日本の言語学者が撮影した矢多一生さん(台北市・南天書局提供)
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阿里山国家風景区の西部、急斜面を高山茶の緑が覆う山の中腹に、達邦村はある。山地とはいえ、真夏の強い日差しが肌をさす。村の入り口では、伝統衣装姿の男女の像が迎えてくれた。道路の側壁に延々と描かれた狩りや祭りの絵画群は、ここが華人文化とは異質な、先住民集落であることを実感させる。
のどかな村に今春、ベートーベンの交響曲「運命」第二楽章が流れた。谷底を流れる渓流、曽文渓から沸き上がる霧のように、盛り上がっては静まる調べは、矢多が遺言で「死後聞きたい曲」にあげたものだ。
五十回忌の節目の式典。矢多の二男、高英傑(64)は日本語で墓前にこう語りかけた。
「お父さん、ベートーベンの音楽ですよ。大好きなビールを飲みながら聴いてください」
国民党政権下、矢多は名前を漢人風に高一生と改めた。姓の「高」は、先住民を総称した「高砂族」からとった。高砂族きっての〓英(エリート)という意味だ。戦後、呉鳳郡(現・阿里山郡)の郡長に任命され、対外的にツォウ族を代表する地位に就く。
台湾南部、阿里山中心部の山並み
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が、この栄誉が悲劇へと暗転する。一九五四年四月十七日、スパイをかくまったでっち上げの罪で銃殺処刑されたのだ。享年四十六。村人へは「矢多の家族と行き来すると銃殺」と宣告。四十年近い戒厳令下、矢多をめぐる史実は封印された。
しかし、民主化の進展に伴い闇に光が差す。ロシアの東洋学者、ニコライ・ネフスキーが、矢多の協力を得て書いた「台湾鄒族語典」の中国語訳本が九三年に刊行され、ツォウ族文化や矢多の業績が脚光を浴びた。翌年には雑誌「台湾文芸」が矢多の生涯や詩歌を特集。ツォウ語の学習教材も刊行され、矢多の音楽会や学術講演会も開かれるようになった。
そして今、行政院(内閣)は、矢多がいち早く提唱した先住民の自治構想を具現化するため、「原住民族自治法」「原住民族基本法」という二つの法律を策定中だ。台湾先住民の歴史は転換期に立つ。が、台湾社会の先住民差別は根深く、「運命」の楽曲がふさわしい矢多の生涯は、台湾民衆の心の扉をまだ開かずにいる。 (文中敬称略)
▼高砂族 昭和天皇が皇太子時代の1924年に訪台されたおり、山地先住民の総称として提案されたと伝えられている。台湾の先住民は現在、12部族に大別され、人口約44万人。ツォウ族は阿里山一帯に暮らし、約5400人。

矢多が創作した歌曲は、十数曲が現存。美しく悲しい旋律、ツォウ族の伝統による力強い響きが特徴だ。
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