西日本新聞
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医を信じて
【1】
娘の笑顔胸に、命をともし
【2】
元旦に届いた家族への手紙
【3】カルテ
良心の再生、現場に求めて
【4】授業
人と人とのつながりの重さ
【5】家族写真
幸せはいっぱいあった


<4>  カルテ   良心の再生、現場に求めて
2004.10.06掲載

 
久能恒子さんは「最後の授業」で、医師と医療過誤被害者との二つの立場で揺れ動いた心情を率直に語った =今年7月10日、福岡市の九州大学医学部

 「最後に、一つだけ述べさせてください」―。福岡県宗像市の医師、久能恒子さんは、一瞬ためらった後、付け加えた。

 今年七月十日、福岡市の九州大学医学部。恒子さんは大学院医学研究院医療ネットワーク学講座の公開講座「医療苦情・事故対応のための実践講座」に、講師として招かれた。全国から集まった医師や看護師、医療事務職員ら医療関係者約三十人を前に、三女紹子(あきこ)さんが十七歳で命を奪われた医療事故とその後の医療過誤訴訟をめぐり、被害者側の感情の動きについて、一時間近く語った。そして最後に、「私も被告の立場で法廷に立ったことがあります」と打ち明けた。

 未熟児網膜症。未熟児の網膜の血管に起きる病気で、失明や弱視になる。一九八〇年前後に社会問題になったときには、保育器で高濃度の酸素を与えたことが原因としてクローズアップされ、全国で二百家族以上が、新生児医療にあたった医師を次々に訴えた。恒子さんもそのときの被告の一人だった。

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 未熟児網膜症訴訟の原告の母子と出会ったのは一九六八年。福岡県久留米市の聖マリア病院の未熟児センターで働いていたときだった。

 恒子さんは高校では工学部志望だったが、受験生のなかで女性はただ一人という状況に工学部はあきらめ、関西医大に入り、「子どもが好きだったから」と小児科医の道を選んだ。九州大の医局、広島市の病院を経て、同センター長に就任していた。

 「確かに当時は、いまの常識では考えられないような医療をやっていた」と恒子さんは振り返る。

 開設されたばかりのセンターには六十床のベッドがあったが、常勤医は恒子さんだけ。それでも、福岡だけでなく、熊本、大分、佐賀、ときには離島からヘリコプターで、重篤な新生児が次々に運び込まれた。

 心肺不全、重い黄疸(おうだん)…。「どんなにひどい症状の子どもでも断らなかった。ほかに引き受ける病院がないのは分かっていたから」。未熟児が生きてゆく道のりは険しく、大学病院にもまだ、新生児センターがない時代だった。

 この間に長女と二女を出産する。「それでも夜中に急患があると行かないといけない。病院の人が呼びに来るから、鍵はかけないし、私は服を着たまま寝ていた。熱があるうちの子をおんぶしたまま、急患の赤ちゃんの交換輸血したこともある」という。「インフォームド・コンセント(説明と同意)など、ろくにできなかった」と認める。

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 聖マリア病院での「戦場のような医療」は、福岡県宗像市に夫と開業するまで三年半続いた。恒子さんはこのときの経験が、自分の医療観をつくったと考えている。

 「赤ちゃんは何も言わない。だから、ちょっとしたことでも見落としは許されない。あっという間に容体が変わるから、判断のスピードも要求される」

 もの言わぬ小さな命。わずかな予兆の一つ一つに目を凝らし、全力を挙げて救うことが自分の使命だと信じた。

 その場所から見ると、三女紹子さんが受けた医療は、とても許されないものだった。恒子さんは診療記録を持って欧米の医師の意見を聞いて回り、その思いを新たにした。

 紹子さんが脳腫瘍の手術を受けた病院と若い主治医を相手に起こした損害賠償訴訟の判決で、裁判所は「主治医が病状を十分に把握しないまま開頭手術を選択したことが、死亡の根本的な原因になった」と認定した。紹子さんは開頭手術後、脳梗塞(こうそく)を起こし、術後管理のミスが重なって死亡したとされる。このことについて、欧米の医師たちは「問診をきちんと行っていれば、開頭という選択はなかった」と述べたという。

 問診という簡単なコミュニケーションや、わずかな予兆に目を凝らすという「基本」が、今の医療ではないがしろにされていないか。そして、ミスを犯したあと、ミスについて説明しようとも、謝ろうともせず、ごまかすことが当たり前になっているのではないか―。医師が医師を訴えるに至った大きな理由だった。

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 未熟児網膜症をめぐる裁判で、恒子さんを訴えた原告側の子どもは、実は別の病気だったが、裁判で恒子さんはそのことを主張しなかった。「先天性のものでしたが、それを本人のいる法廷で言えば、その子を傷つけてしまう…」

 訴訟は、裁判官が網膜症でないと気づき、訴えが取り下げられて終わった。裁判所の廊下で原告側の母親は、子どもを抱いて「すみませんでした、先生」とひとこと、恒子さんに告げたという。

 「気持ちが通じたのがうれしくて返事もできなかった」。恒子さんは講義を終えた。

 最後に司会の信友浩一教授は「医療は決して知識・技術ではない。人間関係ができてはじめて医療という知識は生きる」というゲーテの言葉を引用して講義を締めくくった。

 人間関係。今の医療に最も欠けているものではないだろうか。がんの症状が悪化した恒子さんは、この講義を最後に、思うように活動できなくなった。 (久留米総局・野中彰久)


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