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 日本統治下、台湾南部の阿里山に、日本人以上に日本人になろうとした男がいた。勇猛果敢な先住民、鄒(ツォウ)族に生まれた矢多一生(本名ウオン・ヤタウヨガナ)。村の教師兼巡査から政治指導者となった矢多は、日本語で歌曲をつくる非凡な才能の持ち主だった。非業の死から半世紀。再評価が始まった矢多は、どんな思いで人生を燃焼させたのか。その軌跡を求めて阿里山を訪ねた。
 (台北・竜口英幸)

  <4> マダケ栽培で貧農打破 
       荒波にのまれた指導者
2004.08.13掲載

 
矢多の墓に祈りをささげる長女の菊花さん

 「捕まったときは罪はないんだ。笑わずにはおられない。泣くわけにはいかんからな」

 精強な顔に、たくましい二の腕と分厚い胸。「今でもイノシシを追える」と自慢するツォウ族の長老、麦野武(83)=ユースンウ・ムッキナナ=は、こう語るとからからと笑った。

 「捕まったときは罪はない」とは、中国語でいう「莫須有(モーシュウヨウ)」。逮捕すれば罪名は何とでもつけられる、という意味だ。

 一九五二年九月、隣村の村長だった麦野は、呉鳳郡(現在の阿里山郡)の郡長の矢多一生とともに「会議への出席を求められ」、会場到着と同時に拘束された。一年五カ月にも及ぶ取り調べの末、軍事法廷の判決で反乱罪に。逮捕されたのは先住民ばかり九人。判決後二カ月足らずで、矢多ら六人に死刑が執行された。麦野は無期徒刑で太平洋に浮かぶ政治犯収容所、緑島に収容され、二十年余を獄中で過ごした。リーダーへの狙い撃ちで、山地先住民への見せしめだった。

 伏線はその五年前、台湾民衆が国民党の腐敗体質に怒り全土で決起した、四七年の「二・二八事件」にある。三月初め、事件は南部に波及、台南県長、袁国欽は阿里山に難を逃れ、矢多に保護を求めた。矢多は自宅で袁をかくまった。また、嘉義市当局は、矢多に治安維持への協力を求め、矢多は若者百人ほどを派遣した。太平洋戦争中に、南方戦線に赴いた「高砂義勇隊」の元兵士たち。麦野もそのうちの一人だった。

 
「矢多さんはいい先輩だった」と語る麦野さん
 ところが、彼らは決起した民衆に加わって武器庫を襲い、飛行場包囲に加わったのだ。矢多には、思いもよらない展開で、直ちに若者を撤収させた。国民党軍は嘉義市の住民惨殺を開始、中旬までに鎮圧する。矢多は若者たちが持ち帰った武器弾薬を返し、自首しようとしたが、当局は処罰しなかった。

 「山にまだ武器弾薬をたくさん隠しているとの情報があり、うかつに手を出せなかったのだ」と麦野は語る。「首狩り」に象徴されるように、漢人が勇猛さを恐れる山地先住民。しかも敵国語の「日本語」で精神的に強固に結びついた集団。手をつけるには五年もの時間が必要だった。

 二・二八事件後、軍は村の学校に日本語ができる、中国東北部出身の代用教員を送り込む。監視網だった。そして山に武器はないと確信した段階で、指導者追放に乗り出したのだ。

 矢多の処刑後も、阿里山には秘密警察が送り込まれ、戒厳令解除までの約三十年間、村々は恐怖に凍り付いた。むろん矢多の家族への監視も続き、墓参りさえ、公然とできなかった。矢多の生涯が完全に封印される「冬の時代」である。 (文中敬称略)

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 ▼2・28事件 台北市の闇たばこ取り締まりに絡む市民殺傷事件を端緒に、抗議行動が全土に拡大。大陸からの援軍による武力弾圧で2万人前後が死亡したとされるが、真相はいまだ明らかになっていない。事件を機に「白色テロ」と呼ばれる、政権による民衆弾圧が始まり、約40年間も暗黒時代が続いた。






●矢多が創作した歌曲
※下の曲名をクリックすると曲が流れます
▼1曲目=長春花
▼2曲目=登山列車
▼3曲目=春之佐保姫I
▼4曲目=移民之歌I



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