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福岡市博多区の上川端商店街。中学三年の三人が長法被とすれ違うたびに言い合う。「上川端の法被やろ?」「上川端は縦縞(たてじま)の間隔がもっと広かろうが」 博多っ子が山笠(やまかさ)(山)という熱病に浮かされる夏。「記者さん、おれの誕生日は六月一日。法被(着用)解禁の日たい」。くりくり頭の浩平(15)が目をくりくりさせて言う。 三人は東流(ひがしながれ)で生まれ育った。零歳児から父親に肩車されて山笠に出た。やがて、近所の兄ちゃんたちに手を引かれて走った。夏ごとの記憶が、祭りの喧噪(けんそう)とともに鮮明だ。 小学生のころ。三人は学校から帰ると、真喜志(14)が段ボールで作った清道旗、廻(まわ)り止(どめ)(山笠の決勝点)、山小屋を配したミニ「博多部」を舞台に、紙粘土の飾り山を指で舁(か)いて遊んだ。 中学三年の今。給食の時間には、十数人でかたまって、給食室まで山笠の掛け声で走る。「オイサ、オイサ」。待ち構えた真喜志が博多手一本で迎える。「イヨー、シャンシャン、ま一つしょ…」。孝文(14)ときたら、山笠のない期間でも月に二回は博多総鎮守の櫛田神社に立ち寄り、常設の飾り山を見上げる。「山笠がいつも身近にあると思えて安心できる。山笠直前には、これを見てテンションを上げるとです」 浩平は中学に上がるとき「那珂川向こう」、博多部の外へ引っ越したが、昨年も、おととしも、二人とともに東流の若手として山笠を舁いた。「今年…」。浩平がおずおずと打ち明ける。「六月末の学期末試験の結果が悪かったら、親が山に戻してくれんかもしれん」 「うだうだ言っても、どうせ出るっちゃけん」。真喜志がハッパを掛ける。 三人は商店街を抜けて、櫛田神社に向かう。七月十五日午前四時五十九分、一番山笠の「櫛田入り」で「追い山」が沸騰する。一年前を思い出し、浩平は背中がぞくっとする。 チャリン、パン、パン―。三人は祇園宮で、かしわ手を打った。「今年もいっしょに、山に出られますように」 (敬称略) × × 七百六十三年目。博多祇園山笠の季節がきた。博多の男たちは既に準備にのぼせている。山で役割を担い始める中学生たちもそうだ。「山のぼせDNA」を受け継ぐ彼らを追いかける。 (社会部・田篭良太、永松幸治) ◇ (タイトルの背景画は博多中3年・久我真喜志くん) ◇ ●げなばい 1本の舁き山を運営する町の集合体を流(ながれ)と呼び、10カ町前後で形成される。豊臣秀吉が博多復興の区画整理「町割(まちわり)」を行った際にできた自治組織がルーツ。現在は恵比須、大黒、東、西、土居、中洲、千代の七つ。中学生たちは流の上下関係の中で、しきたりや礼儀を学ぶ。
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列の中に、ひときわ大きな三年生。一七三センチ、八〇キロ。剣道部ではない。「山(山笠(やまかさ))が近づいてきたけん、体を絞ろうと思って参加しとうと」という。 姓は松永、名は太郎(たろう)邦継(くにつぐ)。侍のような名前の由来は、両親が待ち望んだ長男なので、太郎。博多祇園山笠の大黒流(ながれ)取締を務めた父・邦清(52)の後を継げるようにと、邦継。本当は母・美津子(47)の郷里、大分県の宇佐八幡宮からも二文字いただき、八幡太郎邦継になるはずだったが、美津子の父親が「丁重にお返しした」。出産時の体重は四、一九二グラムだった。 大黒流で若手入りして三年目。所属する町では、中学生になると山笠の舁(か)き棒につくことができる。おととしは見送りの二番台下、昨年は祭りのフィナーレ「追い山」で見送りを舁いた。肩ははれ上がり、大人たちの指示通りに舁けなかった。 台上がり(指揮者)、鼻取り(かじ取り)、棒鼻や台下、胡瓜(きゅうり)舁きの舁き手たち、後押し…。一トンもの舁き山を寸秒を争って数十人の男たちが交代しながら疾走する追い山を無事に乗り切るには、流の全員が厳格な指揮系統とルール、それぞれの役割を守らなければ不可能だ。 「山は過酷。全体に迷惑かけられんという重圧がある」。そして、この夏の太郎邦継は、表につきたいとひそかに思っている。朝練習参加の理由である。 だが、十四歳の受験生。塾がある週三日の帰宅は深夜。美津子特製の特大「肉・えび入りあんかけ焼きそば」を平らげ、風呂に入ると日付は変わっている。 「あんた、あしたん朝、走るっちゃろ」「おう」 返事は力強いが、毎朝六時、美津子に起こされ、眠い目をこすりながら家を出る。 走り込みを始めてまだ一週間。舁き山が動きだす七月十日の太郎邦継が楽しみだ。 (敬称略) ◇ ●げなばい 博多では山笠を担ぐとは言わず、舁(か)くと言う。くぎを1本も使わず麻縄で締めて組み立てた舁き山は、高さ約5メートル、重さ約1トン。これを26人で舁く。6本の舁き棒(長さ各5・45メートル)の両外側から1番棒、2番棒、3番棒と呼び、山笠の正面を「表」、裏面を「見送り」と言う。
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梅雨の中休み、青空の日。ここ大博(たいはく)町を博多中三年の享平(14)らと歩いた。水をまきに家の前に出てきたおばさんが声を掛ける。「あら、享平。今日は大人と一緒になんばしよおとね?」 「加勢(かせい)町(ちょう)」。博多祇園山笠(やまかさ)の恵比須流(ながれ)で、享平が生まれ育った大博町はそう呼ばれる。山笠(山)に参加し役職にも就けるが、流の構成町とされず、今も「準会員」。伝統色の強い重要な神事には参加できない。「大博は櫛田入り(山笠のフィナーレ)で山につけんし、台上がりも限られとる」と享平。 けれど、恵比須流はおととしから、舁(か)き山が流域内を舁き回る七月十日の流舁きに限って、加勢町内に山を舁き入れ、加勢町の男衆が台上がりすることを認めた。 加勢町の男たちは子どものころから、自分の町に山が舁き入れられなかったことで悔しい思いをしてきた。大博町の町総代、片岡良二(46)によると、次の代、その次の代の子どもたちにそんな寂しい思いをさせたくなかった。流に加勢町への配慮を申し出た。 山笠を受け継ぐ子どもたちのため―。流もこの思いには共感した。 「生きとる間にうちの町に舁き入れられる山ば見られるとは思わんかったばい」。加勢町への流舁きが実現すると、ご隠居たちは涙を流した。伝統やしきたりを厳格に守りつつ、やわらかさも兼ね備える博多―。 享平は町の級友たちと彼らなりに考えた。山を舁く機会があれば、他町の若手より一回でも多く舁く。肩が舁き棒に届くようになったおととしの夏、流舁きで肩が赤くなるまで八回舁いた。昨年の夏も少しでも多く舁こうと頑張った。 「いつか構成町と認められたい」。享平は招き入れてくれた自宅で、そう言った。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 大博町が1953年まで属していた浜流は翌年、人口流出や資金不足によって沖浜流に合流した。沖浜流も60年ごろ姿を消し、同町の男は流の正式構成員ではない一般の立場で山笠に参加してきた。男衆は町内から参加者を募り、積極的に舁き手を出してきた。その実績から93年、恵比須流の加勢町となった。
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兄と弟に挟まれて育ち、二歳から博多祇園山笠に出た。水法被に締め込み姿。山の先走りをして沿道から勢(きお)い水を浴び、重くなった地下足袋を引きずりながら「オイサッ」と走り回っていた。小学高学年になっても山笠に出たがる沙代子に兄・賢治(16)が「おいっ、サヨオ。ちょっとは女らしくせんや。けつやら見せて恥ずかしくないとや」と迫るが、返事は「山笠に出れるなら構わんもーん」。 そして、沙代子が小六の夏。 「おれが恥ずかしいけん、サヨオをもう出さんでよ」。そう訴えた賢治を、父親は「おまえは一生山に出れる。あいつはもう最後やけん、勘弁してやれ」と諭した。 「今年で終わりぞ」。父親と渋々約束した沙代子は最後の山笠に出た。「もしかして来年も…」という期待を抱きながら。 中学に上がると、がくぜんとした。山笠神事がある日、男子だけが町の取締や保護者の一筆があれば、天下御免で早退できる。小学校では男子と一緒に早退し、神事に出ていたのに。 男子に遅れて帰宅する途中、法被を着た男がぞろぞろ。自分は制服なので「なーんか、山笠の空気の外側におるなーって気がするっちゃんね」とつぶやく。オイシャン(おじさん)たちとのおしゃべりが楽しみだった山笠詰め所にも入れなくなった。 昨夏、沙代子が住む中洲流(ながれ)・中洲五丁目は三十五年に一度の一番山笠当番町だった。周囲はいやが上にも盛り上がる。沙代子も、あの独特の高揚の中にいたかった。今も「あれまでは出たかったっちゃん。男になりたかー」とこぼす。 この夏も七月十五日の明け方、追い山を見にいく。取材に応じてくれた沙代子は、とても明るくて、しっかり者だった。水法被を着て山笠に出ることはなくても、小六までの思い出を大切に、ずっと山笠に声援を送り続けることだろう。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 「男の祭り」と呼ばれる博多祇園山笠にも、小さな女の子が締め込みをして出ている姿がよく見られる。大抵は小学校3、4年生ぐらいで出なくなるが山好きの女の子が高学年まで出ることもある。山小屋(山笠の収容庫)や町内の詰め所に女性は入ることができないというしきたりが残されており、女性は飾り山や舁(か)き棒に原則触れることはできないとされている。
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舁(か)き山を運営するのは七つの流(ながれ)。十二カ町で構成する大黒流では、一番山笠当番町は八十四年に一度しか回ってこない。三年前、その取締を父が、総務を祖父が務めた。 光太郎(14)は、父と祖父を職人としても誇りに思う。福岡市博多区上川端商店街にある門田堤灯(ちょうちん)造花店。創業百十年。山笠では大小三百近い提灯を作る。 作業場で敏郎が息を止め、提灯に墨文字を入れていた。湾曲した側面の和紙に「赤手(あかての)拭(ごい)」の文字が力強く浮かび上がる。 博多中三年の光太郎。同校では二月、数人の生徒が夢を語る「立志式」がある。今年は光太郎が代表の一人として、生徒、保護者ら約五百人が集まった体育館の壇上に立った。左側前方に、博多祇園山笠振興会会長の後藤久義(72)と並んで敏郎がいる。光太郎の言葉が響き渡る。 「一番の誇りである山笠を通して博多の伝統や心を学び、祖父や父に負けない、誰もが認める提灯職人になる」 敏郎は何も聞かされていなかったという。作業場で記者がその点を尋ねると、敏郎は筆を止めて、顔を上げた。「そりゃあ、あんた、涙がでますわなあ」 光太郎は五月、初めて提灯を作ることになった。「運動会の山笠で使う提灯ば作ってみんや」と、先生に背中を押された。竹の骨組みから始めた。組んでは外れ、和紙を張っては破れた。大型連休中の三日間、午前中から夕方まで作業場にこもった。 直径二十二センチ、高さ五十センチ。運動会の山笠で光太郎が所属した「楠木(くすのき)流」の文字が墨で書かれた提灯は、ごつごつ感が否めなかった。「僕が書いた字は最初まったく読めんやったのに、じーちゃんがちょっと筆を入れてくれたら、恥ずかしくない提灯になった。五十五点」 敏郎は赤ちゃんをあやすように、その提灯をそっと両手で抱いた。そして、指先で文字のところをとんとん打つ。 「この辺は思いきりよく書けとる。合格点ですかな」 敏郎は「五代目」光太郎に、八十点をあげた。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 博多山笠では、中学生か高校生になると「若手」入りし、一人前の大人と認められて仕事を任される。若手としての実績が認められると「赤手拭」に昇格する。赤手拭は町の中心になって山笠を動かす実動部隊。また、各町の運営の責任者を「取締」と呼び、各町の代表は「町総代」。各流の代表「総務」は当番町の町総代が務める。
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中学一年の祐斗(12)は福岡側育ち。毎夏、山笠(やまかさ)神事に参加しようと、自転車で二十分かけて博多にやってくる。上川端商店街の「博多銃砲店」の若大将、内藤博文(48)がおじで、小学校入学前から山笠に親しんできた。 同店近くに住む健児(12)と和晃(11)にとって、山笠の季節になると現れる一学年上のいたずら好き祐斗は、とても魅力的だ。 昨夏のお汐井(しおい)取り。祐斗の思いつきで、三人は神事用の昆布(こぶ)とするめを締め込みの中に隠し、オイシャン(おじさん)たちの目を盗んでは、もぐもぐ。和晃の股間(こかん)から昆布がはみ出して、ばれ、大目玉を食らった。 締め込み姿で並んで立ち小便していたときは、バスが通りがかった。乗客たちに大事なところを見られ「あんときは、ばりばり恥ずかしかったけんね」。 この夏は事情が違う。 祐斗が参加する大黒流(ながれ)の川端中央街は、中学生から若手入りし、直会(なおらい)などでの役割が与えられる。 「おいっビール持ってこんか」「はいっ」「なんやこれは。ぬるかろうが」「すいません」「なん、ぼーっとしとうとかー」 祐斗はおととし、健児の兄の光太郎(14)が若手入りし、大人の間を走り回る光景を目の当たりにしている。「今度から、あれをせんといかん…」 不安材料はまだある。正ゴールキーパーの座を狙って連日サッカーの猛練習しているのだが、若手の仕事は、その倒れ込みそうにへとへとになる部活の後にある。 「おれ、いっつも健児たちと一緒におるし、外から来とるけん、六年生で出てもばれんっちゃないか」。いったんはそう悪巧みしたが、博文が「みんなおまえが中学生って知っとうぞ」と、ぴしゃり。祐斗は山笠参加について初めて悩んだ。 ところが最近、一人でいた祐斗に尋ねると、こう宣言するではないか。「おれが、がんばらんで逃げたら、健児たちも来年がんばらんかもしれん。おれのこと見とうやろうし。年上なんやし見本みせんとね」 ほれぼれする、その決心。それを聞いて博文が「若手入りするなら取締にあいさつにいかんとな」と言う。祐斗は「取締って、なんやったっけ」と、周囲をぽかんとさせた。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 7月1日夕に各流の当番町が、同9日には博多山笠に参加する男たち全員が、お汐井取りをする。心身を清める神事の一つで、箱崎浜(福岡市東区)まで駆け、升やてぼに、お汐井(海辺の砂)を取る。帰路、筥崎宮や櫛田神社で祭り期間中の安全を祈願をする。お汐井は家の玄関に置き、外出時には体にふりかけ、身を清める。
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「朝九時開始なんで、七時ごろ来られるといいでしょう」「えっ」「当番町の中学生は準備があるけん、早いとですよ」「なるほど…」 当日二十日は、台風の影響が心配されたが、朝から好天熱暑。七時、千代流詰め所では、千代中二年の瞬(13)がテント設営の準備をしたり、ドリンクを冷やしたりと既に奔走。時折あくびをするものの、おにぎり運び、ごみの片づけと休む間がない。 九時。三百人の男たちが水法被姿だ。中学生も七、八人いる。瞬の祖父で、千代流総務の岡本良祐(りようすけ)(72)が「今から舁(か)き山(山笠)の棒締めを行います」とあいさつし、左肩三番棒から棒締めが始まる。既に気温三二度。 「ぼおー締めたー、ぼお締めたー」。「おやし棒」と呼ばれる丸太をてこに用いながら、舁き棒を縄で山台に締め付けていく。山台の上に瞬の兄、将哉(まさや)(19)。縄がさらによく締まるよう、木づちでたたく。 男たちの喚声、縄が締まるグッグッという音、木づちのコンコンという音が、一体感の中で反響する。瞬は、冷茶を先輩たちに運びながら、作業にじっと見入る。良祐が言う。「山のことは体験せんとわからんけん誰も口で教えん。見て覚えるのみ。みんなそうしてきた」と。 棒締めの後は、試し舁き。一年ぶりに山を舁く。「祝い目出(めで)度(た)」(博多祝い唄)の唱和が終わると、「ヤーッ」と山が走り出す。飛び出した、の表現の方がぴったりくる。瞬が「見送り」左肩三番棒についている。「オイサ、オイサ、オイサ」。予想以上に速く、前方でカメラを構えていた同僚の田篭記者がひかれそうになった。 舁き終わって博多手一本。瞬に感想を聞こうとすると「ちょっとすいません」。神事の後の直会(なおらい)の準備で忙しいのだ。直会でも、ビールのつぎ方、次に何をするかなど、先輩の動きを見て学ぶ。 直会が終わり、瞬にやっと笑みがこぼれる。「今日は二回舁きました」。「当番町やけん気合が入るね」と問い掛けると、「いえ、毎年気合が入っています」という返事。山の取材では失礼なことばかり聞いて、皆さんに迷惑を掛けている。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 各流は、櫛田神社に一年間預けておいた長さ5・45メートルの舁き棒六本を博多埠頭(ふとう)の先端にある櫛田神社浜宮の海水で「棒洗い」し、汚れを落とす。棒洗いを終えた舁き棒は、直径4センチほどの麻縄でくぎを一本も使わずに山笠台に固定する。この作業を「棒締め」という。
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「輝(あきら)、入ってこい!」。誰かが背中を押した。思い切って山に走り込む。「見送り」左肩三番棒鼻につく。足がもつれた。「おれ、転ぶ」 とっさに舁き縄をつかんだ。右の尻に衝撃が走る。「誰か、助けて」。舁き山は止まらない。千代流は速い。千代中二年、輝(13)は舁き縄にぶら下がったまま、横向きに引きずられる。「離したら、死ぬ」 体がふっと浮いた。隣の左肩二番棒鼻で舁いていた将哉(まさや)(19)が輝の締め込みに指をかけ持ち上げていた。次の瞬間には、山の右外にいた。どうやって逃げ出せたのか。道路に立ちつくす。「オイサ、オイサ」。山が遠ざかっていく。右の尻から血が流れ出ていた。 疾風迅雷、一トンの舁き山。一瞬の乱れが命を奪いかねない。博多祇園山笠(やまかさ)では、ほとんどの町が毎年、舁き手の勉強会を開く。山の舁き方や、転んだときの対応を教える。輝も参加した。だが、さらに詳しいことは、山小屋を夜に見張る山番のときなどに、先輩たちから教わった。 「命綱って知っとうや? 転んだときに舁き縄ばつかむやろうが。あれをつかんどる限りは大けがすることはない。やけん命綱たい」「締め込みの後ろの結び目は、なんかあったときに人さし指と中指の二本ば入れて持ち上げれるごとなっとう。重心が取れるようできとうけん、力をそげん入れんでも持ち上げられるったい。ただ、持ち上げたときにすっぽ抜けんごと、しっかり締めとかないかんとぜ」 何気ない会話から知る山の要諦(ようてい)。昨年の流舁きで、これが生きた。 「出はなでけがして『二度と山につきたくない』ってならんやろうかね」。将哉は輝を気遣った。だが、心配は無用だった。翌日の朝山から輝は舁き棒についた。 この二十日の、千代流の棒締め後の試し舁き。あの日と同じ「見送り」左肩三番棒鼻についた輝の姿があった。炎天下、舁き終わると、後押しに回った。 「今年は、千代流に、貢献する」。息も声も弾んでいる。「一年ぶりに、舁いて、疲れたけど、昨年のような、失敗は、できん」。輝の、おっとりした顔が引き締まった。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 水法被や締め込みなど山の道具は合理的な機能を持つ。水法被の前をしっかり結んでいれば、転んでも奥襟などをつかんで助け起こすことができる。勢(きお)い水を浴びれば法被が体に密着し、引っ張るときに遊びがなくなり、より助け起こしやすい。山台も前後の下方が「への字」に湾曲しており、転んでも逃げ込める構造になっている。
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「博多に引っ越すぞ」。父・潔(41)が、二人にこう宣言したのは、昨年九月の日曜日だった。晴天の霹靂(へきれき)―。一家は当時、福岡市内の博多区ではない区に住んでいた。二学期が始まっていた彩乃は「博多中って天神の近くやろ。なじめるんかな」と不安になった。転居の理由は、潔の仕事の都合や、マンションを購入するため、と思っていた。 ばたばたと転居。彩乃が引っ越しの最大の理由を知ったのは、ずっと後、しかも友達から聞いた。「博多には山笠がある。息子と娘のためになる」(潔) 潔は中二のころまで、故郷の福岡県田川市で春日神社神幸(じんこう)祭に参加した。太鼓の練習では先輩たちよりも早く来てたたき、誰よりもうまくなって近所のおじさんに褒められた。地域ぐるみで山車(だし)を動かした。その先に、甲子園出場、大学応援団での活躍があった。潔は、家族を祭りのある地域に住ませたいと常々考えていた。 彩乃は転校してすぐに、博多特有の、垣根のなさ、に気づいた。それも、どこか心地よい。 下校途中、近所のおばさんが声を掛けてくる。「彩ちゃん今帰りよるとね。お父さん元気ね」。転校して一カ月。先生に「もう博多になじんどるなあ」と言われ、学校代表の一人として韓国に行き、中学生と交流した。 この五月末の博多中運動会。土砂降りの中、大勢の父親たちが警備、受付、グラウンド整備を担っていた。「なんでこんなに地域の人のつながりが多いと」。彩乃は不思議に思う。 こんなこともあった。ある店で、団輝が近所のオイシャン(おじさん)と会った。目を見てあいさつをしなかった団輝をオイシャンが「こら、団輝くん。あいさつは目を見てするもんばい」と注意した。ここでは、珍しいことではない。 潔と団輝が初めて参加する博多祇園山笠の七月は、もうすぐ。彩乃も母親も、潔につられ肩に力が入ってきた。 取材中、団輝が、転校後に覚えた「博多にわか」を披露してくれた。 「あんたくさ、風邪ひいて咳(せき)をすると注射されるばってん何本されるか知っとおね?」「いーや、知らん」「咳はごほんごほん(五本)たい」 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 7月1日に始まる博多祇園山笠。同日は早朝、各流(ながれ)の域内や町内を潔める辻祈祷(つじきとう)が行われ、飾り山が、ご神入れの後、一斉に公開される。夕刻、舁(か)き山各流の世話をする当番町による潔めの神事、お汐井(しおい)取りが行われる。
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「こんにちは!」「こんにちはー」。あちこちから大きな声のあいさつがこちらに投げかけられる。気持ちがいい。「加勢町の記事、読みましたよ」。話しかけてきたのは西流(ながれ)、三年生の博貴(ひろき)(14)。人懐こい。 生徒会役員の博貴は、毎朝八時十分から校門に立ち、あいさつ運動をしている。第三木曜日には、二十人ほどの父親が加わる。校門前に並ぶ、おやじ、おやじ、おやじ…。母親や学校任せでなく、男親も子どもの成長に目を向けようと、おやじの会「はっぱの会」が学校やPTAを陰で支える。前に出すぎることは控えているのだが、裏方では我慢できない行事がある。 山笠(やまかさ)―。 「両手ば開いてみてんや」。西流のおやじ加藤慎一郎(42)が博貴に指示する。「靴下ば脱いでから、親指と人さし指で縄ば挟むったい」。五月、博多中で運動会山笠のための舁(か)き縄の縄綯(な)いがあり、十数人のおやじが参加した。山に出続けてきた「地(じ)のもん」が多い。教諭は博多っ子ばかりではないので、おやじたちの山に関する知識と技が遺憾なく発揮される。「これば締めんと気合が入らんもんね」と、ねじり鉢巻きで指導するおやじもいる。 舁き縄は、それぞれの体格に合わせて綯う。左右に伸ばした両手の長さの三倍半ほどのわらで綯うと、舁きやすい長さになるという。 「ただ巻き付けるんじゃのおて、力ば入れて綯わんと、でこぼこになってつかみにくかぞ」。力む博貴だが、三分も綯えば締め方が甘くなってくる。「握力がなくなってきたんやろーが」。博貴は力を入れ直す。 「よおできとおぜ。おまえ、成長して顔が変わっとおけん気付かんやったけど、店屋町の博貴やないや。子ども山笠んときに舁き方ば教えたとば覚えとおか」。うなずく博貴に「今度はおまえが下のもんに教えてやらなな」。 自分で綯った舁き縄を笑顔で見つめていた博貴が突然、駆け出した。追いかけると、運動会用の山台の「表」三番台下について、舁き縄を舁き棒に回し、一人、山を舁いている。「ここで舁くのが一番難しいんですよ」 博貴は作業場に戻ると、うまく綯えない級友に、こつを伝授し始めた。「ただ巻くだけじゃないとぜー」。その様子を、慎一郎が少し離れたところから笑顔で見ていた。 (敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 8年前に結成した「はっぱの会」は、福岡市博多区の博多中、博多小に子どもが通う父親たちを中心に活動中。あいさつ運動、子ども山笠、博多中山笠の支援などをしている。当初は約20人でスタートしたが、現在の会員は150人。会の名称には、若葉である子どもたちを大樹に茂る葉に育てようという思いを込めている。
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山が終わり夏休みに入ると、モモコは兄・弘一郎(18)、ひかりと一緒に、福岡県甘木市の博の家に通った。がっしりした体の博が運転するワゴン車に一時間揺られ、よく川に行った。川辺の木の枝に博がくくりつけたロープにぶら下がり、ターザンのように揺れては川に飛び込む。 「遠くに行ったら、へげん(だめ)よ」。博の口癖。そして釣りざおを手に上流へ向かう。モモコらが遊び疲れたころ、ヤマメを携えて戻ってくる。薪を拾い集め、焼いて食べた。デザートは川で冷やしたスイカ。「また来るね」。モモコは昨夏もそう言って、博の家を後にした。 その祖父は今年一月、七十五歳で不帰の人となった。 大黒流(ながれ)すノ一(須崎町一区)のモモコ。小四で子ども山笠を「卒業」した。翌年から廻(まわ)り止(どめ)(追い山の決勝点)脇の詰め所で、ごりょんさんとして働く母の手伝いをしてきた。 おにぎり、みそ汁をつくり、うちわを手に七輪(しちりん)で熱かんをつける。卵焼きや、チーズをギョーザの皮で巻いて揚げる料理もここで覚えた。男たちが直会(なおらい)に帰ってくると詰め所を空け、少し離れた所で見守る。 料理をおいしそうに平らげる男たちを見て、ごりょんさんにあこがれた。ずっとこの町にいて、山を支える人になりたい。 けれど、今年は手伝わない。身内に不幸があったら、参加を控えるしきたりがある。以前、詰め所でごりょんさんがそう話すのを聞いた。「今年は詰め所に入らない」。誰に言われたわけでもない。自分で決めた。 「黒不浄」。喪中の人を指す。神事を遠慮し、故人を悼む。下校中のモモコと歩きながら、彼女の思いをつい、確かめたくなった。 「難しいことはよく分からんけど、おじいちゃんのことを思うと今年は騒げんし、山笠が好きやけん、それが山のしきたりなら、守りたい。しきたりを守ることで、私も山の一員、すノ一の一員でいられとる気がする」 その思いを、周囲はきっと大切にしてくれるはずだ。来年も、再来年も、モモコがごりょんさんになるまで、それからもずっと、山はある。 (敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 博多の女性たちは、山にのめり込む男たちに代わり自営の店を守る一方、直会の食事をつくったりして、山を陰で支える。そんな女性たちを、敬意を表して「ごりょんさん」と呼ぶ。「ごりょんさんがおらんかったら山は動かん」と男衆。妻へのお礼として、秋の筥崎宮放生会のときに着物を買う習わしもある。
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「懐かしかー。おれもこれば着とったっちゃんね」。太紀の襟元を直す武志の顔が思わずほころびる。 素足に下駄(げた)、麻クレープのステテコをはき、久留米絣(がすり)の長法被を着た太紀が少し照れながら店の表に顔を出す。自転車のオイシャン(おじちゃん)、おばちゃんが笑顔であいさつしてくれる。濃紺の法被には、恵比須流(ながれ)の太紀の町、下竪(しもたて)町の「立」の白ぬき文字が連続して映える。 「曾(ひい)じいちゃんも着とったけん、四代の長法被たい」と武志。身長一五〇センチほどの太紀にはやや大きい法被は、袖や裾(すそ)が余っている。武志が袖を取ってよく見ると、ところどころに繕った跡がある。「襟のところも破れてしもうとったけん、私が縫ったとです」。祖母マリ子(70)が、過去三代の勲章でもある破れを一つ一つ直してきた。 「ちょっと後ろを向いてんの」。マリ子が帯の結び目を右下に、ずずずと、ずらす。「艶(つや)に結ぶときは、こげんすっとよかとやけど…。体がまだこまかけん、やっぱり貫録が出らんね」と笑う。この日、着付けをしたのもマリ子だった。「生きとう間は、私がしてやらんとね」 博多祇園山笠の実動部隊である赤手拭(あかてのごい)を目前にした十八歳のとき、同じように父から長法被を譲り受けた武志は当時、大人としての責任を一身に背負った気がして世界が一変したという。町ごとに法被の紋様が違う恵比須流では、法被を見ればどこの町内の者か分かる。長法被をまとう者は、町を背負う。 「おまえも中学生になって今年から若手たい。もう子どもじゃなかけんな」。武志に肩をたたかれて太紀が「うん」と小さくうなずく。「なんが、うん、か! 赤手拭や取締に返事するときに、うん、って言うんか。返事は、はい、やろうが」「う、はい!」。厳しい山が動きだす。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 流や町の名を紋様化した、ひざ丈の法被を長法被と呼び、6月1日から着用が解禁される。博多部では儀礼服として扱われている。ほとんどが久留米絣で1着2万円以上。本来は流の当番町の者だけが着ていたことから、当番法被とも呼ばれる。
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明の左ひじには、長さ三センチほどの傷が残っている。もう五年になるのに、消えない。 「おれ、ポテトサラダ食って、けがしたけんね」。明は、しかめっ面して原因を明かした。 博多祇園山笠の期間中にキュウリを食べるとけがをする、との言い伝えがある。明も、もちろん知っていた。油断したのだろうか。 あの夏、お汐井(しおい)取りを目前にした七月の初め。空腹だったので市販の弁当をがっついた。 もぐもぐ、ぽりぽり、ごっくん…ん? ぽりぽり? はっとしたが、遅かった。ポテトサラダのキュウリはすでに胃袋の中。「そんときは、やばいと思ったけど、すぐ忘れた」 思い出したのは、十日ほど後の「追い山ならし」のとき。旧東町筋の路地でこけて、左ひじを擦りむく。勢(きお)い水でぬれたマンホールで滑り、転倒したのだ。その日はなんと、あと二回もこけ、同じところを擦りむいた。「風呂入るのが、ばりつらかったー」 三度あることは、四度あるのか。 その翌日、山笠が博多部から福岡部に渡る「集団山見せ」のとき、明はまた転んだ。排水溝の上に張られた網目の鉄製ぶたで滑ってこけて、またも同じ個所を強打。左ひじには、網目までがついた。「明日は腕がどうかなるんやないか」と震え上がった。 その後は何も起こらなかった。しかし、明は「やっぱ、キュウリが悪かったっちゃろうね。それまでは迷信と思いよったけど、もうあれからは絶対に食わんて決めた」と話す。こちらが噴き出しそうになるくらい、真剣な表情で。 明日、七月一日、七百六十三年目の山笠が始まる。関係者が多い博多区の博多中、千代中、吉塚中、東光中では、山笠がある約二週間、給食でキュウリは一切出ない。博多小、千代小では、キュウリの代わりに白ウリを使う。 キュウリ一つに、このこだわり。博多の人間は熱い。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 山笠にかかわる博多の人たちは「切り口が祭神・祇園宮の御神紋に似ているので恐れ多い」との理由で、山笠期間中はキュウリを食べない。塩断ち、お茶断ちのように、一年で一番おいしい時期のキュウリを食べないことで、神に精進潔斎(けっさい)を示す意もあるという。
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三十日午後四時二十一分。まず、真喜志が自分の髪にバリカンを入れる。刈り高さ三ミリの二枚刈り。床にビニールシートを敷き、その上に置いたいすに腰掛けて、右側頭部からどんどん刈っていく。ものの三分ですっきりと刈り上がった。 次は、智大(ともひろ)(14)。刈るのは太郎(たろう)邦継(くにつぐ)(14)。一七三センチ、八〇キロの体からは想像できない、すばらしい手さばき。智大の右耳たぶを左手で丁寧に押さえ、耳の裏側を刈る。 「クニ、ばりうめえねー」。周りから絶賛の声が上がる。刈り終わると、智大の首元に付いた髪を手で優しく払う。「ばり気持ちかー。すっきりして気合が入る」。普段おとなしい智大が大きな声を出す。 太郎邦継は一カ月前の博多中運動会の際に、父からかみそりで髪をそってもらっていたので、刈る係に徹する。 孝文(14)はそれまでの様子をそわそわしながら見つめていた。「タカはどうするとー」と太郎邦継。孝文は見学、と太郎邦継らは思っていた。 山笠の街にある博多中で、丸刈りにしている生徒は少なくない。山笠に臨むとき、生徒同士で刈り合ったり、先生が刈ってくれることも珍しいことではない。ただ、孝文は、その経験がなかった。ところが、孝文の様子がおかしい。そわそわしすぎている。 「やる」。孝文は一呼吸おいて宣言した。 「本当にいいとや」。驚いた三人は、突っ込んで聞く。孝文が再び宣言する。 「おれ今年、中学生活最後の夏やけん、ばり燃えとるっちゃん」 太郎邦継が、孝文の頭にバリカンをあてる。息をのむ孝文。「すー」。長さ十センチほどの髪がビニールシートの上にばさっと落ち、孝文の頭に青い道ができる。「うおー」。孝文が、笑い声が交じるような、うめき声を上げる。器用に刈る太郎邦継ゆえ、十分で完了。「ばり似合うやん」。真喜志が目を大きくする。 「鏡見せて」。自分の頭を二秒見た孝文は、満足げな笑みをこぼした。 (敬称略) (社会部・永松幸治)
●げなばい 博多祇園山笠の7月です。中学生と一緒に、本紙山笠担当記者の田篭良太(24)、永松幸治(24)も頭を丸めました。これからも中学生と同じ目線で、2004年夏の山笠を追い続けます。
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昨年十一月、將揮は中学校の生徒と保護者計八百人が集まった福岡市中央区の会館ステージに立った。締め込みに水法被、その上に長法被を羽織った「当番町お汐井取りスタイル」。一八〇センチ、九五キロの体格。どうみても山のぼせのオイシャン(おじさん)だ。將揮は、授業の一環で研究してきた「山笠(やまかさ)」を発信した。流(ながれ)とは何か。手拭(てのごい)とは何か。人形師の思いまで。 將揮の町は、博多区綱場町(恵比須流)。中学は、博多部ではない中央区に通う。学校のみんなに、山の魅力をどうしても伝えたい訳があった。 山のぼせ家系の十八代目。そんな將揮や山をバカにした級友がいた。「文明が進んだ時代に尻出して走るのは野蛮やないや?」。それは違う。が、具体的には語れなかった。体験してもらえば、尻を出して走る意味も、山のすばらしさも分かってもらえる。それを訴えたかった。 この夏の山笠が始まった一日夕。級友らは来なかったが、將揮は、町の詰め所に新顔、家庭教師の孝浩(32)を連れてきた。 脚半と地下足袋を素早く履く將揮。すっすっすっと、ハゼをはめていく。もたつく孝浩に「中腰じゃなく、あぐらをかいて太ももを上に向けるとやりやすいです」。脚半のひもの結び方も、手を取って教える。「こうして、ねじねじを作っておくと外れにくいです」。孝浩は「いつもは僕が勉強を教えとるのにね」と苦笑しつつ、山の先輩に従わざるをえない。 「先生もパンツ脱いでこっち来てください」。全裸に脚半と地下足袋だけを着けた孝浩が、照れながら腰を落とす。「はい、回って。あ、締まってませんよね。少し逆に回ってください」。六分で締め込み完了。將揮は、孝浩の尻の結び目をパーンとたたいて形を整えた。 恵比須流の男衆百人が箱崎浜へ向かう。出発地点、石堂大橋で鬨(とき)の声を上げる。「やあーっ」。駆け出すと、橋が揺れる。 真砂(まさご)(お汐井)を取り終えた孝浩が、額から汗を滴らせて言う。「まだ初日だけど、実際に参加してみて本当に楽しいよ」 記者は、お汐井取り前に熱っぽく語った將揮の言葉をかみしめた。「博多では、人口流出や少子化で山の参加者、後継者が減っている。山を体験してもらい、山を思う人の輪を一つ一つ広げていきたいです」(敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 博多祇園山笠のお汐井取りは心身を清める神事。一番山笠から順に箱崎浜を目指し、「おっしょい、おっしょい」の掛け声で走る。速度はジョギング程度。周囲の人に腕が当たらぬよう、腕は振らずに、下にまっすぐ伸ばして走る。9日の全町お汐井取りには、各流400―1000人が参加。翌10日、いよいよ舁(か)き山が動きだす。
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この連載の取材で福岡市博多区の山笠(やまかさ)用品店をよく訪れる。立派な口ひげをたくわえた店主の半田昭二(46)は、いつも笑顔で迎えてくれる。先日、山での中学生の奮闘ぶりについて話していたら、「中学生は若手入りするけん大変やね」と言いつつ、自分の中学時代のエピソードを語ってくれた。 「おれんときは、二つの山につきよったよ」 半田が所属する上川端通りは「走る飾り山」で有名。同時に舁(か)き山・土居流(ながれ)の構成町でもある。三十年以上前の「集団山見せ」。当時、土居流は集団山見せに参加していなかったが、上川端通りの飾り山には応援参加していた。 中学生の半田は高校生と二人一組になり、長さ数メートルの竹ざおを手に山の前を走る。飾り山は高さ約七メートルもあるので、電線に引っ掛かる。だから、半田らは少し前を走り、飾り山が通れるように竹ざおで電線をぐいっと上げる。そしてまた前を走り出すのだ。半田の仕事は地味だったが、地元の大人たちが託した役割を、誇りをもってこなした。 そして、祭りの熱気が一気に爆発する「追い山」。半田はまず、土居流の櫛田入りに参加する。舁き棒にはつかないが、必死に後走りをする。山が清道を廻(まわ)り櫛田神社を飛び出すと、通りの向こうに待機している上川端通りの飾り山に走って戻る。そしてもう一度櫛田入り。走る飾り山が出現すると観客からひときわ大きな歓声が上がる。万雷の拍手を背中に受けながら、半田は先を走っている土居流をまた追いかける。「今年は三番山笠やけん、今はここらへんやな」。町筋を先回りして舁き山が来るのを待つ。タイミングよく山がやってくる。「オイサ、オイサ」と叫びながら加わる。 「大変やったけど、どっちの山にも愛情があったけんね」 この夏の山笠が始まる前日の六月三十日。福岡県宇美町から毎年山に出ている中学三年聖悟(14)の母親千草(48)が半田の店を訪れ、薦められた地下足袋を買っていった。記者は、一日夕の当番町お汐井(しおい)取りで、その地下足袋を履いた聖悟に会った。 二日夜に会った半田に、聖悟のことを報告した。「エアクッション入り地下足袋を買った中学生が、足が痛くならんかったって言ってましたよ」 「そうね、よかったね。やっぱり、山が好きやけんこういう仕事しようけど、そういった話聞くとうれしいね」。半田は中学生みたいに、純粋な笑顔を見せた。 (敬称略) (社会部・永松幸治) × × ●げなばい 集団山見せは13日午後3時半から。この日に限り、山笠が博多部から福岡部に渡る。福岡市の要請により1962年から始まり、当初は下呉服町の万四郎神社から昭和通りを西へ約1・5キロ、天神の福岡中央郵便局まで舁いていた。現在は呉服町交差点から明治通りを西に抜けて天神の市役所まで約1・3キロ。台上がりは福博の名士が務める。
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千代小に近隣四校を加え、小学生約二百五十人が時にひきずるようにして山を舁(か)き回った。 山のスタート三十分前。千代小運動場では、締め込みに水法被姿の千代中教諭十数人が、同中の生徒二十一人に気合を入れていた。「小学生に教える後押しの仕方は分かっとうな?」 中一の八人は顔を見合わせ、下を向いてもじもじする。「昨年はおまえらが、中学生に教えてもらったっちゃろうが」。もじもじが止まらない。 しびれを切らして教諭が説明する。「腕を伸ばして、頭ば下げる!」。あー(あれか)、という吐息が生徒たちから漏れる。「知っとろうが、それば今度は君らが教えるとぞ」 午後四時きっかり、山が勢いよく飛び出す。が、間もなく減速。大人山の三分の二のサイズの子ども山は、重量五百キロをくだらない。「後押しが力を出して声を出せば山は動くとぞー」。応援に来た流の男衆が声を上げる中、中一の健太(12)も頻繁に子どもたちに声を掛ける。「腕をしっかり伸ばして、頭を下げて!」。だが、無我夢中の子どもたちの耳には届かない。 ヴヴヴヴヴ。山が脚をアスファルトにこすり止まる。健太は小学生の手を取り声を掛ける。「後押しがしっかりすれば進むよ」。舁き回る一時間十五分、健太は何度も山の基本を教えた。 博多部の千代中と博多中は、地域の伝統行事を教育に生かそうと、山笠学習を続けている。千代中では、生徒が小学生に山の指導をする。博多中では五月、山の基本の自治をテーマに、生徒たちが流を組織して山笠を手づくりし、運動会で舁いた。 どちらにも、大人に近づいたという自覚と自信を持って地域伝統への愛情を深めてほしい、力を合わせることの大切さを実感してほしい、との思いがある。 灼熱(しゃくねつ)の太陽の下を舁き回った子ども山は無事、千代小に戻った。中学生たちは運動場隅のシーソーに並んで腰掛け、「お疲れさん」ともらったおにぎりをほおばる。午後六時。ようやく傾きだした太陽に照らされた中学生たちの横顔には、安堵(あんど)に交じり、少し大人びた表情も浮かんでいた。 (敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 子ども山笠は福岡市博多区の千代小、博多小と中央区の新天町の3本。博多祇園山笠の舁き山行事がない前半に町内を舁き回り、祭りムードを盛り上げる。舁き棒につくのは4年生以上で、表には6、5年生がつく。後押しには幼児も参加し、山の後継者育成に一役買っている。
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山口が勤務する博多女子中学校(東区)は、国際交流で知られる。留学やホームステイ、逆に海外から留学生や先生を迎えたりと。だが「あなたのまちのことを教えてください」と聞かれて、生徒たちは返答に窮する。 「うちは九州女子、福岡女子ではなく、博多女子。博多のことを知らんでどげんする」。山口は昨春、「博多っ子倶楽部(くらぶ)」をつくることにした。 部員募集のチラシにこう書いた。「博多にゃ素晴らしか祭り、工芸、方言、食文化、歴史、芸能やらがいっぱいあろうが。そげなとば、見たり、聞いたり、体験したり、味わったり、学んだりしてから、博多んことば知っとう人間になるとが、こん倶楽部の目的たい(略)入っちゃってん」 生徒たちは博多弁だらけのチラシが読めない。外国語に接したように博多弁を眺める。頭の痛い山口だったが、二十人弱の部員が集まった。 これまでの活動は「博多」の名が付く菓子を三十種類以上買ってきて、中のあんやクリームを研究したり、博多に関するテスト「博多っ子検定」の勉強。この夏は「博多祇園山笠」をテーマに据えた。六月中旬には「博多町家(まちや)」ふるさと館を訪れ、資料をあれこれ見学した。 博多部ではない西区出身の山口は考えた。「外から見ていても、山の男たちの汗や涙の意味が分からん」。部員は山に参加できない。募集チラシに「ほら、自分の前に道はなし、自分のあとに道はできるて、よか言葉のあろうが」と書いた手前もある。今夏、初めて締め込みをする決意をした。 山に挑む、部員思いの山口。ところが彼女らに尋ねると、一同大爆笑。「先生のお尻を見るのが恥ずかしいんですよ」と部長の結依(ゆい)(14)。 でもその後の言葉にほっとした。「先生を絶対、見に行きます」。さっきまで笑っていた生徒が皆、真剣な表情でうなずき、もう一度ほっとした。 (敬称略) (社会部・永松幸治) × × ●げなばい 「博多町家」ふるさと館(博多区冷泉町)は、明治中期の博多の町家を移築、復元し、博多祇園山笠をはじめとする祭りや文化、風俗などの資料、映像を展示。博多人形、博多織、博多曲物など伝統工芸の実演も。高校生以上200円、中学生以下無料。同館=092(281)7761。
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四月に着任した教頭、田口輝男(50)は今回が初参加。「もう八回、締め込みを洗濯しました。だいぶ柔らかくなりました。毎日手触りで確かめています」。通勤も自転車から徒歩に変え、週末ランニングも始めた。ほかの先生たちも、十日の舁(か)き山始動に向けて体調を整えている。 クマのように大柄、おとめ座の教諭、弓削(ゆげ)淳一(33)はサッカー部顧問。大事な試合の先発メンバーは、山笠の「棒ぜり」方式で選ぶ。弓削がポジションを叫び、出場したい部員が声を張り上げる。「キーパー!」「はい!」。声と目から、気合を判断する。「山の話で例えたら、みんな話ばよう聞くけんね」と弓削は笑う。 博多区選抜選手でもある三年の康平(14)が、笑顔でこんな“秘話”を教えてくれた。「弓削先生は、三年生の最後の中体連のために、練習時間をとってくれたんです」 今夏の中体連。サッカー博多区予選は、七月十八、十九日の連休を利用して早めに実施しようという案が、出場十校の顧問の間で出た。弓削は挙手して申し出た。「博多中、千代中には山笠がありますけん、申し訳ありませんが、日程を例年通りにしてもらえんでしょうか」 例年なら予選は七月二十日すぎ。山笠は十五日の追い山がフィナーレ。新提案の日程だと、翌十六日から数日の練習でベストコンディションに持っていかなければならない。 他校の顧問たちの反応は、弓削を身震いさせた。「互いにベストな状態で試合をすることこそ、自分たちが部員に伝えたいフェアプレー精神やけん」。例年通り二十日すぎの開催と決まった。博多の心意気―。イヨー、シャンシャン。 弓削を動かしているのは、七年前の、ある山のぼせの言葉だ。「一生懸命山に取り組む人ば男にしたかけん、全力で山ば舁くと」。弓削もまた、三年のサッカー部員たちを男にしてやりたい。 (敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 1トンの舁き山を動かすには、どのポジション=図=も大切で欠かせず、舁き手の配置が鍵を握る。東流(ながれ)は12、15日の櫛田入りで棒につく男たちを直前に「棒ぜり」で選ぶ。流の代表取締が、身長や体格のほか、それまでの働きぶり、舁いている様子、当日の目つきなどを見て選ぶが、その現場は殺気だつ。
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博多中(福岡市博多区)の三年生。小学四年の初め、熊本から博多に引っ越してきた。小学生までは山笠(やまかさ)(山)に強い関心があったわけではないが、中学生になると周囲が盛り上がるので、自分も出てみたいと思うようになった。 一家は博多に伝(つて)がなかった。どうしたら山に参加できるのか分からないまま、転校から五年が過ぎた。祖母エイコ(73)は「どがんしたら出れっとかねえ」と繰り返した。 博多中では山笠期間中、神事のときには許可をもらって早退することができる。昨年、誠大のクラスは男子二十人中、六人が山に参加せず学校に残った。放課後、誠大が所属するサッカー部の部員もほとんどいない。一人でボールをけった。山に参加していない幸介(14)と追い山を見に行った。同級生が水法被姿で走るのを遠くから眺めた。 今年の山が始まろうとする六月末。誠大が、サッカー部の良(14)の家で数学の問題集を解いていると、土居流(ながれ)で取締の良の父、稿一郎(40)が部屋にきた。「良、山の手伝いに行ってこい」。稿一郎は、家に帰ろうかと迷っていた誠大にも声を掛けた。「君は山に出よると?」「いえ」「じゃあ一緒に行ってこんね」「えっ。はい」 その日の作業は、町の詰め所での舁(か)き縄作り。山の男たちは、初めての誠大を優しく迎えてくれた。二人は帰りに立ち寄った店で、丸天うどんをすすった。「誠大、楽しかったやろ。また出るや?」「うん、出る。幸介も誘っていい?」「もちろん」 誠大はすぐに幸介に連絡した。法被や締め込みなどの山笠用品は、稿一郎が近所から集めたり、自宅の山笠用たんすから引っぱり出して二人に貸す。「今年はこれで。山が気に入り来年以降も出るなら、そのとき自分で買えばいい」と言ってくれた。 誠大は九日の全流お汐井(しおい)取りから山に加わる。町の一員として、博多っ子として。 春から足が痛い祖母エイコだが、その晴れ姿を少しでも間近で見たい。十五日の追い山まで毎日、早めに家を出て、沿道の最前列で誠大を待つ。 (敬称略) (社会部・永松幸治) × × ●げなばい 「追い山」は15日午前4時59分、一番山笠が櫛田神社に舁き入れる「櫛田入り」で始まる。一番山は清道旗を回ると、いったん止まり、「博多祝い唄」を合唱。再び舁き出して街に飛び出し、5キロ先の廻(まわ)り止(どめ)を目指す。二番山は6分後、三番山以降は5分間隔で入り、前の山を追う。舁き山は7本。最後に飾り山・上川端通が櫛田入りを披露する。
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一九九〇年、宮司の阿部憲之介(51)に双子の娘が誕生した。今、中学三年生。取材したいと宮司に頼み込んだ。「だめって、うちは山笠(やまかさ)に対して中立でおらないかんと。やけん子どもも山には出しとらんとよ」 あきらめきれない。だが、山笠が近づいて日に日に忙しくなる宮司はなかなかつかまらない。通りで偶然見かけては、追いかけた。「また来たとね。やけどダメなもんはダメよ」 それでも神社を訪ねた。「あんた長男と同い年やけんさあ、重なってみえるったい。仕方なかねえ。…よかたい。山笠振興会の後藤会長には許可ばとらないかんよ」 粘った訳は、博多中から借りて読んだ文集にある。憂うつになる殺人事件などが多い中、気持ちをすごく和らげてくれた。どうせ生きるなら、良いことをしたい、と姉の史子(14)は書いていた。いつもすばらしい笑顔で、くよくよしない人になりたい、と伸子(14)。実際、二人はよく笑う。学校帰りに顔を合わせる夫妻を見習っているからだ。 神社横に「櫛田茶屋」。西流(ながれ)で取締も務めた荒牧英敏(56)が信子(59)と餅(もち)を焼く。信子は双子が生まれたとき、イチゴを持って病院まで出掛けた。「本当に小さかったとよ」。保育器に寝ていた二人の姿を今でもよく覚えている。この店には、参拝者だけでなく、山の男衆、ごりょんさんら博多のもんが集う。双子は、いつもにこにこしている夫妻を見て、人には笑顔で接したいと思う。 子ども山笠にも出たことのない二人。だが、毎年七月十三日夜の奉納踊りには、「山笠の踊り」として幼いころから親しみ、参加してきた。神社を「お櫛田さん」と慕うごりょんさんたちが、女の子も山笠に参加できるようにと、四十年前に始めた。今では博多中の先生や生徒も加わり、百人以上が境内の清道旗を囲んで踊る。 十日、舁(か)き山が動きだす。飾り山が演出してきた「静」の山笠は、「動」の山笠に転じる。 博多の心の拠(よ)り所、櫛田神社。既に桟敷席が完成、櫛田入りを待つ。境内東側では、「博多祝い唄(うた)」にも歌われる樹齢千年、その丈三十三メートル、「櫛田の銀杏(ぎなん)」が、ざざぁざぁと夏風に揺れている。 (敬称略) (社会部・田篭良太) × × ●げなばい 「商売繁盛、不老長寿のお櫛田さん」として博多の人々のあつい信仰を集める櫛田神社。博多祇園山笠は右殿にまつられる祇園宮・素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)に山笠を奉納する神事。神社南門を出てすぐの櫛田茶屋では、地元の人たちが1個105円の焼き餅を食べながら荒牧夫妻と談笑している姿がよく見られる。
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お汐井取り後半、博多中(博多区)三年の庸平(14)の走りが突然、力強くなった。「ん? 急にどうしたんやろ」。記者は、次の瞬間、沿道に庸平の母・弘子(51)の姿を見つけた。 この日、庸平は午後三時すぎに帰宅すると、大好物の缶詰のパイナップルをつまみだした。庸平を出産するころまではバイクが趣味だったという活発な弘子は、きびきびと洗濯物を畳みながら、のんびりしている庸平に活を入れる。「なんばしよっとね。はよ着替えんね」「わかっとるって」「さっさとせんと山に出さんよ」「はい」 博多部では、「山に出さん」のフレーズを出すと、大抵の子どもは言うことを聞くらしい。 締め込みをすると、腰が圧迫されて足元の準備がしにくくなるので、庸平の家では地下足袋、脚半から先に着ける。居間の床が汚れないよう、地下足袋は事前に弘子がきれいに洗い、しっかり乾かしておく。 庸平が地下足袋を履いている間、弘子は締め込みを用意する。真っ白。弘子特製だ。股(また)ずれを起こさぬよう、柔らかい帆布をミシンで一時間縫って作った。 全長五メートル。両端を、身長一七〇センチの庸平と、華奢(きやしや)な弘子が持つ。庸平が弘子に背を向け股に通す。そのまま体をくるっと右に回転させ、前下がりを作りながら締めていく。三回転したところで、尻に結び目を作り、仕上げに弘子がぐいぐいっと締め上げて、完了。 締め込みをするのはいつも弘子というわけではない。父・敬路(52)のときもある。手がすいている方がやってあげる。「お母さんに締めてもらうのはちょっと恥ずかしいけれど、締めてもらわんと山には出れんけんね」と、庸平は話す。 母の締め込みのおかげだろうか、お汐井取りでは、股ずれすることなく約三キロの行程を走りきった。庸平はその間、小学生が転ばぬよう、手を引いてあげたりした。その後の直会(なおらい)でも、オイシャン(おじさん)たちに怒られながら料理を運んだ。 弘子は炊き出しに忙しかったが、庸平の様子をちらちらうかがっては、ほほ笑んでいた。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 山笠の神事が終わった後の酒宴を直会という。男衆はこの場で、先輩から山のしきたりや仕組みを教わったり、反省点を確認し合ったりする。中学生を含む若手は、酒のつぎ方や目上に対するマナーを学ぶ。かつては、料理も男たちで作っていたが、今はごりょんさんたちが作ることが多い。 「はい、出来上がり」。お汐井取りを前に母・弘子さんに締め込みをしてもらった庸平君 (写真グループ・大丸剛史)
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博多中(福岡市博多区)一年、西流(ながれ)の優史(ゆうし)(13)。この夏、若手入りをした。神事が終わればお菓子をもらって帰っていた昨年までとは違う。大人扱いされ、あれこれ下働きを命じられる。「優史、後押しについてみらんや」。町の取締から、初めて山の役を任せられた。 「兄ちゃんは一年目で山についたんやろ。怖くなかった?」「どうやって舁き棒についたと?」。若手三年目の博多中三年、兄・博貴(ひろき)(14)に質問を繰り返す優史。博貴のときと同様、緊張とうれしさが入り交じる。 「朝山」の十一日、午前三時集合。兄弟の家に泊まり込み、三人で川の字になって寝た記者は、優史が博貴に話し掛ける声で午前二時すぎに目が覚めた。「後押しでも、山につくときは怖くない?」 布団の中でもぞもぞする記者に、優史が「山が動きだしたら目が覚めますよ」。優史は一番に起き上がり、身支度に取りかかる。外はまだ暗い。詰め所に入るなり、勢(きお)い水用の水をくんだりと、自ら動く。手が空けば、電柱に向かって後押しの練習。 午前五時。男たちの雄たけびとともに山が動きだすと、優史は後押しにつこうと走る。一五五センチ、四七キロの視界に入るのは屈強な男たちの背中、背中、背中…。西流を構成する各町の水法被の背文字「店」「冷」「奈」が躍動する。背中のすき間から、ようやく山が見える。勢い水を浴びながら、山に近づいては、男たちにはじき飛ばされる。 夜がすっかり明けたころ、町内を舁き終えた山が山小屋に戻り男たちもそれぞれの町に帰っていく。優史も全身から勢い水を滴らせ男たちの中を歩いていた。「後押しに四回つきました」 そして直会の下働きも終える。これからどうするのか尋ねると、「寝ます」。まだあどけなく、しかし立派な少年に成長してゆく、中一のころ。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 博多祇園山笠は、きょう12日に追い山のリハーサル「追い山ならし」を終え、13日は博多部から福岡部に山を舁き入れる「集団山見せ」、14日は「流舁き」。15日未明からのフィナーレ「追い山」はベテランの舁き手たちが棒につくため、14日の流舁きが、ほとんどの中学生にとって、今年棒につく最後の機会となる。)
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突然の出来事に驚く記者。「えっ、何?」「町総代を呼びに来たんですよ」。隣に住む伯父で東流(ながれ)の町総代を務める政美(57)に、舁(か)き山の出発の用意ができたことを知らせに来たらしい。 「今日は追い山ならしやけん(追い山並みに)山は速いですよ。気合入れんといかん」。炎暑の十二日午後、真喜志は数日前の夜警を思い起こしながら、そう言った。 夜警とは、山小屋で山笠(やまかさ)の警備をすること。東流では各町が二十四時間交代で受け持つ。真喜志も中学生になった二年前から参加している。東流はJR博多駅に続く大博通りの呉服町交差点に、舁き山と、飾り山の山小屋を持つ。 夜警と言っても仕事はたくさんある。酔っぱらいなどから山を守る、観光客に山のことを説明する、棒の汚れを落とすなど。 真喜志も、別の町から引き継いだ朝七時から五時間と、夜八時から三時間、山の番をした。その日は流舁きにも参加して疲れていたが、舁き山を前に目をきらきらさせて言った。「この竜馬は最高っすね」 舁き山の標題は「時今(ときはいま)暁夜(あかつきのよ)明(あけ)」。人形は坂本竜馬。左手に刀を持ちブーツを履いている。 「山が動いているときの竜馬の顔は止まっているときとは違う」と熱っぽく語る真喜志は、七月に入り山が始まると、自らも紙粘土で竜馬の人形の制作に取りかかった。絵の具を塗り込んだり、布切れで服を作ったりと本格的。「追い山の日、朝焼けの中、竜馬が走っているのを見たら震えますよ」 夜十時をすぎたころ、真喜志の町内で取締を務める大柄な瀧田明彦(37)が「おい真喜志、山につきよるや」と話し掛けてきた。そして、右肩をぐいっと前に出す。尊敬する先輩のそれを真喜志は緊張しながら触る。ぼこっとした感触。「舁きこぶたい。おまえもどんどん舁けよ」。明彦は、にかっと笑う。真喜志のモチベーションが高まった。 追い山ならしで真喜志は、舁き縄を何度も何度も水にひたして山に向かっていった。「表を何度も舁きました」。その締め込みに刺さっている舁き縄は、ぼろぼろにささくれていた。 (敬称略) (社会部・永松幸治) ◇ ●げなばい 山笠神事があるとき、舁き山の実動部隊・赤手拭(あかてのごい)たちは町内を回り町総代や取締に「もーろーろー」と声を掛ける。「準備ができました。もうどうぞお越しを」という意味で、博多弁でこれがなまって「もーろーろー」になった。東流では十二日の追い山ならし、十五日の追い山のときに声を掛ける。
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男たちの声が町筋に響き渡る。博多祇園山笠(やまかさ)。沿道では、勢(きお)い水を掛けようと、町のオイシャンやおばちゃんたちがホースや青いバケツを持って待ち構えている。「来たよ、来たよ」。皆が笑顔。 博多の町を沸騰させてきた祭りも、十五日明け方、フィナーレ「追い山」を迎える。 × × 締め込みに差し込んだ舁(か)き縄を引き抜く。そして高く掲げる。舁き手の中に「今から入るじぇ」という合図。駆け抜ける一トンの山に近づき、さっと縄を舁き棒に掛ける。右肩を入れ、腰を入れる。「山は腰で舁くと」。体が一連の動きを覚えている。オイサーッ! 西流(ながれ)、七十三歳の岩崎進は、今も山を舁く。若いころは、飽きるほど舁いた。肩にできる舁きこぶの皮が破れても、舁いた。祭りの終盤になると、進や友人たちの水法被の肩には、よく血がにじんでいた。 さすがに今は、長くは舁けない。十三日の集団山見せでは七秒間だけ。それでも参加する。足を傷めても、お汐井(しおい)取りでは往復六キロを走り、流舁きでも山についた。舁き終わったその肩は熱をもっている。体が動く限りは、山を舁く背中を若手や子どもたちに見せてやりたい。 進は中学生のとき、山を舁けなかった。戦争があった。 × ×
昭和二十(一九四五)年、三年生。六月十九日、蒸し暑い夜だった。上空にB29が現れ、焼夷(しょうい)弾が降ってきた。福岡市の奈良屋、冷泉、大浜校区など、博多部は焼け野原となった。 進は防火用水に飛び込み生き延びた。しかし、母、姉、妹、祖父母、それに小中学校時代の級友二十人以上を一夜にして亡くした。兄も、大陸で戦死した。 この年、山が止まった。 資材が焼失し、何より生きるのに必死だった。しかし博多の人々は、そんな状況だからこそ気持ちを一つにして町を復興するために山を舁こう、と思い立った。父の利造もリーダーシップをとった。皆で山笠復興に取り組んだ。 各流の意見を調整しようにも電話がない。連絡役として、腹をすかせた中学生の進が、バラックが建ち始めたがれきの町を自転車で回った。「明日食うもんがなかとに、何が山笠か」。何度も追い返された。ゼロ歳児から参加した山笠を舁きたい。あきらめず、走り回った。 戦後三年目、山は再び動きだした。まだ混乱期。水法被は浴衣を切って代用した。 × ×
「もう二度と山ば止めとうない」 山は教育の場でもある。長幼の序など、受け継いでもらいたい博多山笠の心がある。 集団山見せのとき。舁き手に勢い水を掛ける「水当番」を担当した西流の中学一年優史(13)は、バケツを持って走りながら、舁き山について走る進の姿を目にした。 「すごかったです」。優史は記者に、水当番を任された喜びよりも、進のことを報告した。この夏、MサイズからLサイズに新調した白い水法被。左の二の腕に着けた水当番の腕章を外すと、そこの布地には、腕章の水色が勢い水でにじんでいた。 × × 博多には、受け継がれていく山がある。 (敬称略) (社会部・田篭良太) ◇ ●げなばい 博多祇園山笠は、15日午前4時59分、「ドーン」という太鼓の音とともにクライマックス「追い山」を迎える。今年の一番山笠は西流。「櫛田(神社)入り」して境内の清道旗を回るといったん止まり、「博多祝い唄」を合唱。再び舁き出して街に飛び出す。それから順に千代流、恵比須流、土居流、大黒流、東流、中洲流が舁き入れ、最後に飾り山笠・上川端通が櫛田入りを披露。街に出ると、東長寺、承天寺門前の清道旗を回り、決勝点の廻(まわ)り止(どめ)を目指す。全長約5キロ。
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■14日23時 福岡市中央区の学習塾。受験勉強のため山笠に出るかどうか迷っていた南区の高宮中3年、勝木浩平(15)が出る決心をし、長法被姿で博多区の東流(ながれ)の詰め所に向かう。 ■の中、「櫛田(神社)入り」で舁(か)き山の棒につく男たちを決める「棒組み」が始まる。千代中2年の岡本瞬(14)は、目を充血させ「だんだん鳥肌がたってきました」。 ■0時50分 博多区のマンション。追い山に向け早朝走り込みをしていた大黒流の博多中3年、松永太郎邦継(14)が起床。「追い山の日は目が自然と開きます」。父と締め込みを締め合う。体重は1キロ落とした。 ■3時2分 博多中の校務員室に泊まり込んでいた田口輝男教頭(50)が通りに響く「もーろーろ(もうどうぞお越しを)」の声で目覚める。櫛田神社(博多区)の祇園宮を訪れ、生徒たちが山を通して一歩大人になることを祈願。締め込みを何度も洗濯した甲斐(かい)あって股(また)ずれはしなかった。 ■4時59分 一番山笠・西流が櫛田入り。後を追って各流が順に櫛田入りを披露していく。三番山笠・恵比須流。博多中3年の木村康平(14)と小磯享平(14)の大博(たいはく)町は櫛田入りできない「加勢町(かせいちょう)」。「いつか櫛田入りを舁きたい」 ■5時7分 博多区の国体道路沿道では、小6まで中洲流で山に出ていた博多中3年廣松沙代子(15)が山を待つ。「こんな参加方法もある」と、バケツを持って、勢(きお)い水を男たちに浴びせかける。 ■5時25分 博多区須崎問屋街の廻(まわ)り止(どめ)(追い山決勝点)に西流のタイムが掲げられる。25分58秒。男たちはたけだけしい叫び声を上げ、抱き合って男泣きする。 ■5時35分 博多区の旧西町筋沿道。土居流に初参加した博多中3年山口誠大(14)の晴れ姿に、傷めた足を引きずって出てきた祖母が歓声を送る。 ■5時40分 博多区の大博通りで東流の博多中3年坂本孝文(14)が、かっと目を見開き、舁き棒につく。顔をゆがめながらも力強く走る。 ■5時42分 廻り止。恵比須流の福教大付属中3年武田將揮(14)は目標タイムを達成し、雄たけびを上げる。 ■5時57分 廻り止近くの沿道で大黒流の島モモコ(15)が、喪中のため直会(なおらい)の準備は手伝わず、声援を送る。 ■6時9分 博多区冷泉町の西流の山小屋近く。舁き山に男たちがよじのぼり、縁起物の飾りの奪い合いが始まる。博多中1年の森下優史(13)は、若手として詰め所前で下働きに精を出す。 ■6時15分 博多区上呉服町の東流詰め所。博多中に昨年転校してきた東流の津島彩乃(14)が、貝汁を運ぶなどごりょんさんの手伝いに励む。 ■9時37分 博多中の校門前。教員に迎えられて、生徒たちが登校してくる。どの生徒も自分の山が一番よかったと主張する。「徹夜です」と疲れた表情をつくる孝文に、田口教頭が「気合入れろ!ヤー!」。孝文は校舎に向かって「オイサ、オイサ」と走り出す。 ■9時47分 博多中近くの路地で大黒流の山小屋が解体され、舁き山の飾り人形がトラックで運びだされる。青い空に真っ白な雲が映え、本格的な夏の訪れを告げる。強烈な日差しを照り返す校庭に、せみ時雨が降る。 (敬称略) =おわり |
オイサ、オイサ、オイサッ! 山は勇壮に、速く、力強く、次々と博多総鎮守・櫛田神社になだれ込んでいく。そして神社を飛び出し、白々と夜が明けた博多の街を疾走する。心を一つにして山を舁く男たちの姿が美しい。 そうしてこの夏も、博多祇園山笠(やまかさ)は「追い山」で終わった。 × × 私たち(田篭、永松)は、祭りが始まる前の五月上旬から約二カ月間、山笠の街の中学生たちに接してきた。山のぼせの彼らの目は、驚くほど生き生きしていた。同時に、地域の人々が、山と街のこれからを担う中学生たちに、厳しくも温かなまなざしを注いでいることに気づかされた。 博多祇園山笠は、一二四一年に博多で疫病がはやったため、承天寺の開祖・聖一国師が町衆の担ぐ施餓(せが)鬼棚(きだな)に乗って甘露水をまき、病魔退散を祈願したのが起源と伝えられる。戦後の食料難の時代にも、博多の人々は気持ちを一つにして困難に立ち向かおうと山を舁いた。 「けがと締め込みは自分持ちじぇ」。自己責任が基本の山笠だが、見放すのとは違う。私たちも締め込みをし、山を運営する町の集合体・流(ながれ)の中に入れてもらったが、皆、互いの身の安全に神経質なほど気を配っていた。 山の神事が終われば直会(なおらい)でけが人の有無が確認される。該当者がいなくても、危険への対処法が再度、丁寧に説明される。 何度も何度も、しつこいくらいに繰り返される身の安全は、一人一人の命の大切さを一年に一度、あらためて確認し合っているように思えた。 「山の子らは人の命を奪うなんてことも、自分の命を投げ出すなんてこともできんよ」。オイシャンやごりょんさんは胸を張ってそう言う。 × × 山笠の世界は子どもを大事にする。「子どもたちは宝じぇ」。何度も聞いた言葉だ。神事の後、子どもたちにはお菓子が配られる。「命を支える食」というかたちで、子どもたちへの愛情が示されているのかもしれない。 子どもが山に出るために、親も学校も早退を認める博多。命の重さ、さらにはタテ社会、一心同体となる地域のすばらしさを、山笠という生きた教育現場で学ばせている。 小学生までは見守られる立場だった子どもたちも、中学に上がる、年下や新人の安全を確保する役を任せられる。守られる側から守る側へ。命へのかかわり方が変わり、他人の命にも自分の命にも責任を持ち始める。 伝統七百六十三年。山笠は、大人への通過儀礼としての機能を現代でもしっかりと果たしている。 × × 私たちの取材に応じてくれた中学生の皆さん、山への参加を快く受け入れてくださった山笠関係者の皆さん、そして博多の皆さん、ありがとうございました。 |
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