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美の源流をゆく 九州国立博物館 開館迫る=井真成 学びの群像 今に刻み 西安

 荒れ果てた黄土にレンガ片が散乱している。動きを止めたショベルカーの周辺では数人の作業員が測量を続けていた。
 「このあたりで墓誌が発見されたって話を聞かないか?」。そう尋ねると、日焼けしたランニングシャツ姿の男が「あっちの方だろう」と指さそうとした。別の男が割って入った。「知らない。とにかく、ここじゃない」
 遣唐使、井真成の墓誌が見つかったとされる中国・西安市郊外の工事現場にたどり着いた。しかし、発掘された場所はどこか。途方に暮れ、墓誌を調査している西北大学(同市)の王建新教授に会った。「業者は発掘で工事がストップするのを恐れている」。地元研究者も場所を特定できないという。
 王教授に測量の話を伝えると、慌てて携帯電話を取り出した。遺跡を管理する陝西省文物局の高官に工事差し止めを要請しているようだ。北京五輪(二〇〇八年)も追い風に急成長する中国経済。開発ラッシュの波は地方都市にも押し寄せ、一人の遣唐使を歴史の表舞台に登場させた。
 「あのがれきの下のどこかに唐代の日本人墓地があり、阿倍仲麻呂も眠っているかもしれない」。王教授は近く一帯のボーリング調査に乗り出す。

 あまのはら ふりさけみれば
 春日なる 三笠の山に いでし月かも (阿倍仲麻呂)

 隣に眠るかもしれぬ井真成も望郷の念を募らせていただろう。

 ■自分の味に変えて

 「買東西(マイトンシー)」。西安の人々はそう言って買い物に出かける。かつて城壁に囲まれた長安の都の時代、東西に市が立っていた名残だ。
 「井真成? 初耳だなあ。そんな遣唐使もいたんですね」。佐藤一郎さん(32)=千葉県出身=は今、この街で料理修行を積む。彼が勤める店で鯰(なまず)料理をごちそうになった。軟らかく、食べやすいが、香辛料がたっぷり。思わずビールに手を伸ばす私を見ながら、彼はこう話す。
 「香辛料の多様な使い方、素材を無駄なく生かす技術には歴史を感じる。しかし、味をそのまま持ち帰っても日本人には合わない。自分なりにアレンジしたい」
 「一言既出駟馬難追」。語学留学中の野浪義也さん(20)=北海道出身=は最近、そんな故事を覚えた。一度言ってしまったことは、四頭立ての馬車でも追いつかない(とりかえしがつかない)。異国の文字や言葉を消化、吸収し始めている。
 今も昔も異文化を一度受容し、自分なりの味や好み、様式につくり替えてゆく営みに変わりない。遣唐使たちもそうして律令制(りつりょうせい)や仏典、大陸文化を日本に持ち帰った。膨大な無念や覚悟と引き換えに。
 二人がよく散歩するという市南東部の大雁塔に出かけた。三蔵法師・玄奘ゆかりの塔は唐代六五二年に建立された。夜の帳(とばり)に包まれるころ、塔はライトアップされ、噴水ショーも始まった。
 井真成も仰ぎ見たであろう…。
 その瞬間、私の頭の中にいにしえの風景が広がった。道行く人々には、朝鮮半島からの新羅人、中央アジアからシルクロードを渡ってきた突蕨(とつけつ)人、ソグド人の顔が見える。その中を顔を上げ、きりりと歩く日本人遣唐使たち。

 ■九州ゆかりの人か

 墓誌によると、井真成が死後に贈られた「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を担当する高位の官職だが、生前の職についての記述はない。日本では出身地をめぐる諸説が噴出、その一つに熊本県産山村が急浮上している。
 「ここらは井姓だらけよ。真成さんと関係あるか、分からんけど」。そう言うのは、この村の村長。その名も井道行さん(57)。住人千七百七十二人のうち約二割が井姓だという。
 「もっと知りたきゃ、典吾さんに聞いてみんね」。村には井姓が多く、下の名前で呼び合う。村長は地元の歴史に詳しい井典吾さん(82)を紹介してくれた。墓誌発見の前から井姓の系譜に興味を持ち、調査を続けている。「対馬(長崎県)などにも井姓はあり、真成は九州とゆかりのある人物かもしれない」という。
 学者の間では「井」は唐に渡ってから名乗った「中国姓」で、日本名は「井上」「葛井(ふじい)」とする説が有力。いずれの姓も今の大阪府藤井寺市を本拠とする一族。井真成は同市出身というのが大勢を占めつつある。
 一石を投じたのが大阪府の歴史研究グループ・越境の会会長の室伏志畔さん(62)。「遣唐使たちは地元の阿蘇神社で安全祈願し、荒波を越え、大陸に向かった」などと考え、「井」そのものが本名で、産山村と深いゆかりがあると主張する。村には二つの湧水池もあり、「井」の源流を思わせる。
 日本とアジアの文明交流の礎となり、やがて日本の美を形成していくうえで、大きな原動力となった遣唐使たち。まだ見ぬ多くの群像を代弁するかのように、刻まれた百七十一文字の小宇宙が広がってゆく。 (文化部・内門博)

▽井真成 玄宗皇帝も認めたスーパー遣唐使
【せい・しんせい】尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文〈序と并(あわ)せる〉
 公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉強し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。開元22(734)年正月□日に官舎で亡くなった。年齢は36だった。皇帝(玄宗)はこれをいたみ、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行なわせた。その年2月4日に万年県の〓河の東の原に葬った。礼に基づいてである。ああ、夜明けに柩をのせた素木(しらき)の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、人気(ひとけ)のない郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
 その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。 (現代語訳は東野治之・奈良大学教授)


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井真成墓誌の拓本

井真成の蓋付き墓誌

現在はライトアップされている大雁塔。西安市民の憩いの場となっている
墓誌が出土したとされる西安市の東郊は再開発地域。至る所で工事が行われていた