新体操団体
溝辺ゆかり選手

二人三脚…いま独り立ち

 今世紀最後の五輪が十五日、幕を開ける。選手たちの華やかな戦いの陰には、栄冠への夢と苦悩をともにしてきた父母や兄弟、姉妹、妻や子どもたちがいる。その家族の日誌にも新たなページが書き加えられる。


 ●母へ
 私が望むように自由に新体操をさせてくれてありがとう。お母さんがいなければ、今の私はありません。私の成績がいいと、喜んでくれたし、落ち込んでいるときは、たくさん心配かけました。苦労させた分、頑張るから、しっかり見ててね。

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 ▼みぞべ・ゆかり 大分市出身の20歳。佐賀女子高3年のとき、主将として国体団体優勝。インターハイで個人準優勝。1999年、世界選手権団体4位。現在、東京女子体育大3年。
 娘が大学生になった今も車で寝入った小学生のころの娘を思い出す。娘は新体操の演技曲を聞きながら、すぐに目を閉じたものだ。
 溝辺ゆかりの母・弘美(45)は、いわゆる「ステージママ」だった。娘が小学五年で新体操を始めると、学校まで迎えに行き、そのまま大分市内のクラブまで送った。そこで練習が終わると、再びレッスンを受けさせるため、約一時間かけて別府へ。さらにその後、クラブの先生宅で指導を受けさせた。
 帰宅は夜十時ごろ。中学卒業までの五年間、この生活がほぼ休みなく続いた。
 家事のこともあり、夫・隆(50)から何度も「新体操をやめさせろ」と言われた。隆は帰宅が遅く、長女・理沙(22)は一人で晩ごはんを取ることが多かった。「私、よくぐれなかったな、と思うよ」。理沙は最近、冗談交じりに弘美に言う。



 弘美に不安がなかったわけではない。弘美は昼間パートで働き、帰宅後に弁当をつくって、ゆかりと一緒に移動した。家事は深夜になり、体力的にきつかった。
 新体操をしたいと言い出したのは、ゆかりだった。弘美は、ハードな練習に喜んで通い続け「オリンピックで踊りたい」と言う娘の望みをどうしてもかなえてやりたかった。
 ゆかりは、新体操で知られる佐賀女子高(佐賀市)に進み、寮生活を始めた。いつも隣にいた娘の様子が分からず、弘美はもどかしくなる。練習に耐えているのか、同僚とうまくやってるか、洗濯は…。
 元日と八月三十一日。ゆかりに許された休日は年に二日だけ。弘美は休日の前夜から娘を佐賀まで迎えに行き、休日明けの早朝に学校まで送った。



 今年六月。大学に進み五輪出場を決めた娘が、地元壮行会に出席するため帰宅した。三時間近くもふろに入り、食事もあまり取らない。弘美は、減量に苦しんでいるのか、と気をもんだ。
 取り越し苦労だった。「また思い切り練習してシドニーに行くから。悔いは残さないよ」。娘はたくましく言い放ち、家を後にした。意外だった。ゆかりは、すっかり独り立ちしていた。
 しばし考えた弘美は、自分に言い聞かせた。「ゆかりも、私も、これを目指して頑張ってきたんだ」  弘美の手元に、小学生のゆかりが大分市報に書いた作文がある。「オリンピックで踊りたい」
 母は、五輪で舞う娘を二十(はた)歳(ち)の女性として見つめてみよう、と思っている。  (敬称略)

 写真は、佐賀女子高校2年のときの溝辺ゆかり選手(左)と母・弘美さん =1996年10月

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