきまを埋める「闇(やみ)のサービス産業」として君臨する。
六万人以上いた構成員は四万人台に減ったが、逆に暴力団関係者(準構成員)の数は一万人近く増えている。暴力団の潜在勢力は、暴対法施行から六年余が経過した今も、ほとんど変わっていないのが実情だ。
「見えにくくなったことで、それと気付いたときには既に侵食されていたというケースも多く、対応が厄介になった」。多数の民事介入暴力を手がける福岡市の弁護士はこう指摘する。
裏社会から表社会に進出するきっかけとなったのはバブル経済だといわれる。
金融機関などの依頼で「地上げ屋」となり、株取引や買い占めに奔走する「経済やくざ」が登場した。バブル崩壊後は暴対法施行が重なり、「フロント企業」として企業活動に本格参入し、力を背景に融資金の踏み倒しに躍起になった。
今は、バブルの“つめあと”である不良債権の回収に介入する。暴力団と密接な関係を持つ総会屋への大手企業の利益供与事件も相次いで発覚し、暴力団と財界のつながりが暴露された。経済事情は変わっても、表社会の「需要」は存在する。
こうした実態を前に、連載の第一回で紹介した兵庫県尼崎市の堀江ひとみさん(63)は言う。
「社会が暴力団を『必要悪』として容認しているのではないか、企業や政治家が暴力団を養っているのではないか、という気さえすることがある」<
「必要悪」とは、「悪」ではあるが、社会の現状から判断すれば、やむを得ず必要とされる存在。今回、暴力団犯罪や民事介入暴力の被害者を追いながら取材班が痛感したことも、「必要悪」との考え方が今も、歴然と社会に根差しているということだった。
戦後最悪の経済不況は、暴力団の資金獲得活動にもダメージを与えている。警察の取り締まりの強化で資金源も先細りしている。壊滅の好機のようにも見えるが、「必要悪」が存在する限り問題は簡単ではない。
「暴力団や総会屋と癒着して社長に上り詰めた人がいる。まず、社会的地位の高い人間が襟を正さなければ、一見しただけでは分からないように忍び寄って来る暴力団を排除することはできない」
取材班にファクスで意見を届けてくれた福岡県の男性(78)は、こう強調する。
暴対法施行直後に取材した暴力団幹部の言葉が、今も耳に残る。
「堅気がだれも振り向かなくなったら、おれたちは消えるしかない」
一部ではあっても、手っ取り早く暴力に解決を求めようとする「堅気」の企業や政治家、市民が存在する限り、暴力団はなくならない。そして、暴力団が存在する限り、いつ、だれが組織暴力の被害者になるのか分からないという現実も変わらない。
「決して人ごととは思わないでほしい」
組織暴力と闘い、その体験を語り始めた被害者の訴えをどう受け止めるのか。新たな被害を生まないためには、私たち一人ひとりが「必要悪」という考えを断つことからしか、一歩を踏み出せない。=おわり
(社会部・傍示文昭、山崎健が担当しました)
=1998.11.29朝刊掲載
| 暴力団の金融・不良債権関連犯罪 警察庁によると、昨年1年間に摘発した関連事件は79件。内訳は債権回収段階が77件、融資段階が2件。大半を競売入札妨害、強制執行妨害が占めている。1994年は8件、95年は18件だったが、都道府県警が捜査体制を強化したこともあり、96年の摘発は55件と急増した。同時に全国の警察は、銀行の債権回収担当者を対象としたセミナーを開くなど、民間と一体となった暴力団排除に取り組んでいる。 |