乾いた風が太陽の灼熱(しゃくねつ)を運ぶ。雲一つない青空。辺りには、壁を牛糞(ぎゅうふん)で塗り固めた、遺跡のような住居が立ち並ぶ。インド・ラージャスターン州のマールンガ村。尺八に似た笛を吹く羊飼いがいると聞き、タール砂漠の東端に位置するこの村にやって来た。ここに暮らす約八十の家族は、そのほとんどがヒツジやラクダを飼い、ミルクや毛皮などを売って生計を立てている。
午前八時。朝だというのに、気温はすでに三六度を超えている。数人の羊飼いの男たちが、連れだって放牧に出掛け始めた。ヒツジを閉じ込めている囲いの扉を開ける。「ギッ、ギッ、ギッ」。百頭ほどの白と黒のヒツジたちが、独特の鳴き声を上げながら勢いよく外に飛び出す。バラバラの方向に歩き出し、早速、黙々と草をはみ始めた。
とび色の目をした羊飼い、デーワ(17)が懐から何かを取り出した。竹製の縦笛だ。長さは三十センチほど。尺八より短くて細い。歩きながら両手で吹き始めた。透明感のある音色。足取りが軽くなるような軽快なメロディーが、空に吸い込まれていく。
さては、この音色で言うことを聞かないヒツジを誘導するのか。だが、その期待にも似た思いはあっさりと裏切られた。ヒツジたちは、ぴくりとも動かない。デーワは笛をしまった。口で「ギッ、ギッ」とヒツジの鳴き声そっくりの音を出しながら、動かないヒツジの尻を手でたたき始めると、荒野の大移動が始まった。
●聖霊の言葉
道すがら笛を手に取って見せてもらう。バンシュリ(ヒンディー語で『竹の笛』の意味)と呼ばれるインドの伝統楽器。一節の竹の前面に六つの穴を開けただけの素朴なつくりだ。小学校の音楽の授業で手にしたリコーダーを思い出す。どうやら、ヒツジを操るためのものではないらしい。では、なぜ放牧中に吹くのか。
「心が解き放たれるのさ。でも、実は吹くのは久しぶりなんだ。あんたが遠い国からわざわざ来たっていうから今日は特別だ」
デーワはそう言うと、次のように続けた。
確かに十年くらい前までは、笛を吹く羊飼いは多かった。死んだ曾祖父もそうだった。でも、今はもうほとんどいない。昔は、ヒツジを遊ばせながら笛を楽しむ余裕があった。しかし、この十年でヒツジの餌となる草がめっきり減り、以前よりずっと遠くまでヒツジを連れて行かなくてはならなくなった。笛を吹く余裕なんてなくなった―。
砂漠化、という言葉が頭に浮かんだ。世界では毎年、九州と四国を足したほどの面積が、不毛の地となり続けているという。その波は、この地にも確実に押し寄せつつあるのだ。
東京文化財研究所の高桑いずみ音楽舞踊研究室長によると、尺八の原型となった笛は古代、アジアの広い地域で演奏され、その音色は、楽しむためのものではなく、聖霊の言葉を俗界に伝える神聖なものだったという。人々の心を解き放つ笛の音色は、聖霊と人を媒介するものと信じられていたのだ。
デーワが目を閉じ、今度は一転、悲しい曲を奏で始めた。そのまぶたの裏には、砂漠の聖霊が映っているのだろうか。ふと、彫石尺八のことを思い出す。本来、竹製の楽器をわざわざ石で作り、微細な文様まで彫刻した、いにしえの人たちの情念。それは、神に対する畏敬(いけい)の念だったのかもしれない。
●老人の横笛
マールンガ村から西へ車で一時間。建物が青色で統一されていることから「ブルーシティ」とも呼ばれる都市ジョードプル。この町のシンボル、メヘラーンガル砦(とりで)に足を運んだ。楽器を演奏する芸人が集まると聞いたのだ。
石造りの巨大な砦の内部を散策していると、ベンチに腰掛けたインド人の老人が「ヘイ、ジャパニ(日本人)」と声をかけてきた。黄色のターバンにサングラス姿。いかにもあやしい。無視して通り過ぎようとしたが、老人が手に持っていたものが足を止めさせた。竹の笛。尺八と異なる横笛だが、「バンシュリ」より一回り大きい。
言葉をかける前に老人が演奏を始めた。何とも悲しく、切ないメロディー。そして、温かく柔らかな音かと思えば、思わず緊張を覚える細くて高い音。その音色は、驚くほど尺八にそっくりだった。
老人の名はシエル。七十三歳。五歳のときから「ラーガ」というその笛を吹いている。若いときは日雇いの仕事をしていた。だが、数十年前に病気で盲目となってからは、観光地や街角に立っては笛を吹き、通行人からいくばくかのチップをもらって生活している。音色の切なさの理由が、何となく分かった気がした。
「シャクハチなんて聞いたことない」と言うので、日本から持ってきた、尺八の曲を録音したMDを聴かせてあげた。イヤホンを付けた老人は「似てるけど違う楽器だ。わしが吹いてるのより音が低い」とつぶやくと、そのまま笛に口を付け、MDに録音していた尺八の定番曲「鹿の遠音(とおね)」をコピーし始めた。初めて演奏するとは思えないほどうまい。
日本で生まれた調べが、砂塵(さじん)の舞う異郷の砦にこだまする。懐かしく、美しい音色が心に染み入り、自分がどこにいるのか、一瞬、分からなくなる不思議な感覚にとらわれた。ひとしきり吹き終えた老人が「日本にもいい曲があるね」と笑った。シルクロードを通じて中国に入り、東の終着点・日本に伝来した尺八。その遥かな旅路に思いをはせながら、神秘的な音色にしばらく身を任せた。 (経済部・永松英一郎)
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■インドが起源?
「彫石尺八」は日本に現存する最古の尺八のひとつ。8世紀の唐で作られたとみられ、ほかの7管の古代尺八とともに正倉院に収蔵されている。古代から尺八は竹製だったが、この尺八は蛇紋岩で作られており、演奏用というより鑑賞用工芸品だったことをうかがわせる。全体を3節の竹に模し、表面に花や鳥の文様が彫刻されている。長さは約36センチで現代尺八の一般的サイズとされる1尺8寸(約54センチ)より短く、太さもひと回り細い。また、前面の指穴の数も5つで現代の4つと異なる。尺八は、7世紀の唐で規格統一が進み、日本に伝来した後で独自の発展を遂げたとされる。起源は、はっきりと判明していないが、その原型となる笛はインドなど西方から、シルクロードを通じて、漢の時代の中国に伝わったのではないかともいわれている。
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▼九州国立博物館開館記念特別展「美の国 日本」 10月16日―11月27日、福岡県太宰府市石坂の九州国立博物館。国宝7件、重要文化財30件を含む122件を展示。前売り入場料は一般1100円、高大生800円、小中生400円(当日券はいずれも200円増し)。西日本新聞社企画事業部=092(711)5550。
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【主催】文化庁、九州国立博物館、福岡県、西日本新聞社【特別協賛】都築総合学園【協賛】アサヒビール株式会社、福岡三越、太宰府市【特別協力】太宰府天満宮【協力】日本航空、日本通運、日本興亜損害保険、凸版印刷、日本製紙、大王製紙、丸住製紙