「講演会で、明るく、楽しく、元気に生きることの素晴らしさを涙ぐんだり、笑い転げて聞きました。ぜひあの人に、会ってきてください」。福岡県太宰府市に住む女性の読者の方から、こんな手紙をもらった。
大野勝彦さんは入院4日目にこの作品を書いた。頼まれて、来館者の似顔絵を描くことも多い
|
阿蘇山頂に近い熊本県長陽村で自らの美術館を開く大野勝彦さん(60)=同県菊陽町=がその人。地蔵さんや草花、阿蘇の雄大な風景を描き、人生への応援メッセージを添える。そんな作品が百数十点展示されていた。
「ようこそ」。笑顔で迎えてくれた大野さんに、両腕はなかった。
× ×
「どうですか、気持ちいいでしょう。ふもとが三〇度を超えても、ここでは涼しい風が吹く。眺めもいいですしね」。標高七〇〇メートル。裏山は緑のじゅうたんが広がり、眼前には熊本市街、遠くは雲仙・普賢岳を望む。両手に義手をはめて、大野さんが話し始めた。
高校を卒業後、実家の農家を継いだ。土地は五ヘクタール。サトイモ栽培をはじめ、菊陽町でトップクラスの収穫高を誇る「やり手」の農家だった。
一九八九年夏。悲劇は突然、やってきた。
農作業を終えて、大野さんはトラクターの後部に取り付けた肥料散布機を洗っていた。プロペラのような羽根がついたシャフト。ゆっくりと回っている、そこにゴミを見つけ、手を伸ばした瞬間、羽根が右手をのみ込んでいった。
「しまった、と思ったがもう遅かった。右手を引っ張り出そうとした左手も巻き込まれて…」
血が噴き出し、呼吸もできない。悲鳴を聞いて、家から飛び出してきた母親のスミ子さん(83)は機械の止め方を知らなかった。両手を引き出そうにも取れない。肩、頭まで持っていかれそうになった。意を決した。最後の力を振り絞り、反動をつけた。自分で、自分の両手を引きちぎった。
入院直後は荒れた。
「お父さんを当てにすんな」「かあちゃんがスイッチを止めんかったせいたい」。失意、自暴自棄…。しかし、真っ暗闇の中で自分に接してくれた家族や友人が大野さんをよみがえらせた。
「家族は病室では、ニコニコしていました。家では食事ものどを通らなかったはずなのに。友人夫婦は、昼間は私の家の畑を手伝い、夜は見舞いに来てくれた。それも毎日です。腕の痛みよりも優しさがこたえた」
けがをする前、優しさのある世界にはいなかったという。威厳を保つため三人の子どもの前で笑ったことはなかった。「釣った魚にエサはやらん」と憎まれ口をたたき、亭主関白を貫いてきた。
「考え違いだった」。入院から四日目。右手のひじの上に毛筆をくくりつけ、「たいへんごめいわくをかけます がんばります」と二時間かかって書いた。優しさが、特効薬になった。
× ×
三階建ての美術館は、県の保養施設を買い取って改装し昨年七月、オープンした。人の手を借りなければ用も足せなかった自分。絵をかき、看護師さんにプレゼントして「ありがとう」と、言ってもらえたことに「自分のできること」を見つけた。全国を回って得た講演料を資金にした。
「あなたでよかった 私の出逢(あ)いは百点満点」「人はかべにぶつかると強くなると思っていた でも私はぶつかる度にやさしくなっていた気がする それが嬉(うれ)しい それがありがたい」。そんな言葉が絵の中に一緒に並ぶ。
美術館での講演会で大野さんはこう話した。
「縁のある人と楽しくやっていきましょう。皆さんは義手を使わんでいいのだから、それだけでもニコニコしたらどうでしょう」。終了後。握手を求める人に、大野さんは笑いながら「右手」を差し出した。
|