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'04/11/14朝刊掲載】 |
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九州国立博物館開館プレイベント シンポジウム 古代日本と高句麗文化 |
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伊都国歴史博物館館長 西谷正氏
にしたに・ただし 1938年生まれ。京都大学大学院修士課程修了。奈良国立文化財研究所、九大教授などを経て伊都国歴史博物館館長。 |
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■講演 桓仁・集安の高句麗遺跡 50―100年かけて都再現計画
◆西谷 正氏◆

中国は遼寧省・桓仁と吉林省・集安の高句麗遺跡の世界遺産申請に先立ってここ数年間、大規模な発掘調査を行った。両遺跡は戦前、日本人が小規模な発掘を行ったが、本格的な調査は初めてで、大変な成果が明らかになっている。最近の発掘成果を紹介したい。
高句麗の建国は紀元前三七年とされるが、その都となった桓仁の山城が五女山城。海抜八〇〇メートルの山の上にあり、今回、山の頂上に宮殿とみられる礎石建物が見つかっている。そのほか大量の武器や馬具などの鉄器が出土し、地元の博物館に収められている。
高句麗中期の都があったといわれるのが集安で、平地の城を国内城、危急の場合に備えたとみられる山城を丸都山城という。国内城は一辺が約七百メートル。ここには数百軒の民家があったそうだが、今回の史跡整備のために全部移されたという。まだ、コンクリートの建物が残っているが、これらを五十年―百年かけて撤去して高句麗の都を再現する壮大な計画が進んでいる。
丸都山城は国内城から西北へ約二・五キロ、面積が二百九十ヘクタールもある広大な山城だ。ここでは史上初の本格的発掘調査が行われ、宮殿跡とみられる堂々たる礎石建物跡が見つかった。注目されるのは、平面が八角形の礎石建物二棟が見つかったことで、同種の八角形建物はソウル特別市郊外の二聖山城のほか、熊本県菊鹿町の鞠智城跡で見つかっている。
集安の古墳は現在確認されたものだけで約七千。積石塚と封土墳の二種があり、積石塚の代表的なものが太王陵。その近くに有名な好太王(広開土王)碑があることで以前から好太王陵ではないかといわれてきたが、今回、太王陵から好太王と刻まれている銅鈴が見つかったので、ほぼ間違いないと思う。
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独立行政法人文化財研究所理事長、奈良文化財研究所所長 町田章氏
まちだ・あきら 1939年生まれ。立命館大学大学院修士課程修了。奈良国立文化財研究所、文化庁監査官などを経て現職。 |
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■講演 東アジアの装飾墓 時代で人や動物などの絵変化
◆町田 章氏◆

東アジアの装飾墓の中核をなすのは中国の装飾墓である。中国ではなぜ墓に絵を描いたのか。根底には死への恐れがあった。紀元前の古代中国・殷の時代には、王の墓には遺体とともに人や動物をかたどった陶器などを埋葬し、壁には現実の世界が描かれた。
死への恐れは前漢時代には薄れ、ただ生前と同じ暮らしを願うようになる。棺や壁画には龍、虎、朱雀(すじゃく)(鳥)、ガマガエルが描かれた。これらは遺体を守り、天に導く役目を果たす。漢時代の壁画に頻繁に登場する宇宙のシンボルである。儒教が浸透する後漢時代には墓の中心に夫婦、その回りに農民や農村の暮らしが描かれた。
三―四世紀の魏から晋時代には墓の主人公と従女を描いたものが登場する。レンガ積みの墓が造られ、レンガ一つ一つに生活のさまざまなシーンが描かれた。王室の力が弱く、豪族が争う不安定な世相を反映して、青龍、白虎、獅子のほか墓の門番として武人像が多く描かれた。仏教の影響が顕著になっていく時期でもある。七世紀に入り、唐の時代の壁画は日本に大きな影響を与えた。高松塚古墳、キトラ古墳はこの時期のもので、その構造にも共通点が多い。貴重な財産として大事にしたい。
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朝鮮社会科学院 歴史研究所教授 曹喜勝氏
チョ・ヒスン 1952年生まれ。76年金日成綜合大学歴史学部卒。現在、社会科学院歴史研究所室長、教授、博士。 |
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■講演 最近新たに調査された高句麗壁画古墳について 台城里3号墳は安岳3号墳と酷似
◆曹 喜勝氏◆

最近、わが国では黄海北道燕灘郡松竹里、ピョンヤン市大城区域大城洞、平安南道江西郡台城里3号、同銀波郡銀波邑などで、四基の高句麗壁画古墳が新たに出土し、発掘調査が行われた。これによって高句麗壁画古墳は全部で九十余基が確認されたことになる。松竹里壁画古墳を中心に、台城里3号壁画古墳についての考察を述べてみたい。
松竹里壁画古墳は今まで全く知られていなかったが、非常に見事な壁画が描かれており、このような華麗な高句麗壁画古墳の発見は実に二十六年ぶりであった。
この古墳は羨道、前室、通路、玄室で構成された石室封土墳で、羨道の両壁には歩兵と鎧馬武士の行列図、前室には守門将と供養図、主人公の出行図、狩猟図、通路の両壁には守門将、玄室には帳房生活図と政事図が描かれていた。
台城里3号墳は多室の石室封土墳で壁画は残っていなかったが、内部構造と形式が世界的に知られている黄海南道の安岳3号墳と酷似していることで注目される。わが国の歴史学界は以前から安岳3号墳を高句麗第十六代の故国原王の陵墓としている。台城里3号墳についても多方面の考察を深めた結果、故国原王の父、美川王の陵墓とするのが妥当だとの結論に達している。
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朝鮮社会科学院 歴史研究所教授 許宗浩氏
ホ・ジョンホ 1932年生まれ。59年北京大学歴史学部卒。現在、社会科学院歴史研究所院士、教授、博士。
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■講演 中世東アジアでの高句麗の歴史的地位 先進文化の開拓者的役割
◆許 宗浩氏◆

高句麗は古朝鮮の継承国であり、朝鮮の歴史で最初に封建社会に移行した自主性が高い強国であった。紀元四世紀初頭には「漢の四郡」の楽浪、帯方、玄菟郡地域を併合し、三七〇年ごろには昔の古朝鮮の版図であった遼東地域を領有した。その後、度重なる隋、唐の侵入に抵抗し、東アジアの歴史で統一の中心、民族安寧のとりで、侵入に反抗する旗手としての地位を確かなものにした。
高句麗は優れた文化を創造して民族文化の骨格と伝統をつくり、先進文化の開拓者的役割を果たした。「中原高句麗碑」と「南山新城碑」の吏讀(りとう)で見るように、吏讀の文字も高句麗から普及したものとして知られており、仏教も五世紀以後、高句麗から新羅に伝わった。
手工業技術、特に製鉄製鋼と貴金属の精錬技術および山城築造技術と墳墓築造方法(積石塚、石室封土塚)も新羅、百済、加耶に広がったとみている。
高句麗の文化は、多方面に発達したので、日本に及ぼした影響も多面的であった。絵画、工芸、音楽、舞踊、墳墓、建築、楽器と武器の製作、製糸、製革、食料加工など手工業分野、天文学、医学など科学分野に与えた影響は大きかった。高松塚とキトラ古墳およびその中の壁画などに高句麗の建築技術と美術の影響が見える。
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ソウル大学校教授 任孝宰氏
イム・ヒョジェ 1941年生まれ。ソウル大学卒。韓国考古学会長などを歴任。現在、世界考古学会議東アジア代表。 |
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■講演 韓国の高句麗遺跡―峨嵯山遺跡発掘を中心に 博物館を建設、公園化へ着々
◆任 孝宰氏◆

近年、ソウル近郊の峨嵯山一帯で高句麗遺跡が発掘され、韓国での高句麗研究に新たな進展があった。
漢江流域の主な高句麗遺跡には、一九七七年に発掘調査された九宜洞堡塁(ソウル市城東区、峨嵯山付近)、八二年から六次にわたって発掘調査された夢村土城(ソウル市松坡区芳夷洞)内の高句麗遺跡、九七―九八年に発掘調査された峨嵯山第四堡塁(峨嵯山稜線(りょうせん)の最も北端)、九九―二〇〇〇年に発掘調査されたシル峰堡塁、現在発掘進行中の紅蓮峰一堡塁がある。九宜洞堡塁は当初、百済の古墳と思われていたが、その後、高句麗土器の存在が確認され、再検討の結果、高句麗遺跡と分かった。
夢村土城は漢城だが、内部に大量の高句麗土器が出土し、高句麗軍が一時占領し、相当に高い階級の指揮官が駐屯していた可能性を示している。峨嵯山第四堡塁には南北七十七メートル、東西二十五メートルの城跡があり、城壁内部に七棟の建物が確認された。高句麗軍が相当期間ここに駐屯し、漢江北岸を防御する軍事基地に使ったと推定される。
こうした高句麗遺跡は中国や北朝鮮の遺跡に見劣りがせず、高句麗研究に重要なものであることは明らかで、現在、遺跡を整備復元して高句麗博物館を建設して、遺跡公園を造る計画が進んでいる。
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