マリー・ターナー・ハーベー夫人(米ミズーリ州アデア郡図書館提供)
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阿里山の一角で標高約千メートルにある達邦村は今、タケノコの一種、マダケ出荷の最盛期を迎えている。メンマにも加工される食材。このマダケ栽培が、矢多一生による村の近代化の端緒となった。
村では伝統的に焼き畑でアワやサツマイモを栽培し、生計を立てていた。土地は狭い上、男たちは狩猟に明け暮れる。五年がかりで先住民の調査をした台湾総督府職員、岩城亀彦が「見るのも気の毒」と著書に記したほど、暮らしぶりは貧しかった。生活向上には、男性を農業へと導かなければならなかった。
村の蕃童教育所の教師兼巡査の矢多は、有用性に着目していたマダケを一人の若者に試験栽培させた。若者は数年も経ず当時の金で年八百円もの純益をあげ、村中が栽培を競うようになった。
阿里山の斜面に広がる達邦村の畑
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こうした実績で村人の支持を得た矢多は、青年団を指揮して女性のずきん廃止や、家の中に遺体を葬る習慣を廃止させ、さらに各戸から狩猟用の銃器を回収させた。その上で、村人の共同作業で水路や水田づくりを行ったのだ。
矢多の村づくりのバイブルは「ハーベー先生」(田制佐重著)。一九一二年に米ミズーリ州の寒村の小学校、ポーター校に赴任した教師、マリー・ターナー・ハーベー夫人の活躍記だ。二六年に出版された同書は、当時の日本農村の疲弊に心を痛め書かれた。
ハーベーは、愛農心を育てることこそ農村の小学校の使命と唱え、都市に負けない文化をと、音楽教育を推進。児童が学校で実験した野菜栽培、養鶏、養豚の成功が村の農業を変えた。着任後二年、村は先進農村へと変わり、全米の新聞が同校を紹介した。
矢多の本には、随所に「同感、同感」「何事モ村人ト共ニ」「自分ノ理想トスル教育」などと感想が書き込まれている。「学校は村づくりの拠点」との考え方は、実は統治を容易にする「理蕃政策」の核心でもあった。しかも矢多は、一カ月に及ぶ日本訪問で、日本の国力を熟知していた。
三六年十月二十九日。日本の植民地統治は一つの頂点を迎えた。台北で高砂族青年団幹部懇談会が初めて開かれ、部族も言葉も異なる三十二人が、将来を話し合ったのだ。日本語が、初めて高砂族の共通語になった日だった。二十八歳の矢多は、こう決意を述べた。
「私はこのあわれむべき同胞を引き起こし、祖先伝来の困苦欠乏に耐える精神をもって裕福な村、平和な村、国語(日本語)の村の建設に努めたいと思っています」
(文中敬称略)
▼マーヤ伝説 ツォウ族は1895年6月、日本の統治開始直後に帰順した。先住民で最も早い。伝説に「太古に洪水が起き人々は玉山に逃れた。水が引きツォウとマーヤに分かれ、マーヤは東へ向かった」とある。統治の際、日本人はこのマーヤの帰還と思われ、反抗事件は皆無だったという。

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