西日本新聞

モルディブ編

海岸侵食 国が消える危機感 「もう何もできぬ」

マレの海岸。コバルトブルーに輝く澄みきった海に向かって、人工の消波ブロックが積み上げられている
海辺の「カーニ」と呼ばれる樹木の前に立つハッサンさん。物憂げな目が印象的だった

 夕涼みに、自宅玄関前の庭の木陰にあるベンチに腰掛けていたハッサンさん(72)は、眼前の岸辺を洗う波の音を静かに聞いていた。

 歩いて一周するのに一時間とかからない小島、グライドゥ。インド洋に浮かぶ島しょ国・モルディブをかたちづくる島々の一つで、人口千五百人。海岸沿いで見かけた木訥(ぼくとつ)な老人は、ゆっくりと語り始めた。

 「この島に家族と一緒に引っ越してきたのは十年前」 「そのころの岸辺は、ここから十メートルほど先だった」 「年を追うごとに、海岸が浸食されていった…」

 岸辺は今、ベンチのわずか二メートル先にまで迫る。二年前の嵐の日には、高潮が岸辺から二十メートル離れた自宅玄関まで押し寄せた。ブロックを積み上げた質素な造りの家の中まで水浸しになったという。

 そばには、海水に根元の一部が漬かりながらも、しっかりと根を下ろす、「カーニ」と呼ばれる広葉樹が立っていた。

 「この木が倒れたら、波はもっとやってくるだろう」

 ハッサンさんは、まるで浸食を食い止めるため気丈に立つかのような、その屈強な幹を見やる。

 気が付くと、走り回って遊んでいた孫たちも周りに集まり、じっと聞き耳を立てていた。

 地球温暖化による海面上昇に伴い、「国が消える」という危機感が強いモルディブ。海岸侵食の著しい進展が、その現れなのか、因果関係は科学的に説明されていないが、「島が沈む」最前線を見ようと訪れたのがグライドゥだ。

 ここは、漁業が中心の島で、コメ、野菜、砂糖、テレビなど、必要最低限の生活物資は首都・マレから、船で約二時間半かけて運ぶ。住民の暮らしは、決して豊かではない。

 この島のわずか百メートル先には、リゾート島・カンドーマがある。冷房が完備し、世界各地の食材がそろう豪華なホテルと、欧米のバカンス客が浜辺で寝そべる姿がここからはっきり見える。

 グライドゥにも、そうした外国人が立ち寄ることが多く、Tシャツや木彫りの民芸品などを売るお土産店約三十店が、島の中心部に軒を連ねる。

 ハッサンさんの家は、土産店の色とりどりの看板が並ぶにぎやかな通りのすぐ裏手。しかし、温暖化の主因となる温室効果ガスを大量に排出している先進国のバカンス客が、そこまで足を運び、忍び寄る海岸浸食の現状を目にすることは、ほとんどない。

 さんご礁でできたモルディブの島々は、コンクリートどころか土さえも貴重で、資源が少ない。

 海岸浸食を防ごうと、ハッサンさんは死滅したサンゴの塊を海岸沿いに積み上げ、その場しのぎの護岸をつくったこともある。しかし、波は、手づくりの護岸を難なく乗り越えた。今は、カーニの根元に、わずかばかりの砂をかぶせるのが日課という。

 「なぜ、浸食が進んでいると思いますか」

 そう聞いてみた。ハッサンさんは、深い顔のしわを一層よじらせ「分からない」と言った。

 「地球温暖化のことは知っていますか」

 少し間を置いて、意を決したような表情になった。

 「温暖化で海面が上昇し、小さい島が沈むという話は、テレビニュースで知っている。将来を考えると不安だ。でも、自然のことは、何も分からない。ただ、私にできることは、もう何もない」

 その悲しげなまなざしに、返す言葉が見つからなかった。

 グライドゥと同様に、モルディブ各地で、海岸沿いのヤシの木や家屋が倒れるなど浸食の影響が報告されている。

 しかし、首都・マレだけは事情が異なる。

 グライドゥとさほど変わらない面積の島に約七万五千人が住む超過密都市。政治、経済の中心地でもあるこの島の海岸のほぼ全周が、コンクリートの堤防や巨大な消波ブロックに囲まれているからだ。

 一九八七年。マレは大洪水に見舞われた。オーストラリア付近で発生したサイクロンの影響とみられる高潮で、島の三分の一が浸水した。その翌年、日本の政府開発援助(ODA)により、島の全周約六・八キロを囲う護岸工事が始まった。総額約七十億円かけた工事は十五年の歳月をかけ、今年中に終わる見込みという。

 工事を請け負った大手ゼネコン大成建設のモルディブ作業所、平田和之所長に、工事現場を案内してもらった。

 照りつける太陽。出稼ぎのスリランカ人の作業員が、真っ黒に日焼けした体をさらにジリジリと焦がしながら、汗だくで重機を動かしている。セメントや砂など資材はすべてインドネシアやマレーシアからの輸入という。

 「まあ、直接的な地球温暖化対策というわけではありませんが、今後、少々の海面上昇が起こっても大丈夫」と平田さん。

 消波ブロックは三トンと一トンの二種類があり、五十年に一度の高波にも耐えられる設計。海面から約三メートルの高さまで積み上げた消波ブロックは計四万個にもなる。

 せっかくの美しい海岸が台無し―そんな批判も受ける。が、今、それに代わる現実的対策はない。平田さんは、そう思っている。

    ◇    ◇

 国連環境計画などによって設立された、世界の専門家で組織する「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は昨春、「地球温暖化による海水温上昇に伴い、熱膨張と氷河の融解で、地球の海面はこれから百年間で最大八十八センチ上昇する」と予測し、全世界に警告を発した。赤道地帯に位置し「南海の楽園」と称されるモルディブは、国土の80%以上が海抜一メートル以下、最高地でも同一・八メートルと、海面上昇の影響を最も受ける国の一つ。そんな島国の、環境変化と、人々の暮らしの様子を報告する。

▼モルディブ イギリスの保護国だったが、1965年に独立。東西約120キロ、南北約754キロの範囲に26の環礁、約1200の島々が点在する。人が住む島は約200で、全人口は約28万人。このうち、マレに四分の一の約75000人が住む。イスラム教が国教。一島一リゾートで開発された島は80を超える。
 主要産業は観光と漁業で、一人当たりの国民総所得は1460ドル(2000年)。
 モルディブの温室効果ガス年間排出量は、全世界の0・01%以下。00年の国連ミレニアムサミットでガユーム大統領は「わが国が百年後の国連会議に参加できるか心配だ」とスピーチし、地球温暖化防止を訴えた。

▼文と写真/吉田 賢治

2002/09/03 付 朝刊

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