ガラスの壁面に、秋を迎えた「太宰府の森」の紅葉が映る。紫の神職袴(はかま)姿で九州国立博物館の前に立った太宰府天満宮宮司の西高辻信良さん(52)は「こんなに早く開館するとは…。誘致運動の挫折を経ながら、よくぞここまでこぎつけられた」と心境を率直に語る。
福岡県太宰府市で博物館建設構想が浮上したのは明治半ばのことだ。一八九三年、当時太宰府神社と呼ばれた太宰府天満宮に「鎮西博物館」の建設が計画された。それは岡倉天心が九州博物館の設置を提唱する六年も前のことだ。事務所が設置され、建設寄付金募集も動き出した。しかし日清戦争が起きたため計画は凍結となった。
そのときの天満宮宮司が信良さんの曾祖父の故信厳さん。以来、国立博物館の建設は、信厳(しんげん)さんから信稚(のぶわか)さん、信貞さん、信良さんと続く西高辻家の宮司四代にわたる悲願となった。
天満宮は十四万平方メートルを超える広大な敷地を九州国博誘致のために寄付した。その決断をしたのは、信良さんの父の故信貞さん。そして、十八年前に信貞さんが亡くなった後を引き継いだ信良さんもまた、九州国博の建設と開館に向けて知恵を絞ってきた。
天満宮東側の丘陵地に立つ九州国博。その天満宮の境内と九州国博との間にはトンネルがうがたれ、エスカレーターと動く歩道を備えた歩行者用のアクセスルートとなった。それは信良さんの発案が基になった。
かつて万葉集の時代に「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた古都・大宰府。九州国博開館を迎えた今、信良さんは、太宰府市内に数多く残された歴史文化遺産と、全国的な知名度を誇る太宰府天満宮、そして九州国博、さらには大都市・福岡との連携も視野に入れた「太宰府復権」の姿を思い描く。それは「大阪にとっての京都・奈良、東京にとっての鎌倉のように、大都市の魅力は背後に控える古都の歴史文化遺産があってこそ」と考えるからだ。
「これからの百年を考えるとき、国立博物館という文化資産が出来た意味は大きい。その資産をどう生かしていくか。知恵を絞らなければならない」。第三十九代宮司を務める信良さんは力を込める。