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がんばれ!田村亮子選手 田村選手の関連記事   3  五輪号外「田村 悲願の金」
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「ヤワラ賞」贈呈へ 福岡県

2000年9月19日 夕刊掲載

 福岡県の麻生渡知事は十九日の定例記者会見で、田村亮子選手(トヨタ自動車)のシドニー五輪柔道女子48キロ級での金メダル獲得について「何か賞という形で、お祝いの気持ちを示したい」と述べた。田村選手には既に一九九六年、「福岡県民スポーツ栄誉賞」が贈られており、同県は新たな賞を創設する方向で検討している。

 田村選手の活躍について、麻生知事は「世界最高水準を長年維持する精神力には頭が下がる思い。県民の誇り」と称賛した。
 シドニー五輪では、柔道女子57キロ級の日下部基栄選手(福岡県警)が銅メダルを獲得するなど、同県関係選手の活躍も目立っており、県側は一週間後をめどに賞の内容や対象者を決める方針。

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「メダルと寝ました」 金の興奮冷めぬ田村選手 シドニー五輪

2000年9月18日 朝刊掲載

 【シドニー17日諸隈光俊】悲願の金メダル獲得から一夜明けた柔道の田村亮子選手(福岡工大付高―帝京大―トヨタ自動車)が十七日、シドニー五輪のメーンプレスセンターで記者会見した。前夜はテレビ局回りなどに追われ、睡眠時間は二時間だけ。それでも「きのうから(ずっと)ときめいてます」と興奮冷めやらぬ様子だった。

 どうしても目じりが下がる。「一夜明けても興奮している気持ちです。(首に金メダルをかけてもらったときは)自分自身、感動しました」。壇上の田村選手は終始ニコニコ顔だ。

 前夜は午前三時すぎ、選手村の部屋に戻り、もう一度、金メダルをじっくりながめた。くっきりと刻まれた「五輪」のマーク。「アー、これが本当の金メダルなんだと思いました」

 小学二年のときから、これまでの十七年の柔道人生が走馬灯のように脳裏を走った。思わず涙がこぼれた。「ジーンときました。みんなにこの金メダルを見せてあげたい」。そのメダルをまくら元に置き「一緒に寝ました」と笑った。

写真=会見で満面の笑みを見せる田村亮子選手
=17日、シドニーのメーンプレスセンター(撮影・大月崇綱)

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福岡県/田村選手「金」県民も感動 麻生知事「何か賞を…」
道場後輩「僕も五輪に」/ふくおか県総合


2000年9月17日 朝刊掲載

 十六日、シドニー五輪の女子柔道48キロ級で優勝した田村亮子選手の活躍に、地元福岡でも多くの県民が喜びにわいた。麻生渡知事はさっそく「県民の感謝の気持ちを表す賞を贈りたい」と述べた。
 自身も柔道有段者の麻生知事は、公舎のテレビで応援。「見事な一本勝ち。県民を代表して心からおめでとう、と言いたい」と興奮気味。田村選手には一九九六年、福岡県民スポーツ栄誉賞が贈られているが「このような選手が福岡から出たのは県民の喜びであり誇り。何かあらためて表彰したい」との考えを示した。

 田村選手が小学二年の時、出場した櫛田神社(福岡市博多区)の奉納柔道大会のシーンを今も鮮明に覚えている山崎治明〓宜(ねぎ)(51)は「男子の中ですごく小さな女の子という印象だった。ところが試合になると、大きな男の子を二人も投げ飛ばして骨折させ、救急車を呼ぶ騒ぎになった。あの子が五輪で金メダルを取ったなんて」と感慨深そう。

 田村選手が小学校から高校まで練習に通った同市東区の東福岡柔道教室の後輩、千早西小六年、薄(すすき)亜季奈さん(11)=同区千早=は「幼稚園のころ見た田村先輩の練習は厳しくて驚いた。先輩の金メダルは自分のことのようにうれしい」。同じ教室の松島小六年波多江純平君(12)=同区筥松=も「金メダルを取ると言って本当に取ってしまうなんて。僕も五輪に出て金メダリストになりたい」と声を弾ませた。

 福岡市内の街頭も、田村選手の金メダル獲得の話題でもちきり。同市博多区住吉の主婦、森一枝さん(86)は「これまでオリンピックで負けたときに、ペタンと座り込む姿がかわいそうだった。念願の金が取れて、ヤワラちゃん良かったね」と笑顔で手を合わせた。
 JR博多駅前で客待ちをしていたタクシー運転手、田畠俊勝さん(42)=志免町=は「今夜は客が少ないが、みんな家でテレビ見ているからかな。ヤワラちゃんの優勝で、景気がよくなってくれれば二重丸なんだが」と苦笑した。

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ヤワラ8年分の涙 敵は自分自身 25歳、闘争心衰えず
神業の特訓 集中力磨く


2000年9月17日 朝刊掲載

 【シドニー16日本社五輪取材班】悲願の金メダルを手に柔道女子48キロ級の田村亮子選手(福岡工大付高出身、トヨタ自動車)が十六日、一番高い表彰台の上で満面に「YAWARAスマイル」を浮かべた。男子60キロ級の野村忠宏選手(ミキハウス)も二大会連続の金メダルに感激の涙をこぼした。シドニー五輪で伝統の強さを見せつけた「ジュードー・ニッポン」。シドニーの会場で、そして、日本でテレビ観戦する人たちの間で、両選手に祝福の拍手が鳴り響いた。福岡市出身の田村選手が世界の舞台にデビューして約十年。シドニー決勝で電光石火の内また。九州柔道界が生んだ、日本スポーツ界屈指の人気と実力を備えたスター選手は、ついに五輪の頂点を極めた。

 シドニーでの田村亮子選手の敵はだれでもない、自分自身だった。
 三度目の挑戦で初めて五輪表彰台で咲いたYAWARAスマイル。しかし、そこに隠されたすさまじいまでの闘争心を抜きに、彼女を語ることはできない。
 女子柔道が五輪の正式種目となった一九九二年のバルセロナより六年も前、小学五年で作文に「夢は五輪の金メダル」と書いた。その夢に向かって挑戦し続け、いま二十五歳。
 年齢的にはまだ若いが、十五歳だった福岡国際の衝撃デビューからは十年が経過。練習で胸を貸す福岡工大付高柔道部の園田義男部長と福岡県警の園田勇首席師範は「ピークは九三年ハミルトンと九五年幕張の世界選手権」と言い切る。園田兄弟との乱取りでは息が上がるのが確実に早くなった。けがも相次ぎ、魅力だった一本勝ちも減った。

 衰えた体力を補うため、田村選手は肉体を“進化”させた。この半年間で柔道で使う筋肉を強化した。肩、首、胸、上腕、太ももは大きくなり、昨年までの服は着られない。わずか一カ月半前に採寸し、九月上旬に届いた五輪用の柔道着も窮屈なため、新たに作り直したほどだ。  新たに集中力を研ぎ澄ます訓練にも励んだ。柔道では顔が向いている方向に相手を投げ、倒す。自分は目を閉じ、相手のそで口など柔道着の一部を自分の手の甲に触れさせ相手の顔と足の向き、すなわち投げようとする方向を見破る。目ではなく、感覚で瞬時に防御して攻撃につなげる試みだ。そんな練習をしている選手を、わたしはほかに知らない。神業のような特訓に身震いするとともに、彼女にとって五輪とは何かが真に分かった気がした。

 口を真一文字に結んだバルセロナ、顔をひきつらせたアトランタ。五輪は試練だった。四年前のアトランタで田村選手はつぶやいた。「日本に帰って何といえばいいのか…」。彼女は決して天才ではない。敗戦をかてに練習を繰り返して強くなった。その汗と涙の一端を見てきただけに「何をいいよるか。あれだけの努力をしての銀メダル。胸を張って帰ればいいったい」と思わず語気を強めて、泣かせてしまった。あれほどの選手ですら負けてしまう非情な勝負の世界。五輪の存在すらのろった。

 生来の負けず嫌いとパイオニア精神でつかんだ五輪金メダル。それは田村選手のここまでの歩みにも通じる。女子柔道部のなかった帝京大、トヨタ自動車に進み、新たな環境で刺激を受けては柔道に生かす。今春からは日体大大学院の博士課程にも通い、力学を応用して足の位置を微妙に変えてひねりを加えるよう、五輪用に技を改良もした。

 五輪前、親しい関係者らはシドニーでの金メダルを花道に引退することを再三勧めた。だが来年七月のミュンヘン世界選手権には前人未到の五連覇がかかる田村選手は、首を縦に振らなかった。現役生活は、そのミュンヘンまでのあと一年だろうか。

 田村選手のあこがれの職業は新聞記者だった。その実現の可能性はなさそうだが、引退後の準備は進めている。障害者施設への慰問など社会とのつながりを大切にしている彼女は、視野を広めるために今秋か来春にも、文科系の大学院に進む予定だ。世紀をまたいで戦い続ける彼女の“未来”をしっかり見届けたい。(運動部・手島 基)

写真=8年越しの悲願の金メダルを掲げて満面笑みの田村亮子選手
=16日、シドニー展示場ホール(撮影・大月崇綱)

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田村金獲得 耐え抜いて頂点 「金」の夢 亮子とともに
母・和代さん「ありがとう」


2000年9月17日 朝刊掲載

 【シドニー16日大月崇綱】スタンドから娘の歓喜の姿を目にしっかり焼き付けた。その姿が涙でかすんでいく。田村亮子選手(福岡工大付高出身、トヨタ自動車)を陰で支えてきた母親の和代さん(51)は目頭を押さえた。「今は感謝の気持ちでいっぱいで何も考えられません」。娘がつかんだ“最高の輝き”は、和代さんに贈る“金メダル”でもあった。

 娘の似顔絵をプリントした法被姿の和代さんは、顔に手を当てたまま泣き崩れ、並んで応援した祖母のイツエさん(77)らと抱き合った。祝福の声には「ありがとう」とこたえるのが精いっぱい。

 十七年前、小学二年で田村選手が柔道をしたいと言い出したとき、和代さんは反対した。「そのころは女の子のやるスポーツとは思っていませんでしたから」。それでも熱意に負けて許した。それから和代さんの人生も“柔道一直線”に。放課後、東福岡柔道教室(福岡市)に通う田村選手の送り迎え。最後まで居残り練習をする娘につきあい、帰宅するのはいつも午後十時ごろだった。
 福岡工大付高時代は、朝練に加え、放課後の練習後も東福岡柔道教室へと向かう娘に付き合った。帝京大進学と同時に一緒に上京。柔道に専念できるよう食事をはじめ、身の回りの世話をした。「大変ですねとよく言われますけど、そんなことありません。子育てを楽しませてもらった」

 娘とは柔道の話はしない。銀メダルだったアトランタ五輪後に二カ月以上も柔道着にそでを通さなかったときも、十連覇を飾った福岡国際で左手小指の軟骨を骨折したときも、両手の指を痛めながら五輪選考会の全日本選抜体重別への強行出場を決めたときも、母親は、うなずくだけだった。言いたい言葉がなかったわけではない。だが、のみ込んだ。「わたしは柔道のことは分かりません。それに亮子は柔道に懸けてますから」。黙って信じて、娘の成長を支えてきた。
 日本中の期待を背負った娘がついに手にした金メダル。興奮覚めやらぬスタンドで、和代さんは一瞬、ホッと息をついた。

「ビシッと決めた」 母校の恩師感激
 【シドニー16日諸隈光俊】スタンドで声をからした田村亮子選手の恩師たちも、目頭が熱くなるのを我慢することはできなかった。
 「最後はビシッと決めてくれた。お疲れさんと言いたい」。大会直前まで指導に当たった母校の福岡工大付高・園田義男柔道部長(55)は喜びをかみしめた。弟の勇福岡県警首席師範(53)とともにスタンドで観戦。3回戦こそ一本勝ちしたが際どい勝負が続いた田村選手に、決勝の前、応援席から携帯電話を入れた。「今まで通りの柔道をやれ」。アドバイス通りの一本勝ちだった。

 田村選手が柔道人生をスタートさせた東福岡柔道教室から帝京大まで、ずっと指導を続けてきた稲田明帝京大監督(54)は「わたしは五輪に出たことはない。(田村選手には)五輪に出る選手になれと最初から指導してきた。そしたら三回も出て、しかも金メダル」。さらに「勝って金メダルを(わたしに)かけてくれると約束してるんですよ」。稲田監督はまな弟子の晴れやかな姿に目を細めていた。

写真=娘の悲願の金の瞬間を見届けようと観戦する母・和代さん
=16日、シドニーのシドニー展示場ホール(撮影・大月崇綱)

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田村亮子・金獲得 故郷のヒロイン「ついにやった」 福岡、歓喜の渦


2000年9月17日 朝刊掲載

 「やった、ついにやった、ヤワラちゃん」―田村亮子選手が鮮やかな一本勝ちで金メダルを決めた瞬間、故郷のヒロインの晴れ姿を待ち望んでいた福岡市内は興奮と歓喜に沸いた。

 田村選手の母校、福岡工大付高(福岡市東区)では生徒、OB、教職員ら約三百人が、高校隣の同大多目的ホールの特設会場でテレビ観戦。決勝戦開始直後、田村選手の技が鮮やかに決まると、会場は大歓声と拍手の渦に包まれた=写真。
 高校一年から三年間、田村選手の担任だった木原寛司教諭(41)は「これで私自身の胸のつかえもとれました。八年間、亮子はよく頑張った。いまは、ゆっくりしろ、と言ってあげたい」。田村選手の三年後輩で同高女子柔道部監督の泉麻生(まい)さん(22)は「『最高で金、最低でも金』と自分に言い続けた亮子先輩の気持ちが、決勝戦での一本勝ちにつながったと思う。本当におめでとうございます」と、先輩をたたえた。

 一方、大画面で決勝戦を放映していた福岡市・天神の商業施設、イムズやソラリアプラザでも、大勢の買い物客らが声援を送った。大野城市の会社員白壁龍二さん(24)は「もう、感動して何が何やら。涙が出ました。これから仲間と祝杯です」。東京から旅行で来ていた会社員川田幹子さん(26)は「自分自身が一番勝ちたいと思っていたと思います。日本の誇りです」と何度も繰り返した。福岡市中央区の無職首藤武紀さん(56)は「自然に心から拍手が出た。私も職探しの励みになる。胸張って福岡に帰ってきんしゃい」と目を潤ませていた。

田村「金」号外 ファンが殺到
 西日本新聞社は十六日夜、福岡市内の西鉄福岡駅とJR博多駅などで、シドニー五輪柔道女子48キロ級の田村亮子選手の金メダル獲得を伝える号外七千部を配った。
 西鉄福岡駅では午後九時すぎ、号外が到着すると、乗降客らが殺到。同市早良区の高校一年の女子生徒(15)は友人とともに「本当にやっとですよね。ずっと応援してたから、私たちもうれしい」。福岡ドーム帰りの福岡県大和町の中学校男性教諭(44)は「今夜は(負けた)ダイエーじゃなくて柔道をテレビ観戦すればよかった」と悔しがっていた。

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シドニー五輪・第2日=田村、悲願の金 挑戦三度 初恋メダル
一閃内また 柔道48キロ級



2000年9月17日 朝刊掲載

 【シドニー16日本社五輪取材班】田村選手、ついに八年越しの悲願の金メダル―シドニー五輪は十六日、柔道が始まり、女子48キロ級の田村亮子選手(福岡工大付高―帝京大―トヨタ自動車)が待望の金メダルを獲得、今大会の日本選手の金第1号となった。バルセロナ、アトランタと過去二大会いずれも銀メダルに終わり「三度目の正直」に挑んだ田村選手。苦戦しながらも勝ち上がり、決勝でリュボフ・ブロレトワ選手(ロシア)にわずか36秒、鮮やかな内またで一本勝ちした。約八百人の応援団が陣取ったスタンドでは多くの小旗が振られ、大歓声が会場を揺るがせた。この勢いで続く男子60キロ級も、野村忠宏選手(ミキハウス)が優勝、二大会連続の金メダルとなった。日本柔道として五輪史上初の男女同日アベックV。最高のスタートとなった。

 決勝で一本勝ちを確認すると相手の上になったまま右手を二、三度、突き上げた。何度も、何度も跳びはねた。そのうち涙が…。  「初恋の人とやっと巡り合えた気持ち。初恋メダルですね」
 山本洋祐担当コーチと抱き合った。直前まで胸を貸してくれた恩師の園田義男・福岡工大付高柔道部長に飛びついた。割れんばかりの大歓声が、田村選手を中心にできた歓喜の渦を包み込む。
 「五輪に初めて出場してここまで八年。この瞬間を味わうためたくさんの時間を費やした。夢のようです」
 電光石火の早業だった。決勝はわずか36秒。組み手争いから相手をつかむと、右からの一閃(いっせん)内また。今年のヨーロッパ選手権2位のリュボフ・ブロレトワ選手(ロシア)を投げ飛ばした。

 柔道を始めたばかりの小学二年の秋、博多祇園山笠で知られる櫛田神社(福岡市博多区)の奉納試合に出場した。初めての大会で男子を五人抜き。手にしたのがメッキの「金メダル」。その輝きが田村選手をヤワラの道に引き込んだ。「一生懸命やれば、こんなにすてきなメダルがもらえると思ったんです」。あれから十七年。負けず嫌いだった少女は今、まぶしいばかりの「本当の金メダル」をかけた。

 世界選手権四連覇、福岡国際柔道十連覇。輝かしい戦歴を誇る彼女だが、五輪だけは縁がなかった。最後の悔し涙から四年間、いろいろなことがあった。アトランタ直後は二カ月間、落胆から柔道着にそでを通せなかった。次から次にけがにも襲われた。しかし、負けなかった。昨年末から練習の拠点を自分の柔道の原点である福岡に戻した。福岡工大付高などで、園田義男部長や園田勇・福岡県警首席師範の胸を借りた。

 「最高でも金メダル、最低でも金メダル。強い気持ちで臨みました。目標が達成できた」
 アトランタ五輪の決勝で敗れて以来、続けてきた連勝を「53」に伸ばしたところでついに届いた金メダル。五輪に潜む魔物を退治した“小さな巨人”。146センチの体がこの日、世界で一番輝いた。(シドニー・諸隈光俊)

 ▼田村 亮子(たむら・りょうこ、トヨタ自動車=柔道女子48キロ級)日本女子のエース。92年バルセロナ五輪、96年アトランタ五輪では2大会連続の銀メダル。世界選手権は93年から4連覇を達成。福岡工大付高を経て帝京大出。日体大の大学院にも在籍している。146センチ。25歳。福岡県出身。

写真=豪快な一本勝ちに力強くガッツポーズする田村亮子
=16日、シドニー展示場ホール(撮影・大月崇綱)

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