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'04/11/02 朝刊掲載】
<連載>いにしえの旅 「絹本墨画淡彩五百羅漢図」
安寧を願い制作 戦火くぐった聖人

■案内人…井手誠之輔さん
▽いで・せいのすけ 九州大大学院人文科学研究院教授。1959年、佐賀県生まれ。九州大大学院美学美術史学科修士修了。九州大助手、東京文化財研究所を経て2004年4月から現職。専門は東アジア絵画史。主に日本伝来の中国や朝鮮の仏画を研究。著書に「日本の宋元仏画」(日本の美術418号、至文堂)、「故宮博物院・南宋の絵画」(小川裕充監修、日本放送協会出版)など。

 韓国の山奥深く、海印寺に高麗版大蔵経の版木が保管されているのをご存じだろうか。膨大な数の仏教経典を集成する大蔵経。それを印刷するための版木の数は八万枚を超え、一枚一枚に入念に校閲された経文が刻まれている。仏教研究に欠かせない最も信頼できる経典の原板で、世界遺産に登録されている。

 日本全国を震撼(しんかん)させた蒙古襲来の四十年前。仏教国家であった高麗も、北から攻めてくる蒙古の軍勢に苦しんでいた。一二三一年以来、大規模な侵入だけでも六回を数え、高麗は江華島に遷都して徹底抗戦した。一二三六年、仏教による国の鎮護と蒙古軍の駆逐を祈って、時の高宗皇帝は戦乱で焼失した大蔵経の再興を発願する戦時下にありながら、十六年もの歳月をかけて完成したのが、この高麗版大蔵経(海印寺版)である。

 九州国立博物館が所蔵するこの羅漢図は、ちょうど、この海印寺版が発願されたころの作品である。五百人の羅漢が一幅に一人ずつ、あわせて五百幅で一セットをなす壮大な五百羅漢図の一幅である。同じセットの羅漢図が韓国をはじめ日本やアメリカのコレクションに十三幅、現存している。各画幅の銘文によれば、この五百羅漢図は、仏の力に頼んで国の平和と外敵の駆逐を祈るため、一二三五年から翌三六年の二年間をかけて制作されたことがわかる。

 制作にかかわったのは、いずれも軍に関係する人々で、下級武官の金義仁という人物が世話役の棟梁(とうりょう)となり、多くの人々の結縁を集めて完成させている。九博本の場合、結縁者は軍属の徐彦なる人物の妻、丙申の年(一二三五年)四月の制作である。

 羅漢とは、釈迦の教えを後世に守り伝えるため、この世に留まっている聖人たちのことであり、本来、外敵の駆逐に霊験があるわけではない。人の世代をはるかに超えて生きる羅漢は、仏法の護持者であるとともに、現在から過去にさかのぼり、また現在から未来へと永続する一族の安寧をじっと見届けてくれる存在であった。銘文に登場する高麗の人々にとって、一族の安寧は、外敵の駆逐によって保証される一大事だったことを五百羅漢図が知らせている。

 しばしば言われるように、過去の歴史の担い手は、国家や権力者だけではない。下級武官やその一族にも、私たちの現在と同じ等身大の今があったはずである。国家事業として造られた世界遺産の海印寺版と等しく、この羅漢図も当時の高麗を知るための雄弁な証言者であることを忘れたくはない。

 高麗では、日本のような神風が吹くことはなく、高麗皇帝は蒙古と和議を結んで臣下の王となり、抵抗を続けた江華島の政府も一二七〇年には降伏し、時代は、戦乱から元の支配へと変化する。現存する高麗時代の仏画は約百六十件。五百羅漢図を例外として元の支配下で制作された作品ばかりである。蒙古との戦いを経験した唯一の作品が五百羅漢図でもある。

 高麗仏画のほとんどが、金や優美な彩色で描かれた作品であるのに対して、この羅漢図は、墨画的な味わいが造形の基本となっている。伸びやかな線描やふくらんだ岩の表現は、当時の画家たちが北宋後期の水墨画をよく学習し理解していたことを伝えている。水墨画は、中国のもっとも進んだ絵画表現であったが、その受容は、高麗の方が、日本よりも早くて深く、より広範であった。この羅漢図は、そんな東アジア絵画史の興味深い一面も教えてくれる。

 朝鮮王朝時代以来、この五百羅漢図は、黄海道(現在の北朝鮮)の海州神光寺に伝来したのではないかと考えられてきた。海州神光寺は、もともと九二三年に中国から招来された五百羅漢図が伝来した寺院である(『高麗史』)。中国からもたらされた海州神光寺伝来の画像と九博本を含む五百羅漢図のセットとの関係はよくわからない。しかし、寺のあった海州が一二三五年当時、蒙古との戦いの最前線であったことは重要だろう。かの海印寺版と同様、この羅漢図の制作も失われた宝物の再興だったのかどうか。

 中国では、南宋時代(一一二七―一二七九年)に五百羅漢の一人ひとりの名称が定まって広く流布していた。しかし、九博本の羅漢像「第二百八十二寶平尊者」をはじめ、同じセットの画幅に書かれた羅漢の名称は一般的なものとは違う。その名称は、神光寺に伝来した古い時代の中国の羅漢図から採用されたのだろうか。名称の謎が解ければ、羅漢図の系譜や制作の事情について、見えない歴史の視界が開けてくる。羅漢図の証言を引き出すには、まだまだ長い道のりがある。


▼大蔵経
インドや西域の原典から漢訳された仏教経典を網羅的に集成したものの総称。一切経ともいう。時代とともに収載経典は増大し、その形態も書写から木版印刷、活字印刷へと推移した。分類整理の体裁はいずれも唐の開元釈教録に倣っている。木版印刷は、北宋版がはじまり。現存する版木は、海印寺版のみである。近代日本が編さんした新脩大正大蔵経は、海印寺版を底本に増補した活字版。現在、インターネット上での公開が進んでいる。


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現存する13幅のひとつである「絹本墨画淡彩五百羅漢図」(縦54・6センチ、横31・7センチ)