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 日本統治下、台湾南部の阿里山に、日本人以上に日本人になろうとした男がいた。勇猛果敢な先住民、鄒(ツォウ)族に生まれた矢多一生(本名ウオン・ヤタウヨガナ)。村の教師兼巡査から政治指導者となった矢多は、日本語で歌曲をつくる非凡な才能の持ち主だった。非業の死から半世紀。再評価が始まった矢多は、どんな思いで人生を燃焼させたのか。その軌跡を求めて阿里山を訪ねた。
 (台北・竜口英幸)

  <5> なお輝く「自治の思想」 
       純粋な魂を持つ先駆者
2004.08.14掲載

 
達邦村の入り口にあるツォウ族の若者の像

 先住民問題を管轄する行政院原住民族委員会副主任委員(副大臣)、浦忠成(47)は矢多一生についてこう振り返る。「当時持ってはいけない思想を抱いた。だから殺された」。中国文学の研究者の浦も矢多と同じツォウ族出身である。

 矢多は、日本の「理蕃政策」の申し子だった。だが、戦後は部族を超えた「高山族」自治の思想を初めて掲げた。まさに先駆者といえる。

 国民党政権下の一九四七年三月、矢多は全土の先住民代表に手紙を出し、台中・霧社で「山地自治事務」を討論しようと呼びかけた。案内状では「われら高山族は(中略)一切自主的に山地区域の自治建設をなす」とうたった。これは先住民につきまとうさげすみの呼称「蕃人」を二度と使わせない世にするという宣言文でもあった。

 会議は当局の圧力で阻止されたが、先住民自治の思想は山地に共鳴し始めた。四九年十一月、矢多は阿里山を訪れた蒋介石総統に謁見(えつけん)。中国語通訳を務めた長女の高菊花(72)によると、矢多は約一時間にわたり、植林の重要性を蒋に説いたという。矢多は政府に「以山養山」計画を提出、一カ月後には台北で記者会見も開いた。

 ところが政府は五一年に「山地清査令」を公布。さらに日本語の使用と日本語の思想書を禁止するなど、公然と先住民取り締まりに転じた。

 
「矢多は尊敬する先生」と話す浦さん
 思うに矢多は、国民党政権を、孫文が掲げた「三民(民族・民権・民生)主義」の理想を実現する政体と、素朴に誤解した節がある。だから白色テロの嵐の中、自分の言動がいかに危険なものかに気付かなかった。その精神の純粋さは家族愛の深さにつながり、音楽にも凝縮されている。

 「父は暇さえあればピアノを弾き、『浜辺の歌』や『荒城の月』を母と歌っていました」と菊花。矢多は朝、蓄音機の西洋音楽で子どもを起こし、泣く子にはおぶって即興の歌を歌った。獄中から妻への最後の手紙は、読む者の心を揺さぶる。

 「白銀も黄金も玉も何せんに優れる宝子に如かめやも

 この歌覚えていますね。家と土地さえあれば好いです。立派な子どもが沢山居るから。(中略)私の無実な事が後で分かります」

 阿里山の村々は、矢多が進めた植林や開拓で豊かな暮らしを享受し、伝統の祭りには多くの観光客も詰めかける。

 しかし、先住民差別は台湾社会の火薬庫だ。ことあるごとに火を噴く。だからこそ、矢多が掲げた自力更生と自治の思想は、今も輝きを放つ。

 「われわれは矢多の理想の実現を目指している」と語る浦。来春日本で行う講演では、こう訴えるつもりだ。

 「矢多は日本の教育の結実。こういう人物を育てたことを、日本人は忘れないでほしい」と。  (文中敬称略)
 =おわり
(この連載は台北支局・竜口英幸が担当しました)

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 ▼白色テロ 反政府運動や革命運動に対する弾圧をさす。国民党政権は「大陸反攻」を掲げ、知識人や指導者を狙い撃ちした。先住民に対しては1959年から先住民身分を捨てるよう要求。平埔族25万人は、言葉も文化も失った。






●矢多が創作した歌曲
※下の曲名をクリックすると曲が流れます
▼1曲目=長春花
▼2曲目=登山列車
▼3曲目=春之佐保姫I
▼4曲目=移民之歌I



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