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'05/12/22 朝刊掲載】
「中国 美の十字路」
九州国立博物館開館記念特別展 1月1日〜4月2日
ユーラシアを駆け抜けた草原の民 移動する本性が歴史を動かした

 遊牧民をこよなく愛した司馬遼太郎さんが、遊牧民の発生に関して、いかにも司馬さんらしい筆法でこんなことを書いている。
 はるかな昔、遊牧という暮らし方を覚えた人々が現れた。それは「人間のほうから羊の群れに寄生して」その乳を飲み、肉を食い、毛皮を着るという生き方だが、それが「食っていけるということにおいて、いかに魅力的であったか」。
 彼らはやがて馬に乗ることを知った。「馬の駿(しゅん)足(そく)を自分のものにし、かつ空いている両手で弓矢や刀槍を用いるというのは」人間の活動能力にとって画期的であり、それは「二十世紀の自動車」の出現をしのぐものだっただろう。
 確かに馬こそ、遊牧民の力の源泉だった。巧妙かつ果敢な騎馬戦によって定住農耕民(漢民族)を圧倒したし、騎馬による行動能力で、ユーラシア大陸規模の大移動を実行した。
 移動こそ遊牧民の本性なのである。

 五世紀初め、東欧のゲルマン民族が大移動を開始し、西ローマ帝国を滅ぼした。ゲルマン民族を追い出したのはフン族である。そのフン族とは実は匈(きょう)奴(ど)ではないか、と多くの学者が考えている。
 匈奴は紀元前三世紀ごろからモンゴル高原で強勢を誇り、秦や漢を脅かした。のち南北に分裂し、南匈奴は漢に同化したが、主流派の北匈奴はふっつりと姿を消した。
 その北匈奴が、二百年ほどあとに東欧に現れたのではないか、というのだ。とすれば匈奴は、モンゴル高原から東欧まで、直線にして六千キロもの大移動をしたことになる。
 九世紀には、ウイグル族の移動が始まった。モンゴル高原でキルギス族に敗れて西域(新疆ウイグル自治区)に移動し、さらにパミール高原を越えて中央アジアに。複雑な経緯をたどったあと、彼らは地中海沿岸にオスマン・トルコを建てた。
 トルコ族の原郷はモンゴル高原なのである。
 十三世紀以降はモンゴル族の時代だ。モンゴル軍はロシア、東欧を占領してキプチャク汗国を、イラン周辺にイル汗国を、中央アジアにはチャガタイ汗国を建国した。中国、モンゴル高原は元王朝が支配した。
 この時期、モンゴル族の国がユーラシア大陸の三分の二ほどを占めた。

 ふと思いついて単純な足し算をしてみる。
 中国の王朝時代を、天下統一が成った始皇帝の秦から清までだとして、二千百三十年間である。このうち、中国の中心である中(ちゅう)原(げん)あるいは北京を、周辺の異民族が占領した期間がどのくらいあるか、ということだ。
 年表を見ていただきたいのだが、まず五胡十六国時代が約百二十年、北魏(鮮卑族)が約百四十年、短期間に五つの王朝が交代した五代のうちの約三十年、金(女真族)が約百十年、元(モンゴル族)が約百年、清(満州族)が約二百七十年だ。合計は約七百七十年。
 さらに、一般には知られていないが、隋、唐も実は北魏の血筋の鮮卑族系であり、この二つの王朝の約三百二十年を加えると千九十年になる。二千百三十年のうちの千九十年は五一%だ。
 つまり、中国王朝時代の半分は異民族王朝が占めたことになる。

 モンゴル高原はユーラシア大陸で最大、最良の草原地帯である。それゆえにモンゴル高原は次々に強大な遊牧民族を生み出した。
 そのすぐ南に位置したことが、漢民族にとっての不幸だったのかもしれない。しかし中国は、二千年以上も続く王朝文化という、世界史に例のない輝かしい歴史を築いた。
 そのことの大きな要因はおそらく、中華世界に次々に異文化が入ってきたことにある。異文化とは遊牧民文化であり、ソグド文化であり、シルクロード経由の文化である。
 自分たちこそが世界の中心である、という自己肥大的思想によりかかっていた中華世界は、異文化を受け入れることで豊かになり、持続力を獲得したのではないか。

 ユーラシア大陸の東端と西端に、古来、記録に固執した民族がいた。東の中華民族と、西のギリシャ・ローマ民族である。その中央部分や北方では数多くの遊牧民が活動したが、彼らは記録を残さなかった。それゆえに、ユーラシアの歴史はこの東西両端の記録に頼って記述されてきた。
 しかし近年、中央アジアやモンゴル高原の考古学調査、敦煌文書の研究などが進んで、遊牧民族の歴史の細部が明らかになり始めた。すでに、遊牧民の視点によって、ユーラシア史を書き換えようとする学者も現れている。
 「美の十字路」展は、初めて、中国内部に残された遊牧民文化に光を当てる展覧会であり、中国史に新たな視点をもたらすものだ。
 (文と写真・山本 巌)


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パミール高原は中国・西域と中央アジアを結ぶシルクロードのメーンルートだった。正面はムスタグ・アタ峰(七五四六メートル)とカラクリ湖。馬上の人物はキルギス族だ


13世紀から14世紀にかけてのモンゴル族の勢力図(クリックすると大きく見ることができます)