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寄せ書きのある日章旗、千人針、軍服…。兵士の遺品や戦争にまつわる資料を集めた「兵士・庶民の戦争資料館」を福岡県小竹町の自宅に開いていた武富登巳男さんが、八十四歳で亡くなって三カ月。現在は妻の智子さん(77)が夫に代わって来館者をもてなす。夫の思いをかみしめつつ、自分自身の体験を語り始めている。 (文化部・床次直子) 戦時中、中国や東南アジアで旧日本軍の飛行隊員などを経験した登巳男さんは「二度と戦争を繰り返してはならない」との一心で、一九七九年、自宅に資料館を建て、戦争を語ってきた。 二十畳ほどの資料館に約千点の展示品。「手をふれてください」と記された注意書きには、「実際に着たり触ったりして感じてほしい」という願いが込められている。 智子さんを連れて、講演会にもよく出かけた。「必死必沈」などの文言が並ぶ特攻隊員の遺書を示しながら、こんな内容もあると紹介した。 「思い出すのは 幼い頃の 母の背中よ 水色星よ 螢飛ぶ飛ぶ あぜ道の 遠い祭の笛タイコ」 「なんともいえんでしょ。言いたいことがいえん時代やったから」。そう語る智子さん自身、戦争の時代を一庶民として生きてきた。 一九四二年に直方高等女学校を卒業し、翌年、小学校の代用教員になった。空襲警報や警戒警報が鳴れば、子どもたちを机の下に隠れさせたり、家まで送ったり。「勉強どころじゃなかった」 そんな日々の中、教室の戸棚に置いていた弁当がなくなり、後で空の弁当箱が河原に落ちているのが見つかったことがあった。生徒の仕業だったが、「悪いとは分かっていても、仕方ないな」と思うしかなかった。国全体が食糧難だった。 慰問袋をきっかけに、ミャンマー(旧ビルマ)にいる憲兵と、女学校時代から七年間文通を続けたこともある。だが、本当の気持ちが言えない時代。「『お元気ですか。お国のためにがんばってください』くらいしか書けんかった。青春時代もなかったとよ」 終戦からほどない一九四七年、登巳男さんと見合い結婚した。 夫が戦争の遺品を集め始めた当初は、意図が理解できなかった。「こんなの集めてどうすると?」と尋ねると、登巳男さんは「戦争体験者は少なくなるが、遺品が語ってくれる」。そして「遺品が遺品を集める」とも語った。その言葉通り、開設した資料館の展示品は徐々に増加、来館者も多くなった。次第に「協力しよう」と思うようになった。 開設から二十三年。登巳男さんが昨年十一月に亡くなったとき、いったんは閉館を覚悟した。だが、長男(54)のアドバイスもあって「学校の先生をし、防空ごう掘りや食糧難を味わった自分の経験を話せばいい。できんこたない」と思い直し、年明けの一月中旬から再開した。以来ほぼ毎日、訪れる人がいる。「ほんと、お父さんは一人でよくやってたなあ」と実感する毎日だ。 「家では青菜に塩かけたごと、じとーっとなっていた」と智子さんが言う登巳男さんだが、戦争のことを語るときは表情が違った。 「生きがいやったね。お父さんほどはできんかもしれんけど、遺品を守りながら、自分の体験を話していきたいな」 |
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