中国第二の広さを誇る洞庭湖(湖南省)。その一帯は、かつて漢詩文をたしなんだインテリにとって憧(あこが)れの場所であった。今回の主役は、この「瀟湘(しようしよう)」と称された地に対する人々の思いを受けとめてきた美しい水墨画、瀟湘八景図屏風である。
この絵のテーマである瀟湘が愛された理由は二つ、その歴史と自然である。
瀟湘の歴史はロマンに満ちている。皇帝と死別した王妃や流浪の詩人が入水した悲しみの地であり、また李白や杜甫が岳陽楼から望んだ景勝としても知られた。その姿を見てみたい、そんな気持ちが世に数多くの瀟湘を主題とする絵画を誕生させた。つまり、この作品をみて「あの瀟湘って、こんな風景なんだ」と納得し、古人を追想してジーンと感じ入ることが出来るのであった。
そんな土地の物語を知らなくとも、本図は絵画として十分に見ごたえがある。なぜなら人々に愛された瀟湘の自然を丁寧に描いているからである。
瀟湘の多彩な表情を八つのタイトルで絵画化したのは、今から九百年前の中国の画家である。これ以降「瀟湘八景」は近現代にいたるまで東アジアの各地で描きつがれ、山水画の定番テーマとなった。その多数の作例のなかでも、九州国立博物館が所蔵する屏風はもっとも繊細な表現をとる優れた作品の一つなのである。
屏風には八つの絵=図(1)=が描かれている。その似たような茶色っぽい画面をみて「これが本当にいい絵なの?」と思われた方もいるだろう。すこし詳しく二つの絵をみてみよう。
図(2)は八景の一つ「瀟湘夜雨」の右下部分。人々が帰宅する夕景であるが、絵の見所として外せないポイントは二つある。一つは木の枝や酒屋の旗がなびいていること、もう一つは人々が傘を差していること。ここから強風で雨が降る光景とわかり、画面全体(図(1)では右から二番目、以下すべて順番は右から)をみると上空ではたたきつける風雨が帯になっている。自然のドラマを細やかに描いた夕暮れの一コマである。
もう一つの図(3)は「烟寺暮鐘」(図(1)五番目)の部分である。一見して雲が立ち込めているが、その湿度の高さは木の葉の濡(ぬ)れたような描写にも感じられる。白雲とのコントラストから山水風景の薄暗さもよく表されている。
これ以外にも「漁村落照」(図(1)一番目)では夕暮れを染め上げる太陽の光を、「洞庭秋月」(図(1)六番目)では繊細な夜空の月光を描き分けるなど、注意しないと見逃してしまうような微妙な描写が本図の特徴なのだ。
話は変わるが、筆者が初めて会った人に職業を聞かれ、正直に答えるとこう質問されることが多い。「山水画の魅力って、なんですか? よく分からないんですけど…」
そのとき私は「それは風景に向けられた細やかなまなざしですよ」と答える。大自然のなかの小さな人間の営みに注目し、天候や湿度、光の移ろいをも描ききるのが優れた山水画の魅力だと思うからである。
特に光線の妙を描くには水墨画、つまりモノクロームが好まれた。彩色を手放すことは大きな冒険だが、それは眼に見える世界を白黒写真のようにすべて光の明暗に置きかえる行為である。実際、歴史的に多くの画家がチャレンジした課題であったのだ。とりわけ瀟湘八景のテーマは夕景と夜景が多い。本図では、残念ながら画家の名前こそわからないが、その挑戦が成功していることが理解していただけると思う。
中国の憧れの景勝地を繊細に描くこの美しい朝鮮絵画が日本に伝わったことをうれしく思う。
●瀟湘八景(しょうしょうはっけい) 中国・北宋時代の文人画家・宋迪(そうてき、生没年不明)が創作した画題。四季を通じて多彩な瀟湘の自然を八つのタイトルで絵画化した。漁村夕照、瀟湘夜雨、平沙落雁、遠浦帰帆、煙寺晩鐘、洞庭秋月、山市晴嵐、江天暮雪が一般的な名称だが、別の文字をあてる場合もある。「日本三景」など、地名と名数で景勝地を総称する呼び名の元祖でもある。
▼案内人…畑靖紀(はた・やすのり) 九州国立博物館研究員。1971年生、秋田県出身。東北大学大学院博士課程修了、文学博士。東北大学助手、日本学術振興会特別研究員をへて、2004年8月から現職。専門は美術史(東洋絵画)