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■あすの安全問い続け 被災者の目線で取材
「地震空白地帯」で発生した三月二十日の福岡沖地震は、日本列島どこでも大地震が起きることを見せつけた。発生から十年たった阪神・淡路大震災も、半年たった新潟県中越地震も、専門家でさえ「まさか」と思う地帯で起きていた。「震災は人ごとではない」。教訓を生かすために、地震や被災者とどう向き合い、どう伝えていくべきか―。震災報道を続ける神戸新聞の磯辺康子(社会部)、新潟日報の中村茂(報道部)両記者を迎え、西日本新聞の田中伸幸(社会部)川原隆洋(地域報道センター)両記者が語り合った。 (司会は田代俊一郎・西日本新聞社会部長)
長いスパンの施策必要・磯辺 地域の結束強さ感じる・川原 ■被災地の現状 ―阪神、新潟、福岡の地震は規模こそ違え、そもそも大きな地震が予想される地帯ではなかった。福岡で地震と聞いてどう思ったか。 磯辺 最大震度が6弱と聞いたとき、「阪神のときと比べれば、被害は大丈夫かな」と感じた。神戸の人はほかの地域の地震に敏感。震度7なら揺れはこのくらいで被害はどのくらい、6強ならこう、との感覚をそれぞれ持っている。福岡という発生場所の意外性はあまり感じなかった。九州は雲仙・普賢岳の噴火や福岡の水害など、災害によく遭っているとのイメージがある。福岡が地震が少ないのも、今回初めて知った。 中村 私も福岡が地震が少ないことは知らなかった。日本はどこで地震が起きても何の不思議もないと思っていたから。入社したころ、震度4の直下型を経験した。実に被害が局所的だった。その後、同じような地震が全国で起こっていることを知った。なぜ、地震防災は太平洋側ばかり重視されるのだろう、と当時思った。 ―神戸、新潟、福岡の被災地は今、どんな姿なのか。 磯辺 神戸では丸五年で四万八千戸あった仮設住宅がなくなり、災害復興住宅に移った。高齢者は相次ぐ引っ越しを余儀なくされ、周りとの関係を結べぬまま、孤独の中で都会に住んでいる。あれだけ公営住宅が街中に立つ自治体は少ない。長いスパンの施策が必要だ。 中村 雪のため、(旧山古志村など山間地の)本格復旧はこれからだ。農地の水路では、地下水脈が変わって水が出なくなったところもある。道路も応急処置しか済んでいない。行政は三月、復興プランを作った。住めなくなった集落は、ごっそり別の場所に移して再生させる内容だ。 磯辺 仮設住宅だが、災害救助法上、被災者は二年以内に出ていかなければならない。新潟を取材した際、被災者から「二年しかいられないのよね」と言われた。その間に次の行き先を考えねばならず、大きなプレッシャーだ。神戸市には「仮設を早くなくしたい」との意向があり、被災者は「追い出された」との印象を持っている。特に、震災ですべてを失った高齢者の中には、無料で住める仮設に残りたいと思っている人も多い。 中村 二年で出て行けじゃなくて、二年以内に、行政が帰れる場所を確保すべきだ。被災者は、早く仮設を出て生活の基礎を固めたいのが本音だろう。しかし新潟では、農業も再開できるか不明。実際帰られるかは本人たちも分からないのが現状だ。 ―福岡はどうか。 川原 玄界島の仮設住宅は、島と本土に百戸ずつ建設される。島民の島に住みたいとの希望が強く、当初の計画より島の戸数を増やした。福岡市は十二日に「福岡市地震災害復旧・復興本部」を立ち上げた。柱は「生活再建」「産業支援」「インフラ復旧」「玄界島復興」の四つ。特に被害が大きかった玄界島については、島内に「復興事務所」を設け、市職員が五人態勢で生活再建を支える。また、島民が日常生活を取り戻すまで長い日数がかかるとして、市は玄界島の復興計画も作る考えだ。 ―玄界島の住民が避難している九電記念体育館の印象はどうか。 磯辺 九電体育館は、仕切りのついたてが低く、座っていても互いに顔が見え、気を配りあえる。安心感がある。新潟の避難所も同様だった。(都市型災害だった)神戸はまったく逆。完全に仕切っていた。ふだんから隣に誰が住んでいるか分からない都会暮らし。避難所で横に知らないおっちゃんが寝ている状況が耐えられない。 川原 九電体育館の避難者は一時三百三十人ぐらいに減ったが、いったん親せきなどの家に移った人たちが、「情報がほしい」「島の人と一緒にいたい」と再び戻ってきた。コミュニティーの結束が強い。
支援拡大し元気づける・中村 「地震もうない」に警鐘・田中 ■報道ポイント ―何を軸にして報道してきたか。 中村 (大きな被害を受けた)中山間地の復興を大きなテーマにしてきた。中山間地の復興には、都市の住民の理解と支援が必要で、被災者は支援をもらうことで元気づけられ「よし、山に帰ろう」という気になる。 磯辺 神戸では、六千四百人以上の命が奪われたことと、どうしてそれだけの人の命が奪われなくてはいけなかったのかを大前提にしてきた。圧死や窒息死など、震災による「直接死」は約五千五百人。一方、震災後に自殺したり、体調を崩して亡くなった「関連死」といわれる人が約九百人いる。新潟の地震でも亡くなった四十六人の半分以上が「関連死」で、そのことにすごくショックを受けている。神戸の教訓を生かせなかった、私たちが伝えきれなかったということではないかと。 中村 新潟では「直接死」は十六人で「関連死」が三十人。われわれも最初は何でこんなことが起きたのか分からなくて戸惑った。 磯辺 「雨露しのげて食べ物があればいい」という、食べ物も住まいも十分にない時代を引きずった国の災害対策への意識に問題がある。阪神大震災クラスでも一週間たてば(全国からの支援で)食べ物はあふれていた。災害で飢え死にすることはない。でも、豊かな時代だからこそ復興が難しいということをもっと問い続けなくてはいけないと思っている。 ―福岡ではどうか。 田中 「こういう地震は何千年に一回しかないから、もうないよ」と、高をくくっている人が多いと感じる。 川原 心のケアの相談窓口は何時から何時までとか、中小企業向け融資窓口など被災者の生活関連情報を書いているが、新潟では今もそのような報道を続けているのか。 中村 地震発生当初に比べれば少なくなったが、続けている。このような情報は、私たちが「どれだけ必要か」を判断することはできない。とにかく、ある情報を被災者に届けてきた。それが新聞の役割だと思う。 ―震災前と後で何が変わったか。特にボランティアはどうか。 田中 震災三日目ごろ、九電体育館に行ったとき、窓口で「ボランティアは福岡市近辺の人たちで足りそうだから、ほかの人は断りたい」と言っていた。ボランティアをやりたい人がいても限られる難しさを感じた。 中村 地震の場合、最初の数日間はボランティアが来ても、危険だから個人の家に行けない。避難所に行ってお年寄りの相手をしたり、子どもの遊び相手をするしかなかった。余震が収まってから、各個人の家に手伝いに行っていた。子どもの勉強をみてやったというのもあった。 磯辺 阪神大震災によって、災害が起きればボランティアが行き、そのための窓口を行政が開くという考え方が根付いた。ただ、行政が窓口を開くことによってボランティアが管理される懸念はある。行政が朝九時から午後五時までしか窓口を開けませんといったら、その時間しかボランティアに行けない。でも、被災者がたいへんなのは夜だったりする。柔軟に対応できるのがボランティアの強みで、その辺はボランティア自身が意識していないと行政に使われるだけになってしまう。 ―行政が変わったところは。
磯辺 神戸市や兵庫県は、外部から見ると、あれだけの被害を受けたので防災対策は進んでるのではないかとみられがちだけど、学校の耐震化率は低いし、建物の耐震補強に対する助成も遅れている。十年間、復興に金を注いだので、防災には熱心ではなかった。中村 国がやるべきことと、市町村がもっと柔軟にやるべきこととがあると思う。たとえば団地を造成しても、高齢者が自分で家を建てるのは厳しい。国が出した金を市町村が自由に使える制度があればいいと思う。
話にじっくりと耳傾け・磯辺 ■取材の在り方 ―報道陣が大挙して被災者を取材するメディアスクラム(集団的過熱報道)の状況はあったか。 磯辺 あったと思う。うちは地元紙ということもあり、実際、自宅が全壊するなど記者も被災者だったという事情もあって「あんたんところも大変やな」と取材のとき、逆に同情されることもあった。しかし、外から入ってきた報道陣に怒りを覚えていた被災者はいたと思う。 中村 報道される避難所とそうでない避難所の差が大きかった。山古志村(合併により現在は長岡市)は、取材でも取り上げやすいこともあって、報道される機会が集中し、全国から義援金が集まった。山古志村の仮設住宅には、テレビ、冷蔵庫、電子レンジなどがそろっていて、すぐ隣の山村の仮設住宅とは状況が全く違っていた。 田中 福岡でも、報道が玄界島に集中した。しかし志賀島でも、道路が寸断されている。地元の被災者から「あなたたちは、ちゃんと被災地を見ているのか」と言われた。どこかの時点で視野を広げる必要を感じた。 川原 福岡市役所の記者室にも「西日本新聞は玄界島と大名しか取材しないのか」という抗議が読者からあった。すぐに、ほかの地域にも目を向けるようになった。 ―福岡沖地震では、被災者の申し入れにより、避難所での取材に時間制限などのルールができたが、神戸や新潟ではどうだったか。 磯辺 被災者からすれば、避難所は住まいであり、(制限はある程度)仕方ないと思う。 中村 一部の避難所で制約があった。首相やタレントが来ると、どっと報道陣が集まる。被災者の中には、疲れて横になりたい人もいるので、やはりやむを得ない部分はある。ただ、どちらかというと被災者より避難所を取り仕切る行政の方がピリピリしていた。住民から「ゆっくりしていけば」と言われたこともある。 ―取材のとき「これだけはしない方がよかった」と思うことはあったか。 磯辺 心掛けていたのは、あまりきれいな格好で取材に行かないこと。被災者はパンツ一枚も、はし一本もない異常な状況に置かれているのに、報道陣は普通の状況から取材に来る。それが被災者には耐えられない。また、被災者に話を聞くときは、手っ取り早くではなく、じっくり話を聞かないと、相手の思いはきちんと出てこなかった。 中村 黒塗りのハイヤーで取材する他社の記者と違い、うちの記者はマイカーで取材に回っていた。ひげは伸び放題、一週間も風呂に入っていない状態で取材を続けた。被災者から「大変だね」といたわりの声をかけられることが多かった。 磯辺 新潟の被災者を取材した際、「東京のマスコミから質問されると、標準語で答えなければならず大変だ」との声を聞いた。こんな問題もあるんだと思った。 ―被災者と同じ目線で取材することが大切ということか。 田中 福岡沖地震の取材でも、被災者アンケートをするとき、数をこなすのではなく、じっくり被災者と向き合って、その言葉に耳を傾けるよう注意した。
「今」の部分を毎日書く・中村 ■新聞の役割 ―今後、災害報道で新聞はどのような役割が求められるのか。 磯辺 被災者のつぶやきの中から事実を重ね、今、何を書くべきかを考えていくのが基本姿勢だ。神戸の被災者で、最後の一人が復興するまで、復興は果たせたとは言えない。被災者の心のひだを読みとる作業は、私たちが追いかけないといけない。それが新聞の大きな役割だ。 中村 被災者が今、何を求めていて、何が問題になっているのか、「今」の部分を毎日書かなくてはいけない。また、行政の被災者支援の制度をもっと柔軟に使えないか、新しい制度が必要ではないかと訴える役割もある。さらに、新潟県中越地震では、阪神大震災や四十年前に新潟で発生した地震の教訓が生きた。新聞の記録性を考えると、私たちも何か教訓を残すべきだ。中山間地の復興モデルを被災者と一緒に考えたい。 田中 今は、地震が発生した直後だが、防災への意識はだんだん風化していく恐れがある。防災先進地といわれる静岡県の取り組みなどを伝えていきたい。 川原 今まで福岡での災害は水害、台風、渇水くらいしか考えていなかった。だれも地震が起きることを意識していなかった。次への安全につながるような紙面を作りたい。
[2005/04/19] |
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