1999年1月〜8月 西日本新聞掲載

【社説】長崎原爆 素朴さからの再出発を

 あの日のつらい記憶をたどるように目をつむる人、ハンカチで涙をぬぐう女性、舞台を凝視する子供たち…。
 長崎原爆の日を前に長崎市内で開かれた吉永小百合さんの原爆詩朗読会「第二楽章 長崎から」を聴いた。悲惨な体 験の詩をピアノ演奏に合わせて切々と読み上げる吉永さんの声が会場に響き渡り、胸が詰まった。
 政治集会における単調な核兵器廃絶主張より、吉永さんの原爆詩朗読は聴く人に何十倍、何百倍もの圧倒的な力で原 爆への恐怖を実感させた。
 普通の市民として、一人の人間のしなやかでさりげない活動。そこから静かに広がる核兵器廃絶を追求する輪。平和 を願って全世界的に活動している非政府組織(NGO)、非営利組織(NPO)の原点がここにある。
 核兵器の廃絶は人類全体の願いである。戦後このかた、核保有国に翻弄(ほんろう)されながら、廃絶への手順をど うするか、さまざまな議論が重ねられてきた。だが、伊藤一長・長崎市長は二十一世紀に入ろうという今になってさえ も廃絶への道筋が見えず、「長崎市民や被爆者には不安と焦燥感がある」と言う。
 核兵器廃絶運動には政治イデオロギーに支配された時代があった。核保有国の利害に影響され、市民レベルの議論、 運動は厚い壁の前に押し返されるのが常だった。長崎での廃絶運動もそうした厚い壁を破れず、参加者が無力感に襲わ れることもたびたびあった。
 だが、今年開かれた「ハーグ世界市民平和会議」や、全世界のNGOが集う「アボリション2000」の積極的な活 動は、反核平和運動にも新たなうねりが生じようとしている予感を感じさせる。

 ようやくというか、気軽に運動に参加できる雰囲気がこの日本でも醸成されつつあるようだ。いわゆる平和ボランテ ィアの存在である。福祉ボランティアは当たり前のことを当たり前のように行動を起こす。まだ少ないが、そういう人 たちがこの夏、長崎でさまざまな活動を展開している。吉永さんの朗読会もその一つだった。
 平和ボランティアを自任する若者の感覚は、イデオロギーにとらわれた運動論などとは無縁だ。二度と被爆者を出さ ないためには自分たちは何をすればいいか、核兵器をなくさないと核戦争は再び起きる可能性がある―こうした素朴な 核兵器廃絶論から再び出発するしかない。
 今年の長崎平和宣言は世界のNGOへの参加者たちや個々の市民に期待を込めて呼びかけている。「これらの力の結 集が各国政府を動かすとき、核兵器の廃絶は必ず可能である」と。
 被爆者の高齢化により、被爆体験をどう語り継ぐかが、被爆地・長崎の差し迫った命題になっている。硬直した核兵 器廃絶運動には市民の支持は生まれない。だれでもが参加してみたいと思う柔軟な運動ができれば、被爆者の心は必ず 引き継がれていくだろう。
 世紀末に吹き出した新しい芽を大事に育てていきたい。

1999年8月9日朝刊掲載

【社説】21世紀へ、若者につなぐ反核運動を/被爆54年「広島の日」

 広島は、蒸し返すような暑さに包まれていた。そして、この夏も、原爆ドームに多くの観光客が訪れ る。
 にぎわいをよそに原爆ドームに背を向け、川をながめている男性がいた。
 五島徳晴さん(65)。四年前にリストラされ、ホームレス生活を送るようになってから毎日、原爆ド ームに来るようになった、と言う。
 背中越しに観光客の親子が話す。
 「この建物知ってる?」
 「知らない、変な建物ねぇ」
 このような会話を聞く度に、五島さんは心底、怒りを覚える。
 「ここで母が死んだんじゃ、原爆はいかん、戦争はご免じゃ。最近、新聞に『核』の文字が増えた気が する。『核』の文字を見つけると、言葉では言えんほど腹が立ってくる」
 とつとつと語った五島さんにとって、あの日から五十四年たったいまでも戦争は終わっていない。過去 の遺産としてみがちな原爆ドームだが、被爆者や遺族にとっては決して「過去」ではないことを忘れては ならない。

 広島市南区の松原美代子さん(66)は語り部として日本はもとより、アメリカ、ドイツ、イギリス、 タイなど年間百回を超える講演活動を続けている。
 広島平和文化センターでの講演を聞いた。悲惨な証言にあまり熱心に耳を傾けない、むしろ笑い声さえ 上げる子どもたちに、松原さんは激しい口調で何度も繰り返しこう言った。
 「あなたたちは平和ボケしている」
 驚くほどきつい語調だった。彼女は明らかにいらだっている。たぶんそれは、いまの日本の現状が「平 和ボケ」に見えるからだ。被爆者は年ごとに老いている。被爆者がいなくなった後、だれが「ヒロシマの 心」を訴えていくのかという懸念と、戦争に対しての怒りをもたない若者たちへの不安が彼女を駆り立て るのだ。

 ●インターネットで意見交換
 松原さんは二年前から、インターネットで被爆体験を伝え、核についての質問を世界中から受け付けて いる。
 アメリカ人からは「核実験のどこが悪い」、アジア人からは「日本政府は過去を清算していない。従軍 慰安婦問題も意識すべきだ」との批判も届く。
 メールへの返事は松原さん自身が書いてきた。しかし「いつ死ぬんか分からん」という不安から今春、 ボランティアの若者にバトンタッチした。
 返事を書く過程において、想像力でしか戦争を考えられない若い世代に、核について、戦争について、 現実感覚として身につけてもらいたいとの思いのあらわれである。
 同時に、ネット上に意見を公開することで、多くの人に核廃絶の重要性を訴え、あらためて平和を模索 することになると信じている。
 今日六日の平和宣言で、秋葉忠利広島市長は、被爆体験がない若い世代へ「あなたたち」と語りかけ、 核廃絶への強い意志を持つよう要請する。

 ●被爆地の心を伝えるために
 秋葉市長は、さらに核兵器について「絶対悪」と言及し、核廃絶を訴える。政府には、各国政府に核廃 絶を説得するよう求めている。
 被爆地の広島市と長崎市は、戦後ずっと、繰り返し繰り返し、原爆被害の悲惨な実相と、核戦争は地球 の破滅につながると訴え続けてきた。
 しかし世界の現実は、切実な「核廃絶」への願いとは逆行する。昨年のインド、パキスタンの核実験、 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のテポドン発射、ユーゴ空爆をめぐる米中関係の悪化など、世界の安 全保障環境はむしろ悪化への道をたどっている。
 核拡散防止条約(NPT)が実効をあげているとは思えない。核保有国の中で包括的核実験禁止条約 (CTBT)を批准したのは英仏だけである。
 先月行われた「核不拡散・核軍縮に関する東京フォーラム」では、米ロの核軍縮が進まない場合、保有 核弾頭を千発に減らすよう求めた。これを「核廃絶の一歩手前」と位置づけてはいるが、これを実現する 道筋は見えない。

 米ロの戦略核弾頭数を二千から二千五百発まで減らす第三次戦略兵器削減条約(START3)と、米 国が見直しを求めている弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の二つの協議が今月、モスクワで始ま る。しかし、ロシアはまだSTART2さえ批准していない。
 東南アジアの非核化を目指す非核地帯条約に中国が署名の意向を示したことはかすかな希望だが、これ とてどれほどの実効が期待できるか。
 国際司法裁判所の「核兵器使用は国際法上、一般的には違法」との勧告的意見を生かす道はないのか。  日本の安全保障は、米国の「核の傘」の下に成り立っているという現実がある。日本は、その状況の中 で「核廃絶」を訴えるという矛盾を抱えているわけだが、しかし、世界唯一の被爆国として核廃絶の訴え は世界史的な使命である。日本が核廃絶を外交の基本にすえて、東アジアの平和・安全保障の枠組みをど う構築するか。

 世界の現実の中でとかく及び腰になりがちな政府とは別に、私たち民間の役割が大きくなりつつある時 代だ。一昨年、対人地雷全面禁止条約を成立させたのは、国境を超えた非政府組織(NGO)の力だっ た。核廃絶へ向けて国際世論を動かすのは、むしろ市民の力である。
 そして「戦争の世紀」だった二十世紀の負の遺産を背負って、戦争のない二十一世紀を実現するには若 い世代の力が必要になる。
 戦争を知らない子どもたちのために、世界共通の教育プログラムを作ってみてはどうだろう。時間をか けて、「平和」を人類共通の理想として築く―そのためには広島と長崎の被爆体験とその戦後史はかけが えのないテキストになるはずだ。
 今日、広島は被爆五十四年の「原爆の日」を迎える。

1999年8月6日朝刊掲載

【社説】過去を過去とせぬために 99年長崎からの視点

 医薬品もないまま次々に死んでいき、残った者は防空ごうの中で出産したり、食べ物を盗んで捕まった 人もいた。原爆被爆者が最も助けを必要としたのは投下後、五年くらいの期間だったでしょうねと、生き 残った一人である長崎の山口仙二さんは回想する。

 原爆から六年目に出版された長崎の女子高生の手記集『白夾竹桃(きようちくとう)の下』の後書き に、生き残った生徒に手記をつづらせた教諭がこう記している。
 「机についている彼女たちの中には、耳のあたりや手などに大きなケロイドのあとのある者や、髪の毛 がボウボウと抜けあがって、あぢ気なさそうに、白い目をして席についている人などがあった。書かれた 原稿は、紙不足の頃(ころ)であったので、ノートを引き裂いて書かれていたが、この血のにじむ手記 を、ある作文の時間に読ませたが、彼女たちはみな途中まで読んでは口ごもって、涙にむせんだ。(中 略)百五十名の手記は、そのまま筐底(きようてい)ふかくしまっておいた」
 筐底(書物を入れる箱の底)にひそかに隠すという表現は、当時の同種の記録にも見られる。連合国軍 総司令部(GHQ)によって新聞報道や文学作品も含めて、原爆に関する記述は厳禁された。封じ込めて しまう「力」に抗して、いつの日にか世に伝えなければという思いの激しさが「筐底ふかく」に込められ ている。

 ●「核の世紀」の終わりに
 こうした事柄も、すべては過去に繰り込まれてしまうのではないか。そうした焦燥感が長崎の被爆者に ある。
 「核の世紀」だった二十世紀が残り少なくなった。世紀が変われば、原爆の惨禍は歴史の一つの記録と してとどめられるだけになるのではないか。次の世紀にどのように橋をかけるのか、被爆者や平和運動に 携わる者にとって、ここ一、二年がことのほか重く感じられる。
 八月九日・長崎原爆の日に発表される平和宣言の起草委員会の席で、山口さんは「もっと被爆の実相を 盛り込むべきだ」と主張した。
 熱線、爆風、今に続く放射線障害。確かに毎年の平和宣言では原爆のむごさが盛り込まれる。ただ、そ の恐怖を被爆者以外の人々が感じ取れなくなっていることも否定できない。戦後生まれが社会の中心とな る時代に、戦争や原爆の実感はやはり薄れている。
 今あらためて、被爆者たちをむしばみ続けている核兵器の非人間性に立ち返る必要がある。それが核廃 絶、平和希求を進める上でのすべての原点だというのが山口さんの思いだ。
 つらい現実だが、恐怖の体験者であり証言者である被爆者が歳月の経過とともに他界するペースが速ま っている。長崎原爆の平和祈念式典では原爆死没者の名簿が奉安される。亡くなった被爆者が新たに名を 連ねるのだが、累計は昨年度で十一万八千八百五十五人になった。「七、八年前までは八万人台だったの だが」と山口さんの言葉が途切れてしまう。
 被爆者は年々減少し、全国では十年前の三十五万人台が、今年は約三十万四千人と、三十万人台ぎりぎ りになった。みな年老いていき、長崎では七十歳以上が四割を超えた。
 被爆者の存在が次第に細っていくことは避け難い現実だ。その中から何をくみ取り、どう核廃絶のとも しびを守っていくかが問われている。
 少なくとも政府にとって将来の被爆者不在は、ある意味で「重荷」が減ると受け止められるのではない か。長崎、広島を「痛ましい過去」として語る方が気は楽ではないのだろうか。
 政府は国際社会では、ついぞ具体性のある核廃絶要求の先頭に立とうとしたことはない。国内的には原 爆被害の国家補償に応じてこなかった。
 さらに「平和」の問題を考えれば、国旗国歌法案や新たな日米防衛協力のための指針(ガイドライン) の法制化など、戦後長く守り続けた価値を塗り替える動きが急テンポで進んでいる。従来とは際立った変 化の中に今年の長崎、広島は置かれている。

 ●被爆の実相を問い続け
 長崎原爆訴訟の原告、松谷英子さんは六月中旬、最高裁に足を運び、国の上告棄却を求める上申書を提 出した。人生をかけた長い裁判闘争が今年大詰めを迎える。
 被爆者のうち被爆者援護法に基づく原爆症に認定されているのは、ほんのわずかだ。国の機械的な認定 基準で大半が切り捨てられている。松谷さんもその一人だが一審、二審判決は国の認定のあり方を強く批 判した。
 松谷さんは「自分だけのことではないのです」と繰り返し語ってきた。裁判は被爆者の援護というレベ ルにとどまらない。被爆の実相、つまり核がもたらすものの真の姿に目を向け、国に対し被爆者を生み出 した責任を確認させる性格を併せ持つ。全国の被爆者数を上回る支援署名が集まっている。
 国を動かし司法の壁を乗り越えようとする。過去を過去としない、持続する意思の一つの姿をそこに見 ることができる。

1999年8月2日朝刊掲載

【社説】市民の力で重い歯車を回そう 21世紀へ核のない世界に

 長崎の松谷英子さんにとって、ことしは緊張した年になる。原爆症認定を拒否した国に対し、松谷さん が取り消しを求めた「長崎原爆松谷訴訟」が最高裁で最後の場面を迎えるからだ。
 すでに全国から二十万人の支援署名が集まっている。支援の輪の広がりの中で、松谷さんは「私個人の 闘いではありません」「裁判に勝って再び被爆者をつくらないあかしに」と話す。
 国は、爆心地から二・四五キロで被爆した松谷さんの傷病は、放射線との関係が認められないとした。 しかし一、二審ともその判断を厳しく退けた。
 この裁判は、被爆者行政の姿勢全体を問う性格を持っているが、もっと奥深いところでは核兵器をどう とらえるのかという問題が横たわっていると言えるだろう。
 直爆の威力のすさまじさに加え、長い年月にわたって肉体をむしばむ核兵器の影響をどうとらえるかは 医学的、科学的な問題にとどまらない。
 行政の姿勢が、影響を限定的にとらえようとするなら核の脅威の過小評価にもつながる恐れさえ生じて くる。
 そうした意味で、国を相手にした松谷訴訟が担っているのは「核のない世界」の実質を積み上げてい く、困難だが重い課題だと言える。松谷さんの支援の輪が随分大きく広がっているのも、そうしたところ にあるだろう。

 ●二〇〇〇年が節目の年に
 「核兵器が将来限りなく合法であるとの見通しを持ちながら、第三の千年紀に入ることはできない」。 昨年末の国連総会で採択された非核七カ国の決議はこう述べている。
 長崎、広島の惨禍、冷戦期の核開発・配備のエスカレーション、冷戦後のインド、パキスタンの核クラ ブ新規参入と、様相を変えながらも果てしなく続く核の時代に終止符を打つことが、今世紀の重い宿題と して残されている。二十一世紀の入り口に立とうとするこの時期に、国際社会の英知が問われている。
 単に世紀の変わり目というだけにとどまらず、二〇〇〇年は核軍縮問題のひとつの節目だ。核拡散防止 条約(NPT)の再検討会議が予定されているからだ。
 この会議までに核大国の核軍縮が実質的な進展をしないと、非保有国の不満は決定的になると憂慮する 声は日本政府内にも強い。
 NPTに明記された軍縮義務が空文化した状態が今後も続くなら、新たな核保有国が生まれない保証は ない。印パの核実験がすでに「先鞭(せんべん)」をつけている。
 二十一世紀を「新たな核の時代」にしないため、さまざまな働きかけが求められる。とりわけ、核保有 国の背中を押す国際世論づくりには、市民レベルの取り組みをさらに強めることが望まれる。

 昨年末、広島市で長崎、広島両市の平和運動関係者や市民が集まった集会があった。政府がバックアッ プし、国際社会への提言を予定している「核不拡散・核軍縮に関する東京フォーラム」に対して、民間の 声を反映させようという狙いだ。
 市民集会には、外務省の担当官も出席した。政府と民間では意見の隔たりはあるにしても、同じ場で意 見交換するようになったことは一つの大きな変化である。
 集会は、東京フォーラムに対して「期限を切った核兵器廃絶の道筋を明らかにする」「非核三原則の法 制化」などを要望した。日本政府のスタンスや東京フォーラムの論議は、こうした要望とは距離がある。
 しかし、核軍縮・廃絶の進め方という政策レベルで、非政府組織(NGO)の声を積極的に突きつけて いくことが、動きそうにない歯車を回す力になることは、対人地雷全面禁止条約の成功で証明済みだ。
 国際世論づくりのため、第四回国連軍縮特別総会(SSD4)の開催もぜひ実現したい課題だ。
 被爆者の間では「年老いた私たちが最後の動員をかけて働きかけることができればと思っているのです が」といった声を聞く。
 長崎原爆被災者協議会の山口仙二会長は、先に長崎で開かれた国連軍縮会議で「国連は核兵器禁止条約 実現の環境醸成のため、二〇〇〇年までに第四回国連軍縮特別総会を開催してほしい」と呼び掛けた。

 ●国連軍縮総会に積極姿勢を
 被爆者たちの念頭にあるのは、これまでの特別総会での国内、国際世論の大きな盛り上がりだ。とくに 一九八二年の第二回総会の際は欧米にも反核の輪が広がり、ニューヨークで百万人に近い空前の集会・デ モが行われた。「地獄を生き延びた証人」として初めて国連総会で演説した山口さんの訴えは大きな反響 を呼んだ。
 現実にはこの第二回総会も具体的な実りを得ることはできなかったのだが幅広い市民のうねりが歴史の 中に核反対を刻印したことは確かである。
 今世紀中に特別総会をという主張は貴重だ。方向性のないままの開催は逆効果という消極的な声が日本 政府内にも強いが、国際世論をリードする観点から前向きに考えるべきテーマだ。
 確かに「核のない世紀」は多難な道のりである。しかし、悲観材料ばかりではないことに目を向けた い。
 五大国の大手を振っての核実験はもはや許されず、非核地帯も広がるという成果が積み重なっている。 国際司法裁判所が核の威嚇・使用は「一般的には人道法に反する」とした精神は、道義的側面から核保有 国に圧力を加え続けている。

 松谷さん支援も、政府に働きかける市民集会も、また被爆者の訴えも、市民レベルの一つひとつの取り 組みが危機の針を押し戻す力になる。草の根から重い歯車を回していく、そうした世紀を展望したい。

1999年1月16日朝刊掲載




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