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 日本統治下、台湾南部の阿里山に、日本人以上に日本人になろうとした男がいた。勇猛果敢な先住民、鄒(ツォウ)族に生まれた矢多一生(本名ウオン・ヤタウヨガナ)。村の教師兼巡査から政治指導者となった矢多は、日本語で歌曲をつくる非凡な才能の持ち主だった。非業の死から半世紀。再評価が始まった矢多は、どんな思いで人生を燃焼させたのか。その軌跡を求めて阿里山を訪ねた。
 (台北・竜口英幸)

  <2> 「学業優秀」で師範学校へ 
       「理蕃」政策の優等生に
2004.08.11掲載

 
矢多が学んだ当時の面影を残す台南大学の校舎

 八月に入ると、阿里山は雨期も終わり、観光客で活気を取り戻す。お目当ては森林鉄道に日の出や雲海見物。阿里山森林遊楽区の標高は約二千五百メートルで、夏でも明け方は分厚い掛け布団が必要だ。避暑に訪れる家族連れも多い。

 阿里山は、かつてヒノキの巨木の森に包まれていた。このヒノキが、日本と阿里山とを結ぶ特別な関係を築いた。東京・明治神宮の鳥居も、阿里山から運ばれたヒノキだと伝えられている。

 台湾総督府の民政長官、後藤新平(のちの東京市長)は、一九〇四年に阿里山を現地調査し、森林鉄道の建設を決めた。森林資源の開発が目的だった。だが、一帯はイノシシやヤマヤギなどの狩猟場。阿里山周辺に住むブノン族がしばしば出入りし、ここを本拠地とするツォウ族と争っていた。

 矢多一生の父、阿巴里(アパリ)は、日本軍に協力してブノン族掃討に貢献し、巡査補佐の地位を手にする。これは、矢多が日本人にひときわ目をかけられるきっかけとなった。

 矢多は村の先住民の学校である蕃童教育所で五年間学び、嘉義市の旭公学校に編入された。異例のことで、成績優秀の証左だ。さらに父の事故死に伴い、千葉県出身の台南州警部、大塚久義に引き取られ、二五年、台南師範学校(現在の台南大学)へと進む。ツォウ族の子弟では初の快挙だった。

 だが進学は、先住民を文明化するという日本の「理蕃」政策の推進者へと矢多が組み入れられ、運命の歯車が回り始めたことを意味した。

 
師範学校時代のテニス授業(前列右端が矢多)
 矢多が青春時代を過ごした台南は、台湾の古都であり、台湾の中では最も伸びやかさを感じさせる、明るい都市だ。

 台南大学の校舎は、矢多が学んだころの面影を今にとどめる、赤レンガ造り三階建て。回廊は涼やかな日陰をつくり、吹き渡る風が心地よい。この学舎で矢多は吹奏楽に情熱を傾け、日本文学にも親しんだ。

 「一度聞いた歌は決して忘れない」といわれるほど、先住民の人たちは音楽好きで定評がある。矢多は師範学校で音楽の才能に磨きをかけ、心の原風景である阿里山にちなむ「登山列車」「登玉山歌」「狩猟の歌」などを作った。

 阿里山にやってきた日本人はサクラを植え、ワサビ栽培を伝えた。戦後来台した国民党政権は、阿里山のサクラを切り、ウメを植えるよう求めたが、矢多をはじめツォウ族はサクラをかたくなに守った。その一徹さは、日本とのきずなの深さのあかしでもある。

 (文中敬称略)

 ▼蕃童教育所 先住民の子弟を教育する施設で、実生活に必要な最低限の日本語の読み書き、算術、農林業の初歩を教えた。成績優秀者には食費を補助、派出所構内の宿舎に起居させた。達邦の教育所は、1905年11月に授業を始めた。




●矢多が創作した歌曲
※下の曲名をクリックすると曲が流れます
▼1曲目=長春花
▼2曲目=登山列車
▼3曲目=春之佐保姫I
▼4曲目=移民之歌I



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