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福岡県沖地震

福岡沖地震「証言」企画を終えて

■1000人の体験 明日に生かす

 また蛍光灯が揺れた。「ドンッ」。突き上げるような音と震動が布団越しに背中に伝わる。ひっきりなしに続く激しい余震。緊張と恐怖で寝付けなかった。
 福岡沖地震の震源に最も近い玄界島(福岡市西区)。家屋は壊れ、傾き、約七百人の住民は全島避難した。取材班の一陣がチャーター船で島に到着したのは三月二十日午後三時四十分。地震発生から約五時間後だった。
 港近くにある漁具倉庫を取材拠点として借り、パソコンやラジオを持ち込んだ。夜は漁網のすき間に布団を敷いた。交代で島に泊まった記者は延べ八十人を超えた。
 島に残っていた自治会や漁協の役員たちは、対策本部の会合の合間に取材に応じてくれた。「いつ戻れるか分からん。でも必ず全員で島に帰る」。深い傷を負っても地震と向き合おうとする住民たちがいた。
◇    ◇

 「まさか福岡で」。住民たちの驚きは私たちも同じだった。手探りで取材を始めた。玄界島のほか、志賀島(福岡市東区)などの被災者を追い、都心のマンション被災の実態や問題点を探った。
 その中で、発生直後から多くの記者を投入したのが「証言」シリーズだった。被害の大きかった福岡に限らず、佐賀、長崎、熊本、大分。韓国・釜山にも足を運んだ。
 ハッとするような話も聞いた。「避難所に行けば情報が得られる」。福岡市の聴覚障害者は、地震直後にマンションから避難所に向かった。ところが、手話通訳をできる人は皆無。結局、何の情報も得られないまま戻った。被災者の中でも最も気を配らなければならない「災害弱者」に誰も目が行き届いていなかったことを知らされた。
 一方、住民たちはそれぞれの防災対策に工夫を凝らしていた。築六十年の木造家屋に住む七十代女性は、一階がつぶれても逃げられるようにと二階の出窓に靴を置くようになった。「わが家の防災法」に自衛策の芽生えを感じた。
◇    ◇

 「証言」取材は四カ月にわたり、紙面で紹介した人は朝夕刊を合わせて千人を超えた。余震が減り、関心が薄れる中、読者から「もういいかげんにしてほしい」との苦情を受けたこともあった。しかし、証言を積み上げることで地震の全体像が浮かび上がってくるはずだ。貴重な体験と提言に、その狙いは間違っていなかったと思っている。
 災害報道はこれからも続く。島の復興を追い、今回の地震を教訓とした九州の「減災」対策に目を配っていきたい。命を守り、地域を守っていく。災害報道の継続がそのことにつながると確信している。 (福岡沖地震取材班


きずな深めて 3・20福岡沖地震=福岡沖地震「1000人の証言」終了

■復興へ 家族 心一つ 玄界島民、仮設入居3カ月 離れ深まる思いやり

自宅で育てている花を手に、にっこりする上田九十九さん(左)と息子の成太君=福岡市中央区港のかもめ広場
 福岡沖地震で被災した玄界島(福岡市西区)の住民が暮らす2カ所の仮設住宅地。子どもの学校通いや漁のため、30を超える家族が島とかもめ広場(中央区)に別れて生活している。中には、本紙企画「1000人の証言」に声を寄せてくれた人もいる。仮設住宅に入って約3カ月。博多湾を挟んで結ぶ家族のきずなに触れてみた。

 「地震から一週間ぐらいはパニック状態でした」=4月22日付朝刊証言・久島美加代さん(34)
 「当時と比べると落ち着きました。でも…」。美加代さんは今、長女有偉ちゃん(7つ)と長男暢赳ちゃん(4つ)とかもめ広場で暮らしている。夫の漁師、義和さん(37)は玄界島。「やっぱり、なんか欠けてるな、って思います。話し声のにぎやかな感じが減ったし…」と美加代さん。
 震災前、八畳間に四人で並んで寝ていた。しかし、今は三人。父の姿がない。「欠かせないのは携帯電話。漁を終えた後、一時間程度話します」という義和さん。かもめ広場に寄ることもあるが、帰り際に暢赳ちゃんがいつも「僕も島に帰るー」と泣きだす。落ち着くまで、美加代さんは静かに待つしかない。
 週末、三人は島に帰る。有偉ちゃんはいつも、父の船「豊漁丸」の絵に「お仕事がんばってね」のメッセージを添えた手紙を持っていく。家族水入らずで一晩を過ごし、義和さんが漁に出ている間に三人は島を去る。
 一度だけ、義和さんが三人を見送った。暢赳ちゃんは声を出さずにぼろぼろ涙をこぼした。「わーって泣かない分、つらさが伝わってきて」と美加代さん。それから見送るのはやめた。

 「発生時、船同士が衝突するような衝撃があり…」=3月29日付夕刊証言・上田九十九さん(46)
 島の仮設住宅に入居した九十九さんは、アワビやサザエの潜り漁シーズンの今「期間限定」で、妻のさおりさん(35)と三人の子どもがいるかもめ広場に移り、島に通っている。
 「島の仮設でも昼間は仲間と話して気が紛れる。でも、夜がいかん」。気がふさぐのは不漁の日。暗く、がらんとした仮設の家に帰っても「捕れんやった」という気落ちした声にねぎらいの言葉は返ってこない。「次の日、漁に出るとがおっくうになる」
 潜り漁が六月二十一日に解禁されると、広場に移った。早朝の船で島に渡り、夕方の船で明かりのともる家に帰る。末っ子の長男、成太君(9つ)は一緒にお風呂に入るため九十九さんの帰りを待つ。食事は五人一緒だ。
 「目の前には母ちゃんがおって、右には成太。母ちゃんの左っかわに美里と亜寿美」。震災前の食卓の光景が復活した。テレビを見ながら、その日の出来事をにぎやかに語り合う。
 しかし、潜り漁が終わる盆過ぎには島に戻らざるをえない。次のカラトフグ漁は未明に出港するからだ。九十九さんは「後戻りするごたあなぁ」と、ちょっと寂しい。
 でも、さおりさんは言った。「一緒じゃないと家族のきずなって弱くなると心配したけど、そうじゃないと分かった。いないと『どうしてるかな』って考えるから、かえってきずなは強くなる」 (地域報道センター・古瀬哲裕、中山幸


福岡沖地震「1000人の証言」終了

■地震と報道 座談会 息長く伝える

 福岡沖地震の体験や教訓を実名、写真入りで、掲載してきた「証言」シリーズの登場者が千人を超えた。終了にあたり、久保田哲也・九州大農学研究院助教授と取材班の記者が、今回の地震報道を振り返るとともに、今後の災害報道の在り方について話し合った。


 ▼久保田哲也・九州大助教授
 くぼた・てつや 兵庫県尼崎市出身。京都大大学院修了後、旧建設省、環境庁、鳥取大助教授などを経て、2001年から現職。専門は森林保全学。1995年の阪神大震災は尼崎市の実家に帰省中に遭遇した。気象予報士の資格を持ち、ホームページで土砂災害のほか、福岡沖地震などの情報を発信している。50歳。

 ▼西日本新聞社会部記者      田中伸幸
 ▼     地域報道センター記者 岩尾款
 ▼(司会) 社会部長       田代俊一郎
地震報道について議論する久保山哲也九州大農学研究院助教授、田中伸幸記者、岩尾款記者(右から)=福岡市天神の本社

「証言」は貴重な資料
 取材
 ―取材班はどんな点に心がけて報道したのか。
 田中 まず地震の規模や被害の程度を詳しく伝えること。同時に地震の「空白域」と言われた福岡・玄界灘を震源とした大規模な地震がなぜ起きたのか、そのメカニズムをできるだけ分かりやすく報道しようとした。次に地震が起きた場合、災害を少しでも減らす「減災」につなげるにはどうしたらいいのか。それらを念頭に、防災先進地・静岡県の取り組みを伝える「どう守る都市」などの連載記事を出した。
 岩尾 被災者は何に悩み、葛藤(かっとう)したのか。一つひとつ丁寧に記録していくことで、「地震が起きると、こうなるんだ」ということを伝えようとした。
 ―本紙の「証言」企画では九州の人たちの体験や提言を四カ月にわたって展開してきた。余震も次第に減り、住民の関心も薄れる中では異例だったかもしれない。
 久保田 一人ひとり被災の程度は違うし、感じ方も異なる。あらためてそれを実感した。専門家にとっても貴重な資料だし、読者にも役立つ内容だった。ただ、行政職員の言葉が「今後の復興計画はこう進めたい」など、紋切り型で終わっていたきらいはある。個人の立場では難しいのだろうが、「いろいろ要求されても、自治体としては予算の限界があるんだ」といった本音がのぞいたのは少数だったと感じた。
 田中 各家庭で避難場所や連絡方法を考え出すなど、地震を教訓とした防災、減災の取り組みが広がっていたことが分かった。地震対策といえば、専門家や行政に取材しがちだが、証言取材で「わが家の防災」といった身近な取り組みに驚いた。

再建の過程とともに
 今後
 ―福岡沖地震を今後どう報道していくのか。
 岩尾 玄界島の復興計画に盛り込まれている新しい道路ができると、コミュニティーの姿も変わってしまうのではないかという指摘がある。島民の半数は今も、島外の仮設住宅で生活し、島にいる赤ちゃんはたった一人と聞いた。同世代と接しない状態が続くようであれば心配だ。島に戻った後、島民の生活がどう変わっていくのか。復興の取り組みとともに長い目で見ていく必要がある。
 久保田 阪神大震災でも、兵庫県西宮市などで多くの家屋が倒壊したが、その後の街がどうなったのか、たまにしか報道されず、正直、よく分からなかった印象が強い。一過性で終わるのではなく、多彩な観点で息長い報道を心掛けてほしい。
 岩尾 福岡沖地震は死者一人で軽微な震災と受け止める人もいる。しかし、例えば、マンションには外部からは見えない被害が広がっている。深刻な問題であることを連載で提起した。生活者にとって何が一番ためになる情報か、考える必要性を感じている。
 久保田 警固断層に関する記事が多いが、福岡県内でも大牟田や北九州の人は「関係ない」と思ってしまう。九州各地にどんな活断層があるのか、その状況はどうなのかといったきめ細やかな記事が必要だ。
 田中 警固断層については、「取り上げすぎ」との読者の指摘もあった。ただ、専門家は「九州で再び大きな地震があってもおかしくない」と口をそろえる。読者がより身近な問題に考えられるような工夫の大切さを痛感している。一方で、警固断層について言えば、周辺住民の関心は高い。専門家の調査結果を伝える場合も、いたずらに不安をあおらないために、推測や憶測を交えないように留意した。

視野広げきめ細かく
 災害
 ―阪神大震災以降、「減災」という言葉が定着した。地震に限らず防災全般の報道のあり方をどう考えるか。
 田中 九州は災害地帯で、今月も大分県を中心に豪雨災害があった。台風シーズンも迎える。五月から毎週土曜の朝刊に「九州防災新聞」を掲載し、地震に限らず、災害全般について防災意識が高まるような記事を目指している。
 久保田 マスコミは犠牲者が多い現場に殺到しがちだ。二〇〇三年の熊本県水俣市の土石流災害のときも、十九人の死者が出たため報道が集中した。しかし同じ時期に、福岡県太宰府市など別のところでも深刻な被害が出ていた。危険な場所はほかにもあるのに、その報道が抜け落ちてしまう。大分の豪雨にしても、物的被害を受けている人はたくさんいるにもかかわらず報道は手薄だと感じた。国や専門家も同じ傾向があって、報道で目立つところに調査団が集中するのも問題だ。
 岩尾 福岡沖地震のとき、読者から「被害に遭ったのは玄界島ばかりではない」と指摘を受けたことがある。糸島半島や志賀島なども積極的に取り上げるようにした。その一方で、仮設住宅で足りない物資について報道した結果、行政が動いて改善されたこともあった。行政が見過ごしがちな課題にも目を配りたい。
 久保田 地震はあらゆる場所で明日起こるかもしれない。豪雨災害が起きた地域でも、その周辺には危ないところがたくさんある。災害が発生した場所だけでなく、周辺も危ない。目前の被害だけにとらわれず、視野を広げて報道してほしい。
 ―福岡沖地震で、新聞社が災害、防災報道の大切さを見直したのは間違いない。行政にとっても今後、「防災力」がその成熟度を示す重要な指標になるだろう。福岡沖地震を、防災・減災の重要性を認識させた災害と受け止め、地域の立場から報道を続けていきたい。

記者たちの証言 福岡沖地震「1000人の証言」終了

 3月20日午前10時53分、九州の大地を揺らした福岡沖地震。九州北部では未曽有の震度6弱。私たちの新聞づくりも戸惑いと錯誤の中で始まりました。被害の実情を的確に素早くどう伝えるか。防災上の問題点はないのか。警固断層は大丈夫なのか。それぞれの記者たちは、4カ月にわたって震災報道に取り組んできました。節目で展開してきた「証言」特集の最後に新聞社の現場の声を紹介します。

 ●気が付けば…玄界島 久留米総局・吉井剛(34)
 「久留米に帰れません」。友人の結婚式で訪れていた福岡市。交通が乱れ、身動きできません。久留米総局は「こちらはさほどでもない。戻るより、本社へ」。たどり着いた本社で受けた指示は「玄界島に行け」。コンビニでメモ帳と使い切りカメラを買い込み、漁船をチャーターして島へ渡りました。
 場違いな結婚式のスーツ姿で取材中の私に、島民が声を掛けてくれました。「突然のことであんたらも大変やったんやね。今夜は島に泊まるとね? うちの毛布持っていき」。際限なく続く余震。わが家を失い、全島避難を迫られた地獄の中、他者を思いやる住民…。感謝を胸に、最前線ルポを書き連ねました。

 ●頭と体すぐに動かず 経済部・竹次稔(27)
 震度5強の余震があった四月二十日朝。泊まり込みの取材のため、玄界島の漁具倉庫で寝てました。「ドン」という大きな音とともに突き上げるような揺れで目が覚めました。本震のときは本社十一階でパソコンに向かっていましたが、本棚などはばたばたと倒れ「机の下にもぐらないと」とやっと気づいたときには、揺れは収まっていました。
 島と高層ビルの揺れの両方を体験しました。両日とも、情報を集めなければと思っても頭も体もすぐには動きませんでした。現場から情報を伝える立場の記者が被害当事者となりうる震災。またそのとき、この経験を生かせるかどうかは、正直分かりません。

 ●読者の声に復興確信 読者室・木戸脇正和(56)
 「まさかの時は中学校のグラウンドへ」。家族にそう言い置いて社に駆けつけました。階段で息を切らして十二階の職場に到達、室内を見てギョッとしました。スチール棚がすべて倒れ、本棚の中身は床にぶちまけられ、最悪の惨状でした。机上の書類も飛び散っていましたが、幸い業務の“心臓”たるパソコンや電話機は無事でした。
 発生後数日、読者室への電話は地震関連に集中しました。恐怖や不安を訴える声の一方、「義援金受け付けは始まっていますか」「役に立ちたい。ボランティアの窓口を教えて」といった申し出も多く、市民が助け合っていけば復興は早いと確信しました。

 ●対策取らず危険指摘 論説委員会・溝越明(58)
 地震が起きたとき自宅にいました。被害は食器が数枚割れた程度。すぐに職場に駆けつけました。論説委員会の部屋はスチール製ロッカーが折り重なるように倒れ、書籍や書類が床に散乱、足の踏み場もありません。原稿を書くためのノート型パソコンは何とか無事でしたが、同僚のパソコンはロッカーの下敷きになり、使用不能でした。
 「直下型地震を引き起こす恐れのある活断層が、全国に約二千カ所も存在している」。紙面を通して何度も危険性を指摘してきていたのに、私自身、福岡沖地震が起こるまで対策を取っていなかったのです。「不意への備え」の大切さを痛感しています。

 ●分からないこと多く 社会部・田中伸幸(33)
 いつ、どこで、どんな規模の地震が起きるのか。最新の科学をもってしても地震予知には限界があります。福岡沖地震の四カ月前、新潟県中越地震の被災地を取材したのですが、メカニズムについては正直、注目していませんでした。地震をどこか他人事のように思っていたのかもしれません。余震はいつまで続くのか、別の地震を誘発する恐れはないのか。分からないことがたくさん残っています。ただ、専門家は口々に、九州で再び強い地震が発生してもおかしくないと指摘しています。今回の地震の教訓を忘れることなく、しつこいくらいに情報発信し続けなければいけないと思っています。

 ●経験伝えること学ぶ 佐賀総局・河野潤一郎(30)
 取材を終えて外で人と話していたとき、「ゴォーッ」という地鳴りがして揺れだしました。激しい横揺れから縦揺れに変わり、思わずその人と体を支え合いました。揺れは、実際は一分間ぐらい続いたでしょうが、もっと長い時間に感じられ、怖かったです。電線が波打ち、「とにかく気象台から情報を」と思っても携帯電話が通じない。すぐに総局に戻りました。
 その後の取材でお年寄りが「地域の危険個所を図面化すべき」と話していましたが、「経験を子孫に伝えることの大切さ」を教わりました。人間の力の弱さを実感し、自然への畏敬(いけい)の念を強くしています。

 ●「お隣さん」こそ頼り 経済部・中村太郎(22)
 福岡市内の自治会長を取材したときのこと。大名、唐人町など都心部では、都市化と地域コミュニティーの問題が共通して話題に上りました。九州では福岡市の一極集中が進み、人口は百四十万人を超えました。都心回帰や単身世帯増加の影響で、都心部ではマンション建設ラッシュが続いています。昔からの住民と新来のマンション住民との共存が課題になっています。
 災害時にまず頼りになるのは、遠くの親せきよりも近所の顔見知りです。いざというときの「お隣さん」との関係をどう築いていくか。「町」から「街」へと変わっていく福岡市への大きな課題です。

 ●痛み感じる余裕なく 社会部・吉良治(38)
 午前十一時前。日曜の宿直明けで、閑散とした本社ビル十一階でパソコンに向かっていたとき、突然、激しい揺れに見舞われ、棚の本やテレビが降ってきました。ビル倒壊、死者多数…。最悪の光景が頭をよぎりました。何から手をつければ。焦るほど頭が回らない。記者としては、消防や警察に真っ先に電話するべきだったかもしれません。でも最初に電話したのは自宅。妻と息子の無事を確認して少し安心しました。同僚が次々と駆け付けてきたころ、ズボンに血がにじんでいるのに気付きました。揺れで飛び出した机の引き出しの角で切ったのでしょう。痛みを感じる余裕すらありませんでした。

 ●とにかく号外の一心 編集センター・田代謙一(36)
 激しい揺れを感じた日曜の昼前、紙面づくりを担当する編集センターにいたのは、号外発行に備える日直勤務の私だけでした。棚が倒れ、テレビが落ちた編集局フロア。「とにかく号外を出さねば」。その一心でデスクや同僚に連絡を試みますが、思うようにつながりません。焦りと不安が募る中、本社近くに住む若い記者たちが次々に駆けつけ、ひと安心。無事に号外が出せました。その後も最新の情報を取り入れながら、一時間ごとに号外の内容を更新していきました。一カ月後の最大余震は自宅で体験。バスに飛び乗り、夕刊前の号外製作に参加できました。フットワークの大切さを再認識しました。

 ●普賢岳災害と重なる 写真グループ・納富猛(42)
 「玄界島に飛んでくれ、大きな被害が出ているらしい」。その一報で福岡空港をヘリで離陸、約七分後、島の上空に着くと取材や消防などのヘリ数機が旋回していました。付近の海上では自衛隊の大型艦が警戒していました。
 倒壊した家屋、港や小学校の大きな地割れ、避難する人々…。上空から見る被災地のつめ跡は十四年前に取材した長崎県の雲仙・普賢岳災害と重なりました。
 島原市や深江町では多くの人たちが被災し、火砕流や土石流と闘いながら復興に努めてきました。玄界島の人たちだってきっと地震に負けない。そう信じています。

 ●機器類が無事で安心 デザイングループ・佐藤一司(40)
 当日は休日でドライブ中でしたが、すぐに帰宅し出勤。災害時の対応については確認していたので、発生から三時間以内にはグループ全員が顔をそろえました。職場は本棚が倒れるなど足の踏み場もない状態でしたが、コンピューター関係が無事だったのは幸いでした。各地の震度を示す地図をはじめ、玄界島の地図、断層のずれ方を示す図解など、多くのグラフィックスを分担しながら作ることができました。その後も余震回数のグラフや活断層の地図などを通して地震のメカニズムや実態を分かりやすく伝えようと心掛けました。作成の要請があるたびに災害のつめ跡の大きさを実感しています。

 ●家族のきずな深まる 文化部・宮崎拓朗(24)
 地震から約二十日後。福岡市東区の奈多団地で聞いた男性(66)の話が忘れられません。「妻は余震のたびに悲鳴をあげる。まだ不安なのでしょう。血圧が上がり、夜間、病院に連れていった」。とても心配そうでした。
 後日、そのご婦人に会って、男性の話を伝えたら涙ぐまれました。「夫は『これぐらいの余震で』と言って、普段は私を心配するそぶりを見せません。そんなに気にかけてくれていたとは」。地震を通し、家族のきずなを深めた人たちがいます。「被災の不幸」の一方で、地震が身近な人の大切さをあらためて気づかせた面もあるのではないでしょうか。

 ●他者の痛み出発点に 社会部・河津由紀子(23)
 入社五日目から夕刊連載「1000人の証言」取材を始めました。何のために数を集めるのか。似たような話になるのではないか。最初はそんな疑問を抱いていました。しかし…。半壊したマンションの男性は、部屋や調度品に詰まった思い出も一緒に壊れたと嘆きました。エレベーターに閉じこめられた青年は、安眠できなくなりました。駐在所のお巡りさんは、顔見知りの家族が家が壊れて引っ越すのに何もできない、と肩を落としていました。地震が残した大きな傷跡。家を失ったり、けがをしただけではありません。いろんな人が心に痛みを負っています。この取材を記者としての出発点にしたいと思います。

 ●マンション復旧早く 地域報道センター・白土靖(37)
 福岡市中央区の知人のマンションが地震で大きな被害を受けました。退職を機に買ったマンションの外壁は壊れ、ドアは変形しました。「他人事ではない」という思いが、マンション被災の連載取材のきっかけになりました。あれから約四カ月。知人の不安は解消されていない。いまだ復旧工事などの協議が管理組合でまとまらないためです。福岡市の共同住宅は住宅全体の七割以上。近所付き合いが希薄な暮らしを好む都市生活者も多いでしょう。地震後、避難先などのルールを決めた家庭も多いと思います。同じ屋根の下で暮らす者同士も、最低限のルールを確認するときではないかと思います。

 ●関心低かった霞が関 東京報道部・浜田耕治(37)
 一報を受けて国土交通省に駆けつけました。港湾や空港、鉄道などを所管する国交省には情報が迅速に集まるはず。そうにらんで張り付き、刻々と変わる被害状況を取材しましたが、目算は狂いました。テレビのニュースよりも情報が遅い。いくつもの部局で確認され、集約されて公表されるため、どうしても時間がかかる。もどかしさが募りました。
 関心の低さも気になりました。地震の規模の割に被害が小さいと判明すると、「玄界島地震」と呼ぶ職員も現れました。被災した人々の不安や、苦しみはなかなか霞が関には届かない。地元紙の役割の大切さを、強く認識させられました。

 ●災害取材どう動くか 運動部・森淳(24)
 雁の巣球場(福岡市東区)で福岡ソフトバンク二軍の練習を取材中でした。両翼ポールが地面と水平になるぐらい大きく振れ、秋山二軍監督はじめ選手、スタッフは騒然。抱えていたカメラで思わずその様子を撮ったのを覚えています。現地へは地下鉄、JRの乗り継ぎ。交通混乱には参りました。バス、タクシーも来ないので足がなく、帰る方向が同じ球団トレーナー氏の車に乗せてもらい帰社しました。ただ、私が帰り道の確保に四苦八苦している間に、雁の巣よりさらに半島(海の中道)の先にある西戸崎合宿所の損壊を追ったメディアも。記者として災害時にどう動くか考えさせられました。

 ●話をしてくれた遺族 社会部・塩入雄一郎(27)
 「塀の下敷きになった女性が死亡」。一報を聞いて福岡市博多区吉塚の現場に走りました。女性は町内会の路上清掃の帰り、自宅近くの路上で地震に遭いました。地面に伏せたところに高さ一・五メートル、幅五メートルのブロック塀が倒れてきました。七十五歳。福岡沖地震で唯一の死亡者でした。
 一週間後、長男の方に取材しました。「母はただ不運だった」。悲しみが癒えないのに話をしてくれました。「母の死を教訓になんて、まだ考えられない」とも。その後ブロック塀の安全性が問題視され業界や自治体で改善に向けた取り組みが進んでいます。地震は防げなくても、犠牲者を減らす努力が必要です。

 ●デマ、書いて打ち消す 社会部・小出浩樹(45)
 全体の地震報道は(1)都市防災(2)被災民のコミュニティー(3)千人の証言―という三つの視点を柱にしました。ほかに意外に難しかったのは「デマ」をどう扱うかでした。「地震雲が出ている」「東区の〇△という天才少年が地震を予言した」「×〇大の□△教授が〇日×時に巨大地震が来ると発表した」。笑えないのは広範囲で固有名詞まで同じデマが出回っていたことでした。新聞社への問い合わせもひっきりなし。無視する手もありましたが、一部については科学的根拠を否定し、そのうえで「備えだけは万全に」と報道しました。活字の力でうわさと不安を打ち消す効果は小さくなかったと考えています。

 ●慢心せず次に備えを 鳥栖支局・末継智章(26)
 地震発生時は佐賀県基山町で車を運転していたので、揺れに気付きませんでした。鳥栖支局管内のみやき町が震度6弱と聞いたときは焦りましたが、酒造会社で大量の空き瓶が割れた以外に大きな被害はなく、胸をなでおろしました。福岡市の惨状を見ていると、同じ震度だったとは信じられません。みやき町の職員は「地震に強い町だと証明された」と胸を張っていましたが、偶然、けが人が出なかっただけ。「少しの揺れにも反応してしまう」などと、精神的なショックを訴える町民もいます。町は地震を過去の出来事とせず、防災マップを作るなど、今後に備える姿勢を見せてほしいです。

 ●取材予定急きょ中止 編集企画委員会・川上弘文(60)
 「大変なことが起こったぞ!」―。福岡市早良区の取材相手に会うため、携帯電話で会話中、相手はそう言って電話を切りました。そのとき、いたのは同市南区のバス停。何が起きたか分からない。数秒後、電柱、電線が揺れ、通行人が右に左に揺れました。まち全体が酔っぱらったように見えました。歩いて出社した会社の部屋は棚がすべて倒れ、本が床に散乱。日ごろ無口のバイト生も出社して、一緒になって片づけました。予定の取材は中止。後日、体験談を話し合った竹下輝和・九州大教授(建築学)とは、緊急時向けの「職場の空間単位、部屋ごとの管理体制が必要」という認識で一致しました。

 ●地下鉄脱出まで取材 地域報道センター・塚崎謙太郎(35)
 普段より遅めの休日出勤。市営地下鉄七隈線に乗り、携帯電話で音楽を聴きはじめたとき、車両が揺れ、トンネル内で止まりました。脱出までの約一時間、写真を撮り、乗客の話を聞きながら、震度6弱の地上を想像しました。傾くビル、燃える家屋…。隔離された地下空間で、福岡の街に「神戸」を勝手に重ねました。地上へ出ると、公衆電話の列を除けば、街はそのまま。あの日、イメージした福岡の“惨禍”は、後に取材した玄界島の痛々しい姿にも重なり、今も頭から離れません。大地震はいつ、どこでも起こり得る―。消えないイメージが、災害への備えと覚悟という「教訓」を迫ってきます。

 ●「情報」抱え11階往復 編集センター・染矢尭志(23)
 普段は紙面編集の仕事をしていますが、この日は号外配りに追われました。本社十一階で張り出し用数枚と配布用数百枚を抱え、エレベーターが停止しているなか、階段を駆け下りました。街頭に出た途端、行き交う人の視線を一斉に浴びました。四方八方から手が伸びてきました。みんな情報がほしいのでしょう。自分がどのような状況に置かれているのかを知るために。張り出した建物の支柱の周りにはすぐに人だかりができました。
 その後一時間おきに号外を作り替え、そのたびに階段を往復しました。情報を伝える大変さを普段と異なる経験であらためて実感しました。

 ●釜山との近さ再認識 釜山日報記者・崔龍五(36)
 三月に交換研修記者として西日本新聞に派遣されたばかりで、いきなり初めての大きな地震を体験しました。驚きを抑えながら、地震の記事を韓国・釜山の本社に送りました。福岡から約二百キロ離れた釜山でも震度4程度の揺れを感じたといいます。翌日インターネットで見た釜山日報には「福岡で大地震」と大見出しで載り、釜山市民にとって福岡との地理的近さを再認識するきっかけにもなったと思います。地震の日、韓国と電話連絡がなかなかとれなかったのは困りました。韓国のテレビでも福岡の地震が字幕で速報され、釜山にいる私の両親は心配して連絡を待っていたそうです。

 ●安全国ではないのに ソウル支局長・原田正隆(47)
 福岡沖地震で韓国全土も揺れた当時、二通りの言葉を何度も聞きました。「もう地震安全国とは言えなくなった」「揺れの原因は福岡だし、韓国は地震安全国だからこれからも大丈夫」。前者を語っていた韓国人も、最近では後者の言葉をよく口にします。実は、十六―十七世紀の朝鮮半島では、震度6―5規模の地震が多発していました。昨年までの七年間でも、韓国で六百四十一回の地震が発生、うち震度4規模が三十四回に上っています。それでも、韓国政府や多くの自治体、市民の危機意識は薄いようです。「韓国は地震安全国ではない。福岡も以前は安全と言われていた」。周りの人には、そう教えているのですが…。

 ●取材ノートは13冊に 社会部・東憲昭(33)
 「情報がない。誰か説明して」。地震直後、福岡市・天神にあふれた人たちの言葉から始まった取材ノートは、四カ月で十三冊になりました。以来、埋め立て地の液状化現象など「地震の教訓を都市防災へ結び付ける」取材を続けました。
 忘れられない出来事があります。能古島(同市西区)で、地震の揺れで崩落した数十トンの岩が民家の居間を直撃しました。当時、状況を詳しく話してくれた家のあるじは一カ月後、「もう、放っておいてくれ」と背中を向けました。報道される側の気持ちに寄り添う報道とは。十四冊目のノートを手に、今後も自問しながら取材を重ねたいと思います。

 ●記憶薄れてきた人も 文化部・大矢和世(23)
 東京で過ごした三年間の小学校時代、毎年、関東大震災が起きた九月一日の「防災の日」に地震を想定した避難訓練が必ずありました。教室のいすに常備している防災ずきんをかぶって机の下にもぐり込んだことを覚えています。避難場所を示す掲示板もあちこちで見かけ、地震は身近なものでした。福岡ではどうでしょうか。福岡沖地震の取材で多くの人から「福岡でまさか地震が起きるとは…」との言葉を聞きました。その後の取材で地震当日の行動を尋ねても「もうだいぶん前の話だし」と記憶が薄れている人もいました。熱しやすく冷めやすい。報道も含めてそうならないようにしたいと思います。

 ●机上と違う災害現場 筑豊総局・一瀬圭司(27)
 福岡県穂波町の体育館で、スポーツ大会を取材中のことでした。揺れを感じた瞬間、バリバリと音がして天井から畳大の石こうボードが次々と落ちてきました。破片が体に当たり、正直、「死ぬかも」と思いました。
 大学院で危機管理を学び「体育館は避難場所で安全なところ」というイメージを抱いてましたが、このありさまだと街は大被害だと焦りました。ところが、筑豊地区で一番被害が大きかったのはこの体育館だと分かり、あぜん。その後の取材や報道で、体育館には老朽化し、危ないところが多いことも知りました。いざというときに備え、防災対策を練り直す必要性を痛感しています。

 ●記録続ける覚悟必要 地域報道センター・岩尾款(31)
 「玄界島がひどいようだ」。地震発生当日、福岡市消防局で聞いた一言が始まりでした。以来四カ月余り。避難所の体育館で、島で。多くの記者とともに「島民の今の思い」を聞こうと努めてきました。心にずっとあったのは、同僚が聞いた「島の最後の復興までついてきている記者が一人でもいてほしい」という島民の言葉です。何の利益ももたらさない震災から、唯一得られるのは「教訓」しかない。ほとんどが住む家を失い、家族離ればなれの生活を強いられている玄界島住民。「島の地震は終わった」。その言葉を聞くまで記録を続けることが、震災の教訓を生かすことにつながると思います。

 ●カメラ手に駆け回る 写真グループ・井上まき(49)
 宿直明けの朝、本社十階の職場で朝刊に目を通していました。小さな揺れ。と思った瞬間、突然「ビルが崩れる」と感じるほどの激しい横揺れになり、悲鳴をあげながら机にしがみつきました。
 デスクや同僚とはなかなか連絡が取れません。焦りと不安で混乱しながら、カメラを手に非常階段を一気に駆け下りました。
 警固公園や福岡市役所前は避難した人たちであふれていました。歩道に散乱する窓ガラスの破片を撮影した時、あらためて地震のすさまじさを実感しました。玄界島の被害を知ったのは、取材を終えて本社に戻ってからでした。

 ●島思う子見守りたい 地域報道センター・中山幸(26)
 玄界島(福岡市西区)住民が仮設住宅暮らしを送っているかもめ広場(中央区)を中心に取材しています。夏休みの広場は、島の子どもたちのにぎやかな歓声に包まれています。間借りしている小中学校の子どもたちも遊びに訪れる姿も見かけるようになりました。友だちの輪も広がりつつあるようです。
 新生活にも慣れたように見える無邪気な子どもたち。しかし何げない会話の中に、島の思い出や別れて暮らす父親や祖父母を気遣う言葉がまじります。「島の海で泳ぎたい」「お父さん元気かな」。島に子どもたちの笑顔が戻るまで、これからも見守っていきたいと思います。

 ●カメラ構え津波狙う 対馬通信部・大江正康(56)
 車を運転中、ラジオで地震を知りましたが、揺れを感じず、よその出来事と思っていました。しかし、津波注意報の発令を知ってびっくり。すぐ、近くの漁港に停車しました。
 予想される津波の高さは五十センチ。でも、念のため防波堤の陸側まで下がってカメラを構えました。到達予想時刻を過ぎても潮位に変化はなく、問い合わせをしようにも携帯電話は通じませんでした。対馬は地震がないといわれてきただけに、震度4に多くの人が驚き、戸惑っていました。正確な情報と災害に対する備えの必要性を痛感しました。地震以降、車にはライト付き携帯ラジオを置いています。

 ●何を伝えるのか自問 地域報道センター・平原奈央子(24)
 小旅行に出掛けようと地下鉄薬院駅の構内にいたときに、地震が。ささやかに過ぎるはずだった休日は一変しました。すぐ向かった先は普段から取材している福岡市の天神・大名地区です。昔ながらの住居のほか古い建築物を活用した店舗が多く被害はかなり深刻。取材していると「あなた今どんな気持ち?」「書いたらつまらんて」。なぜ記者は災害の現場を撮り、声を拾うのか。そんな問いが頭を駆け巡る中、とにかく話を聞いて歩くと、地震の夜、大名全域でひどい落書きの被害があったことも分かりました。記者になって一年半。伝える、ということは何か、あの日以来考え続けています。

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