1
芽を出し花咲か
祭り育てた2人の男<
11
不浄の立て板
「正直、嫌でしたよ」
2
秀吉に復興重ね
はだしの子供山走る
12
NPO法人
新しい街づくりの風
3
緊張の4時59分
櫛田入りを刻み50年
13
「讃合会」
酒好きの助っ人集団
4
法被姿で復旧作業
一致団結の気概示す年
14
芦別健夏山笠
北の大地走る兄弟山
5
シンデレラ飾り山
伝統破り、人形多彩に
15
子供山笠
ずっと笑顔見たくて
6
集団山見せ
観光の顔も背負って
16
追善山
博多の心受け継いで
7
走る飾り山
執念で伸縮式を考案
8
町界町名整理
流をつないだ保存会
9
博多人形師
執念で伸縮式を考案
10
ハワイ遠征
締め込み姿で走った
<1>芽を出し花咲かせ
祭り育てた2人の男
2004.06.11掲載
1949(昭和24)年の大黒流役員(前列右から4番目が落石さん)。後ろには立派な舁き山が =落石みどりさん提供
一枚の写真がある。「一番山笠 大黒流」と墨書された招き板を脇に、意匠豊かな当番法被姿の男たちが舁(か)き山の前で鎮座している。時は一九四九(昭和二十四)年七月十二日、場所は今の福岡市博多区古門戸町。三百万人もの観光客を集める博多祇園山笠が戦後、がれきの中から再出発する草創期の一ページだ。
この年の四月八日、博多総鎮守の櫛田神社(博多区上川端町)で伝統の継承を目的に「博多祇園山笠振興期成会」が結成された。初代会長に就任したのは料亭経営者の落石栄吉さん(故人)。「大黒流」の写真前列で招き旗を持つこの人なくして、山笠の歴史は語れない。
ちなみにこの年、大黒流は一番山として“櫛田入り”。しかし「清道を回るか回らぬうちに二、三名のハダカあんちゃん連が台上によじ登り台飾りをもぎとる不意打ち」(博多祇園山笠史談・落石さん著)に遭い、飾りなしの舁き山で走ったという。戦後混乱期の荒々しいエネルギーを感じさせるエピソードだ。
× ×
落石さんは、博多山笠の復興に奔走する。流(舁き山を運営する町の集合体)の新規参入を促し、山笠の製作に助成金を出資。観光客誘致の宣伝活動にも力を入れるなど、今の活動の基礎を作った。
「毎朝、博多に関する新聞記事を赤ペンで囲んでスクラップしてました」と孫のみどりさん(55)が言うように、とにかく研究熱心。「新しいもの好きで、いいなと思ったらすぐ実行する人」で、どこかで見てきたのか、突然、七色のネオンで光る噴水を自分の料亭につくり始めたり「しょっちゅう大工さんが店にいた」記憶があるという。
五四(昭和二十九)年には国の無形文化財に。それがきっかけで五五年に発足した「博多祇園山笠振興会」の会長になった。毎日、足しげく櫛田神社に通い、学童スケッチ大会や県外への宣伝隊派遣などの新規事業を軌道に乗せた。「正しいと思ったら、立場に関係なくきっちり物申す」(みどりさん)という率直さで振興会を率いた。
× ×
“山笠男”の愛称で親しまれた落石さん。「もうあたしも年ですケン、ここらで次の人にバトンを渡したいと思うとります」と、五八(昭和三十三)年に当時、県議だった井上吉左衛門さん(故人)に会長職を譲った。井上さんはその後二十六年に渡り会長を務め、博多山笠を日本一の祭りに育て上げた。
関係者には今も「(山笠は)落石さんが芽を出させ、井上さんが花を咲かせ実らせた」という言葉が伝わる。井上さんの息子で、自らも五代目会長を務めた振興会顧問の雅実さん(68)は「すぐ手を上げる怖いおやじだった。が、各流の力が強かったあの時代、猛者たちを四半世紀に渡ってまとめてきたのはすごい」と話す。
落石さんは博多の郷土史家として七冊の編著作と百冊を超えるスクラップを残し、七十九歳で生涯を閉じた。「もう少し話を聞いてあげればよかったかな」と語る孫のみどりさんは今、奈良屋まちづくり協議会の会長。「博多のために」という落石さんの心意気をしっかり受け継いでいる。
<2>秀吉に復興重ね
はだしの子供山走る
2004.06.12掲載
「右肩一番棒の台下にいるのが私です。こんな写真、よう残っとったですなあ」
古ぼけたモノクロ写真に、豆粒のように写る約六十年前の自分を指さしながら、看板屋を営む田中作典さん(69)は驚いた。はだしに水法被姿の子どもたちが、がれきの中から元気よく山を舁(か)いている。「オイサ、オイサ」の掛け声が聞こえてきそうだ。
× ×
標題は「みんなの博多、みんなで復興」。焼け跡の町中に、飛び出す子供山笠 =1946(昭和21)年
写真は、西日本新聞社に保管されていた。一九四六(昭和二十一)年五月二十五日、奈良屋国民学校(現博多小)の校区内であった「第一次博多復興祭」の光景だ。戦後初めて山笠(やま)が動いた瞬間だった。
標題は「みんなの博多、みんなで復興」。戦災住宅の住民らでつくる「奈良屋校区復興住宅組合」が主催した。校区に電灯が復旧したことなどを祝福して「学校からの出し物」(田中さん)の形で参加したという。
台飾りは、ベニヤ板に描いた太閤(豊臣)秀吉。戦乱で荒廃した博多を、町割りして復興させた英雄に再びあやかろうとしたのだろう。この秀吉を先輩人形師と描いたのが、博多人形師の置鮎(おきあい)琢磨さん(75)=粕屋町=だった。
「戦後博多復興史」(落石栄吉著)には、市都市計画課の計らいで、道路に散乱していたがれきが回収されたことが記されている。
「だから、はだしで駆け回れたわけですたい。走ったコースは、校庭から正門を出て『奥小路』『萱堂(かやどう)』と呼ばれた町付近まで。みんな腹が減っとったから、時間は三十分くらいやったと思う」と田中さん。
子供山笠は、二年後の四八年に“櫛田入り”を果たす。一度は消滅したが、後継者育成のために七一年に大黒流内の寿通で復活して以来、現在は博多小と千代小、新天町の三本が元気に舁き回る。
「娯楽のない時代やったから、みんなでやろうと盛り上がり、何も考えんで舁いた。たったそれだけの素朴な体験が山笠の歴史に刻み込まれとるんやから、光栄なことです」
田中さんは、写真の中に、焦土の博多で育った半世紀前以上前の記憶を探していた。
(次回は十六日に掲載します)
<3>緊張の4時59分
櫛田入りを刻み50年
2004.06.16掲載
乾燥を防ぐ桐箱から取り出した銀色の懐中時計は、ずしりと重かった。七月十五日の追い山では今年も、この時計が午前四時五十九分になった瞬間、大太鼓が鳴り、「櫛田入り」がスタートする。時計の持ち主は福岡市博多区住吉で時計店を営む幸田昭男さん(77)。「おやじの時代からやけん、もう半世紀は使うとります」というから、博多祇園山笠振興会の歴史と重なる。
× ×
2003年の櫛田入りの時間をチェックする幸田昭男さん(下)と三男の守生さん。舁き山と時計に鋭い視線をおくる =田畑正喜さん提供
「歯車が摩耗せんよう、期間中しか使わんとです」。幸田さんがゼンマイを回して時計を動かすのは、山笠がスタートする七月一日からだ。
追い山で時計が使われたのは、日露戦争時の一九〇五(明治三十八)年から。ばらばらだった櫛田入りの時間を五分間隔にするためだった。以来、幸田家が櫛田神社境内の一段高い太鼓台で「計時(けいじ)係」を務めてきた。今年でちょうど一世紀。「わが家にとっても節目の年ですたい」
祖父が船具店から独立し、今の中洲五丁目に時計店を構えたのが一八八七(明治二十)年。周りには黒田家おかかえの時計店が一軒あっただけという。当初は、船舶時計を使っていたそうだ。
振興会が発足する少し前から、昭男さんも父龍(りょう)之助さんの手伝いを始めた。父が懐中時計、昭男さんはストップウオッチを持った。「振興会ができたのを機会に、タイムもきちんと計ろうということになったと思う」
今は、長男の哲生さん(49)と孫の宗一郎さん(19)が廻り止め(ゴール)を、三男の守生さん(41)がストップウオッチで櫛田入りのタイムを計測。昭男さんが懐中時計を握る。
大敵は「腹痛やトイレ」というわけで、自宅を出る午前二時半前にお茶をすするだけだ。
× ×
幸田さんが半世紀使っているスタート合図用の懐中時計
「三分前、三十秒前…五秒前」。実は本番で、マイクを通して流れるアナウンスは幸田さんの声だった。
その時、幸田さんは右手に懐中時計、左手はばちの先をつかんでいる。ばちの反対端は太鼓をたたく神職が握る。スタート合図の太鼓を、時間より早く鳴らさないようにするためだ。四、三、二、一…。四時五十九分の〇・五秒前、「押してやるように」して、ばちから手を離す。ドーン。ヤー。一番山の男衆が舁(か)き上げる。
二番山のスタートは五時五分。以後、五分ごとにこれを繰り返し、懐中時計が五時三十五分を指したとき、幸田さんの緊張が解ける。
<4>法被姿で復旧作業
一致団結の気概示す
2004.06.17掲載
砂糖袋から漏れた汁が汗と混ざってべっとり。強い夏の日差しで、肌はじりじり焼けるようだった。「あんまりの暑さに、川に飛び込んで水浴びばしました」
福岡市博多区上川端町でちょうちん屋を営む門田敏郎さん(72)は、半世紀前の復旧作業が忘れられない。
一九五三年六月末、西日本一帯を襲った大水害。博多湾に注ぐ那珂川でも下流の番托井堰(ばんたくいぜき)が決壊。堅粕など流域数百ヘクタールの田んぼが取水できず、田植えが危ぶまれた。。
× ×
決壊した番托井堰の復旧作業に汗を流す博多山笠各流の男たち =1953(昭和28)年7月
「米ができんかもしれんのに山笠はできん」
山笠開幕中の七月六日から流ごとに数十人が水法被と地下足袋姿でトラックに分乗し、奉仕活動に参加した。農家や受刑者とともに、砂糖袋などに川砂や泥を入れ、決壊個所まで運んで積んだ。
「山の代わりに土のうば担ぎよるったい」。門田さんは、そんな冗談を仲間と言いながら汗を流した。地元の人たちにも喜ばれ、山笠とはひと味違う達成感があったという。
当時、近くで農業を営んでいた長沼元さん(84)=南区塩原=は法被姿の男たちを覚えていた。「田植えが遅れるほど収穫が減る。本当に助かりました」。井堰の復旧は追い山の二日前の十三日に終わった。この年は豊作。関係農家は櫛田神社に直径約一・二メートルの大鏡もちを奉納し、応援に感謝したという。
× ×
県内だけで二百五十九人が死んだ西日本大水害は、山笠に影響した。開催の是非をめぐって世論が割れた中、県災害対策本部は福岡市長を通じて「お祭り騒ぎどころではあるまい。自粛してほしい」と、博多祇園山笠振興会の前身、山笠振興期成会に舁(か)き山の中止を申し入れた。
当時の新聞にも、山笠開催に対する市民の批判が載せられている。「全国から温かい手が差し伸べられている時に地元でどんちゃん騒ぎをやるのは非常識」「祭りをする暇があったら災害地復旧のために奉仕作業にでも出かけたらいい」
七月七日の役員総会。期成会は六時間の議論の末、結論を出す。七回の舁き山行事を三回にするなどの“自粛山笠”だった。各流は、復旧作業の合間に山を舁いた。
あれから五十一年。山笠は一度も中止されていない。門田さんは語る。
「奉仕は純粋な気持ちやったが、復活したばかりの山笠を途切れさせてはならんとの思いもあった。やるときは一致団結。そんな山笠の気概も世間に示せたと思う」
<5>シンデレラ飾り山
伝統破り、人形多彩に
2004.06.18掲載
「なんなぁー。この山は」。飾り山を見た博多っ子は度肝を抜かれた。そして、ぐらぐらこいた(すごく怒った)。
「西洋の人形やら飾ってから。神事ば違(たが)えとる」「こりぁ山やのうて広告塔ばい」 一九五四(昭和二十九)年七月。新天町の飾り山にシンデレラ姫が登場すると、山笠の伝統を破ったと論争が起きた。
階段を駆け降り、金の馬車に急ぐシンデレラは華麗なドレス姿。ニューファッションと西洋童話の世界は、前代未聞の飾り山だった。
× ×
シンデレラを登場させて、物議を醸した新天町の飾り山=1954(昭和29)年7月、新天町提供
博多祇園山笠振興期成会の面々も怒った。会長の故落石栄吉さんは「神事に外国ものを持ってくるとはもってのほか。そんなもんは盆か歳末売り出しにすればよい」
新天町も負けてはいない。伝統を守れとの声には「新しさ、鋭さこそが山笠をさらに発展させる」と応じ、外国ものとの批判には「西遊記やら中国の伝説は山笠になっとる。それも外国でっしょうもん」と反論した。
そんな論争を鮮明に覚えているのが当時の新天町宣伝部長、下澤轍(わだち)さん(95)だった。
そもそも戦後、櫛田神社の氏子ではない新天町が飾り山を建てたことからして面白くない伝統派。「やかましゅう言われましたばってん、ことごとにはね返して…」と下澤さん。「(那珂川の向こうの)新天町に山が建てば、お櫛田さんの“境内”もそれだけ広うなる」とも言い返した。
福博の話題をさらう飾り山を、是が非でも建てようと意気込んだ店主ら。それには理由があった。
× ×
山笠の二カ月前、新天町は大火に見舞われていた。二十店が焼け、靴店の一歳の女の子が焼死した。翌日から早速、仮店舗の建設に乗り出した店主らはバラックを建てて商売を再開。六月には復興大売り出しをした。
山笠でも「復興」を話題性豊かにアピールしようと、大胆な人形を考えた。シンデレラの飾り山はこうして誕生した。
そんな論争を知る人はもう少ない。
“山笠男”の故落石さんとやり合った下澤さんだが、その後はお互いの博多への思いに共鳴し、仲良くなった。「葬儀では弔辞ば読ませてもらいました」
今年の新天町の飾り山は、大河ドラマで人気の新選組と子供番組の「空とぶヒヨコ」。福博の街には今年も、親子連れで楽しめるアニメや童話を題材にした飾り山があちこちにお目見えする。
そう考えると、新天町の“シンデレラ”は、飾り山を多彩にするきっかけになったといえそうだ。
<6>集団山見せ
観光の顔も背負って
2004.06.22掲載
新旧七十種類もの法被柄を収めたパネルを見つめながら、博多祇園山笠振興会相談役の石橋清助さん(79)は静かに語り出した。
忘れもしない一九六二(昭和三十七)年七月十三日。「舁(か)き山は那珂川を渡らない」との不文律を破り、博多部から福岡部へ舁き入れる「集団山見せ」が初めて行われた日だった。
「『川ば越えるわけにはいかん。うちは舁かん』と、長老たちに言われましてな。だから当日はこれまで通り、他流舁きばしました」
「市民の祭り」としてPRしたい福岡市が振興会に強く要請し、実現した集団山見せ。説得する振興会に「山は見せ物じゃなか」と唯一、最後まで抵抗して参加しなかったのが土居流だった。石橋さんは当時、舁き手をまとめる取締だった。
× ×
1962(昭和37)年7月13日、700年の伝統を破り初めて那珂川を渡って「福岡入り」する山笠 =西中島橋
集団山見せが最初に提案されたのは六月一日の振興会総会。「市のメーンストリートで舁き山パレードを」との内容に、各流は反発する。
「山笠は奉納行事。パレードとはもってのほか」「舁き手が不足しとるのに、長い距離を舁く行事が加わったら肝心の追い山が寂れる」
石橋さんは、そんな反対論が渦巻いたことを覚えている。「やかましもんの年寄りたちが『本来の意味あいとは違うけん、行かんでもよかろうもん』と言いよりました」
この年は、博多を代表するもう一つの祭り「博多どんたく」が福岡市民の祭りとして再出発している。
東京都の常住人口が千万人を突破したのも同じ六二年のこと。「とかくこの世は無責任、こつこつやる奴はご苦労さん…」。植木等が主演した映画「ニッポン無責任時代」も公開された。高度成長期まっただ中、価値観や考え方が大きく変わろうとしていた。
石橋さんは「博多からも若者は東京や大阪に就職して、舁き手は少なくなっとった。祭り自体も『古くさい』と思われていたのと違うかな」と振り返った。
× ×
その三年後の六五年、土居流は市の町界町名整理事業のあおりなどで一度、解散する。そして、「保存会」を経て復活した六七年、集団山見せに正式参加した。「振興会に復活を認めてもらった、という意識も働いたかもしれませんなあ」と石橋さん。
純粋な奉納行事から、観光を取り込んだ祭りへ。山笠も時代の流れにほんろうされた。
今では海外にも遠征する舁き山。「みんな、よかれと思ってやってきた。意固地になったのも祭りへのこだわりがあったから。(集団山見せは)今じゃ、立派な山笠行事やしね」
<7>走る飾り山
執念で伸縮式を考案
2004.06.23掲載
故半田新一さん
ドーン。
最後の舁(か)き山・千代流が櫛田入りして三十分後。時ならぬ太鼓の音がとどろくと、見物客がどよめいた。
一九六四年七月十二日夕の追い山ならし。上川端通の飾り山が高さ十メートルの巨体をゆすり、櫛田神社を目指して発進したのだ。
山笠は、明治期まで高さ十メートル超の飾り付けた山を舁いていた。しかし、電線が架かったことで、高さ四・五メートルの舁き山と、据えて見物する飾り山に分離。飾り山が櫛田入りしたのは、実に半世紀ぶりだった。上川端商店街振興組合理事長の原公志さん(64)は当時、この飾り山を舁いた一人だった。
「観客の拍手が何十秒も途切れず、まぶたがジーンとなった。終わってからみんなで抱きおうて気勢ば上げました」
× ×
この櫛田入りの直前、台上から一人の男が叫んだ。「山、止めれ。鉢巻き取れ」。そして、一番山にしか許されていない「祝いめでた」を歌い出してしまった。故半田新一さん。「走る飾り山」生みの親である。
「突然、甲高い声で始めたもんやから、みんな続いてしもうた」。原さんは“おきて破り”を懐かしんだ。
半世紀ぶりの櫛田入りを前に「祝いめでた」をうたう半田新一さん(台上左)ら上川端通の男たち =1964(昭和39)年7月12日
なぜ飾り山を舁こうと思ったのか。半田さんは、こう言ったそうだ。「全国から観客が来(き)よろうが。少しでも昔の山に近いもんを再現せんといかん。みんなをあっと言わせちゃろうやないか」
ただ、十メートルの山をどうやって、高さ六・五メートルの商店街アーケードや電線の下をくぐらせるか。その最大の難問解決に、半田さんらが考案したのが伸縮式の飾り山だった。
鉄パイプの中に、山を支える四本の柱が入るようにし、柱を押し上げたところで、途中に空けた切り込みにかんぬきを通して高さを固定する仕組みだ。二、三年後には手巻きウインチを使った「昇降装置」に改良。七、八人がかりの作業が一人でできるようになった。
この装置、よっぽど気に入ったのだろう。半田さんはアルバムに張った現物写真に「極秘」「考案者・半田新一」と記していた。「誰もまねせんとに」と原さんがほほえんだ。地元ではいつしか、走る飾り山を「半田山」と呼んだ。
× ×
走る飾り山は六六年から追い山にも出た。今では七つの舁き山に続く「八番山」として定着。「白煙を吐くゴジラ」など、毎年ユニークな飾り山で櫛田入りし、追い山コースを含む一・五キロを電動式で伸縮しながら走っている。
半田さんは三年前に他界したが、上川端通はまだ、彼の夢を捨てていない。原さんが代弁した。
「いつの日か電線を地中化し、華やかな飾り山を追い山の全コースで舁きたか」
<8>町界町名整理
流をつないだ保存会
2004.06.24掲載
白水聖親さん
その日、博多から百九カ町が消えた。一九六六(昭和四十一)年二月一日。福岡市の町界町名整理事業により、博多部の百三十三町は二十四町に改組された。消えた町の多くは約四百年前、太閤(豊臣)秀吉の町割りで生まれた由緒ある町々だった。
その一つが土居町だった。だが、地元では「下土居町」や「中土居町」などの旧町名が通用する。これらの町で組織する土居流があるからだ。
「あのとき、『保存会』で舁(か)いとらんやったら、流は消えとったかも…」。当時、土居流保存会会長を務めた白水聖親さん(82)は、市松模様を染めた下土居町の長法被姿で振り返った。
× ×
山笠の流も町割りで生まれた。一つの流はそれぞれの通りに連なる両側の町々で構成するが、整理事業は通りを境に向かい合う町を別々の町に組み込み、土居流の町々も通りで分断された。
「土居町が消えれば流の意義も薄れる」。整理事業の前年、流の町総代(町内会長)らが集まって土居流の解散を決めた。これに反発したのが、白水さんら若手役員だった。「翌年の町名整理を理由に流ば解散するやら許されん」。町総代に解散の撤回を何度も求めたが、突っぱねられた。「舁き棒ば切って、流の町々で分ける話まであったとですよ」と白水さん。
少ない舁き手で櫛田入りする土居流保存会=1965(昭和40)年
山笠本番を目前に控えた六月下旬、流存続の望みを絶たれた若手役員は残念会を開く。酒を飲めば飲むほど悔しくなった面々は「やっぱ、おれたちだけで、山ば舁こうや」と意気投合した。土居流保存会が立ち上った。二カ月はかかる山笠の準備に残された日数は十日あまり。舁き山の飾りは、白水さんが勤めていた福岡銀行のマスコット人形に決め、親しかった総務部長に資金援助を頼んだ。
人形を山笠に飾ったのは流舁き前日の七月九日。この年の山笠の順番は既に決まっていたため、十三番の飾り山の後に「十四番山笠」として付け出された。
× ×
その年の一番山笠・呉服町流は翌六六年、解散した。町割り以来の伝統ある流だったが、舁き手不足に悩んでいたところに、町界町名整理が追い打ちをかけた。
この時期、舁き山の流の多くが町界町名整理の影響で流の区域や流内の町の再編成に揺れた。保存会で参加していた土居流は六七年、流を復活させる。現在の舁き山七流はこうして出発した。
「うちの流だけやない。みんな『町』がのうなる悔しさの中で知恵を出し、流をなんとか存続させた。なぜかって?。山笠のあるけんたい」。白水さんが胸を張った。
<9>博多人形師
新しもん好きやけん
2004.06.25掲載
博多人形師・亀田均さんの仕事場。「新選組」をテーマにした人形が完成を待つ
近藤勇、土方歳三、沖田総司…ぎょろっと見開いた目、生々しい口元。今にも話し始めそうだ。
「精巧な博多人形と違い、山笠人形は多少寸法がバラバラでも、下から見上げたときの迫力を重視しとります」
福岡市南区柳河内の博多人形師、亀田均さん(56)は今、山笠人形の制作に追われている。飾り山のテーマは新選組。深い緑の羽織と金襴(きんらん)の袴(はかま)は博多織だ。「山笠なんで少し派手に。時代考証はしてますよ」
中学卒業後、魚屋の兄を頼り長崎から博多へ転居。名人と呼ばれた故・小島与一氏(一八八六―一九七〇)の作品に出合う。「もう弟子はとらん」と言われながらも通い続け、弟子入りした。
五年半住み込んだが、交わした言葉は「はい」「ありがとうございます」「すみません」だけ。朝五時から夜十一時まで働き、小遣いは月五百円。「うどん食べて映画見たら終わり。『仕事を覚えるのに金はいらん』という人だった」
× ×
小さな人形まで竹ひごで作る山笠人形の世界で、新素材の導入に亀田さんは前向きだ。「いい作品をつくるのが人形師の仕事やけん。そのためなら何でもするったい」。そんな中、出合ったのが断熱材やクッションに使われるウレタン樹脂だ。「竹ひごより二割くらい軽い。これならいろんな使い方ができる」。それからは仏像の彫り方を学んだり、京都まで映画で使う道具の加工法を見に行くなどして研究を重ねた。
だがある時、竹ひごにこだわる兄弟子と衝突した。「竹で駄馬をつくるより、新しい素材でいい馬作ったほうがいい」「なんか!」。怒鳴り合いのけんかでさんざんののしられた。「でも別の兄弟子がウレタン樹脂の馬を見て『よかねえ。おれの弟子に作り方を教えてやってくれ』と。うれしかったなあ」。亀田さんは振り返る。
× ×
無類の祭り好き。九四年七月七日未明、制作した新天町の飾り山が焼失するという前代未聞の出来事があったときは、動転し気を失ったという。「小さな祭りにも出たことがない人の仕業。あの活気と楽しさを知っていればできないはず」
七百六十年あまりの伝統をもつ博多山笠。毎年、山を作っては壊すという繰り返しが、新たな技や材料の導入を可能にした。「博多っ子は新しもん好き。それで出来が悪ければぼろくそやけど、よければいいんです」
<10>ハワイ遠征
締め込み姿で走った
2004.06.29掲載
ホノルル・ワイキキの大通りで山を舁く七流の男たち =1980(昭和55)年9月
「エキサイティング!」「オー、セクシー」
ヤシ並木が続くハワイのワイキキ。締め込み、水法被姿の男たちが山を舁(か)き始めると、沿道を埋めた約十万人が拍手を浴びせた。
一九八〇年九月、博多山笠は、七百年以上の歴史の中で初めて海を渡り、ハワイ最大の祭り「アロハ・ウイーク・フェスティバル」に参加した。
四・五キロのコースのうち、大半は車輪を付けて押す取り決めだった。が、山が動きだすと男たちの血がたぎった。「ハワイまで来て、ちんたらやっとられるか」。約束をほごにして、ほぼ全コースを舁いてしまった。近くの運河からくんできた海水を勢い水にした。
ハワイっ子の人気を独占した博多祇園山笠は、出場した百団体の中で「最優秀賞」に選ばれた。
× ×
この遠征は、福岡青年会議所(JC)理事長で大黒流の故・冬至洋一さんの発案だった。JCは博多祇園山笠振興会に協力を要請、県や企業に寄付を募るなど走り回ったが、何より難航したのが現地での事前交渉だった。当時、JC側の実行委員長で、交渉の現場責任者だった古賀秀策さん(64)が振り返る。
「パンツの上から締め込みをしてほしい、と注文されましてね」。「お尻が露出してセクシー過ぎる」からだった。このとき、古賀さんは「遠征が頓挫するかもしれない」と青ざめた。もし、これを了承すれば、「パンツやらはいて出られるもんか」と舁き手たちが反発するのが分かっていたからだ。ふと、古賀さんの脳裏に、現地入りして見物したハワイ統治者の「カメハメハ大王」の銅像が浮かんだ。そして、切り返した。
「カメハメハだってふんどしではないか」
この一言で相手が軟化、最終的に理解を得たという。
難題はまだあった。植物検疫で、舁き縄がひっかかることが分かったのだ。これは、縄を薫蒸することで切り抜けた。神事に必要な榊(さかき)も検疫対象だったが、当時の故亀井光知事の荷物に忍ばせて持ち込んでもらった。
× ×
遠征を機に、福岡県とハワイ州は八一年に姉妹県(州)協定を締結。八八年にはニュージーランドとオーストラリアに遠征した。もはや山笠は、国際親善、交流のイベントに欠かせない存在となっている。
ハワイに参加した波多江五朗・振興会副会長は言う。「海外遠征のノウハウができ、自信になった。日本を代表するお祭りだと、舁き手の意識も変わってきたと思う」
振興会は今年九月、五十周年の記念事業として中国・上海市で三度目の海外遠征をする。さて、どんな反響があるのだろうか。
<11>不浄の立て板
「正直、嫌でしたよ」
2004.06.30掲載
昨年の山笠から全廃された「不浄の者立入るべからず」の立て板
「今年から立て板を廃止したい」。昨年六月の博多祇園山笠振興会総会。後藤久義会長(72)が各流の総務や山笠委員に諮ると、「異議なし」の声が上がった。この瞬間、長年のしきたりはあっさりと消えた。
立て板には「不浄の者立入るべからず」と墨書されていた。一部の流(町)が慣習として詰め所などに掲げていたが、以前から「不浄とは生理のある女性を指しているのではないか」と、廃止を求める声が振興会にも寄せられていた。
一九八七年には西日本新聞の紙面で論争も起きた。当時の故樋口武之助振興会長は、こう述べている。
「女性が詰め所に出入りしたっちゃ、だれも不浄の者とは思っとらん。不浄という言葉で詰め所の神聖さを表しとる。差別しとる訳じゃなか」
それから十六年。二十一世紀に入り、男女共同参画社会の機運も踏まえて同振興会は決断した。
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大黒流の元取締の門田明寛さん(42)はその四年前、自らの判断で町の詰め所から立て板を外していた。舁(か)き手たちをまとめる取締になった年だった。
詰め所には直会(なおらい)の準備でごりょんさん(奥さん)たちが出入りしている。勢い水を浴びた法被を洗濯するのも、山笠期間中に家業を取り仕切るのもごりょんさんだ。博多部以外で育った人もいる。
「女性の協力があって山が動く。こちらがそう思ってなくても、不浄という言葉に心を痛めるごりょんさんがいたら失礼だ」
門田さんは、立て板が消えても、山笠の伝統や本質は決して失われないと思っている。
一方で、立て板廃止に割り切れない思いの人もいる。山笠の男たちは両親などの喪中の年には祭りへの参加を遠慮して、詰め所にも出入りしない。また、山舁きの最中に負傷して出血することを極度に嫌う。
「舁き手らはこげなタブーを守りながら、神聖な山笠に精進しとる。不浄の者の立て板はそんな心構えの表現。一方的に女性差別に結びつけてほしくなかった」。ある流の取締(36)は打ち明けた。
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振興会はそんな心意気も承知のうえで、立て板廃止に踏み切った。
「誤解を与える表現である以上、改めた方がいい。明治期に舁き山と飾り山を分離したように山笠は形を変えながら、伝統を守ってきた。時代に合わない慣習は廃止し、誰からも素晴らしいと思われる祭りにしなくては」。これが後藤会長の考え方だ。
では、女性はどう受け止めているのか―。博多ごりょんさん・女性の会の西川ともゑ会長(57)が笑って言った。
「しきたりやから黙っとりましたけど、女が不浄とみられているようで正直、嫌でしたよ。(立て板廃止で)裏方のごりょんさんの協力が男の人たちに公に認められた気持ち。今まで以上に張り切って山を支えますけんね」
<12>NPO法人
新しい街づくりの風
2004.07.01掲載
今年で3回目になる「追い山」コースの説明会。博多の歴史も分かると人気だ
追い山の進路は福岡市博多区の大博通で大きくヘアピンカーブし、その先で一回転する。東長寺と承天寺に清道旗が立っているからだ。
「櫛田神社は神仏混交の時代、東長寺の管理下にありました」
「承天寺の開祖である聖一国師の疫病退散の祈祷(きとう)が山笠の起こりとされています。だからその恩顧に清道を回るとです」
六月六日、博多祇園山笠の追い山コース(約五キロ)に沿って、当番法被姿の男たちが約百六十人の市民を案内していた。沿道には約十五の社寺がたたずむ。旧東町・西町筋には古い街並みも残り、昔の祭りを想像させてくれる。
案内役は、特定非営利活動法人(NPO法人)「博多の風」。「山笠と博多部を深く知ってもらえば、もっと街が面白くなる」。そんな思いで三年前から「探訪・追い山コース」を企画してきた。
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博多の風は各流の舁(か)き手らの「正会員」(約六十人)と、博多部以外の人による「賛助会員」で構成する。一九九八年九月から清掃活動や小中学生を対象にした作文コンテストなどをしてきたが、各流の独自性を重んじる山笠にあっては、新しい試みだった。
理事長を務める大庭宗一さん(53)は十八歳で土居流の赤手拭(てのご)いになって以来、取締を二十五年、総代を八年務めた山笠男だ。赤手拭いのころは、舁き山の鼻取りの名人などオーラを放つ先輩が何人もいたという。
「あこがれて人は育つ。常に若手を見て勇気を与えること」。大庭さんが山笠を通じて学んだ人生哲学だった。
しかし、都市の空洞化や再開発のあおりで、祭りを動かす地元住民が減少するばかり。山笠は、地区外の市民の理解がないと成り立たなくなっている。
「流に属する人は、そこしか知らないというのも山笠組織の一面。これからは、他の流や博多部以外の人とも山笠を分かち合うことで、お互いが博多もんの文化を再認識していけたらと思う。それが博多の街づくりにつながる」。そんな延長線に、博多の風の活動を重ねる。
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「この不況の時代、『山ば舁きますけん』と二週間も休むのは難しい。休むにはそれだけの信頼、信用が求められるとです」と厳しい。
昨年、父が亡くなったため今年は喪に服して山笠には参加できない。
「山を離れて、初めて冷静に見えてくる部分がたくさんある。来年に生かしますけん」
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<13>「讃合会」
酒好きの助っ人集団
2004.07.02掲載
祈願祭後の直会で酒を酌み交わす讃合会の吉弘七平会長(左)たち =1日午後、櫛田神社
「いよいよ本番ですな」「待ちに待った日が来ましたなあ」
「山」と「賛」の漢字入りのおそろいの法被を着た男たち約五十人が一日、櫛田神社の境内に集まってきた。この日の祈願祭から博多祇園山笠讃合(さんごう)会の山笠も本格化する。
祈願後は、祭りの無事を願う直会(なおらい)。「法被姿で飲む酒はうまさが違う。山笠好きの仲間に囲まれて気分がよかですたい」。吉弘七平会長(80)は満面の笑みだった。
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祭りの助っ人として、奉仕活動を続ける讃合会の歴史は長い。発足は一九五一年。戦時中に博多を離れたり、年をとったりして山を舁(か)かなくなった男たちがつくった。
中心は初代会長を務めた故・安松定一さん。戦前は住吉上人参町(現博多駅前四丁目)から各流を舁いて加勢、戦後に山笠が復興すると、追い山見たさに櫛田神社に駆けつけた。
「昔は神社前に角打ちがありましてなあ。追い山の後も、山を舁かなくなった男が集まって『あの流の清道回りは良くなかった』とか、何時間も山笠談義をしよったもんですたい」。まだ会員でなかった吉弘さんは、同じ町内に住んでいた安松さんに連れられてよく通った。
山好きの飲んべえが口実をつけて山の話をしながら飲む―最初はそんな集まりだった。
角打ち仲間を母体に「山笠を支援し、讃(たた)え合いたい」と名付けられた讃合会。発足時の入会条件は「山笠が好き」であることに加え、「酒を三合以上飲めること」だったそうだ。実際は「一升瓶を一人で空けるほどの大酒飲みばかりだった」(吉弘さん)というから、「讃合」には「酒三合」もかけられていたのかもしれない。
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発足当時、櫛田流から山笠に出ていた吉弘さんは六三年ごろ、讃合会に入った。櫛田流が解散し、自らも東区に転居したころだった。「山の時期になると、気もそぞろになった」からだ。
讃合会が本格的に裏方役を担い始めたのは、吉弘さんが会長に就任した八八年ごろから。舁き手が足りなかった八番山・上川端通を応援し、七月九日の全流のお汐(しお)井取りで、酒やジュースを振る舞い始めた。山笠とかかわるうちに「もっと貢献したい」と考えるようになったという。
数人でスタートした会は現在約百二十人。今はいろんなタイプの山笠好きが集まるようになった。ただ、七十五歳まで追い山に飛び入り参加して山を舁いた吉弘さんの思いは入会当初から変わらない。
「裏方と思ったことはない。好きなことをやりよるから主役みたいなもん。楽しくなけりゃ、長続きはせんですたい」
追い山が終わってもまた、ねぎらい酒を酌み交わす直会が待っている。
<14>芦別健夏山笠
北の大地走る兄弟山
2004.07.03掲載
博多山笠にそっくりな、北海道芦別市の健夏山笠。本家も“公認”している
その“山笠”には発泡スチロールの人形が飾られていた。一九八九年夏、北海道芦別市。博多祇園山笠・大黒流の元取締春口栄治さん(62)は、北の大地を走る山笠に熱いものがこみ上げてきた。
話はその四年前にさかのぼる。「夏祭りで山笠をやりたいのですが」。知人を介して春口さんに突然、芦別の関係者から電話があった。
内心、春口さんは「マネするやら、とても無理」と思ったが、山笠のガイドブックや観光土産の法被などを送り、以後も電話や手紙で山笠のしくみを伝えた。
芦別の人たちが山笠を知ったのは、全国放送されたNHKの特集番組だった。その舞台は偶然にも、春口さんが所属する大黒流の下新川端町だった。「何かの縁やな」。春口さんは自らの町に芦別の“山笠留学生”を受け入れた。
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北国の山笠は「芦別健夏(けんか)山笠」。「赤手拭(のご)い」「取締」などの組織から水法被に締め込みの山舁(か)きスタイルまで博多とそっくりの山笠(やま)は、石炭産業の斜陽化で活気を失ったヤマの街・芦別に元気を吹き込んだ。
年々“山笠らしく”なっていく健夏山笠。春口さんは親友の博多人形師、亀田均さん(56)を芦別に紹介した。そして、九二年、博多山笠を手掛ける亀田さんの人形が健夏山笠に飾られた。
が、これがちょっとした問題になる。
「博多の山笠が北海道に出たとはなしてか」。人形を据え付ける亀田さんがテレビに映り、博多祇園山笠振興会で一部から異論が出たのだ。
ちょうど山笠期間中、芦別の関係者が慌てて博多に飛んできた。春口さんも呼び出されて櫛田神社で振興会役員と顔を合わせた。
張りつめた空気…。当時の井上雅実振興会長が切り出した。「芦別のことは前会長から聞いとります。手一本入れます」。健夏山笠は“兄弟”として認められた。
粋な計らいに、春口さんも胸をなでおろす。そして九六年、芦別を訪ねた振興会役員は「追い山」で、一緒に「祝いめでた」をうたい、「手一本」で締めた。
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今年六月に開かれた同振興会の創立五十周年式典。会場には林政志・芦別市長らの姿があった。健夏山笠の当番法被姿の市長は感激して言った。「式典に招かれ、博多から名実ともに公認された気持ちです。おかげで地域も活気づきました」
初訪問から十五年来、芦別で山を舁いてきた春口さんも同じ気持ちだった。流は「北大黒流」。春口さんは今年も博多の追い山の翌日、北に飛ぶ。十七日が健夏山笠の追い山だからだ。
<15>子供山笠
ずっと笑顔見たくて
2004.07.06掲載
河原由明さん
水法被に締め込み姿の小学生が、黄色い声で「オイサ、オイサ」と舁(か)き回る。二日、福岡市博多区奈良屋町の博多小グラウンド。今年も子供山笠「博多流」の流舁きが始まった。
懸命に大人をまねようとする子どもたちに、代表世話人の河原由明さん(71)は目を細めた。「子供もね、すぐ山のぼせになるとですよ」
大黒流で一番山総務を経験した河原さんは、博多流の生みの親だ。きっかけは一九七一年、旧奈良屋小であった旧奈良屋国民学校出身者の同窓会だった。
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その同窓会。東京から帰郷した友人が河原さんに語りかけた。「あの光景を思い出すと胸が熱くなるなあ」。四六(昭和二十一)年の「第一次博多復興祭」で舁かれた子供山のことだ。
寿通商店街で行われていたころの子供山笠。子供たちの顔は生き生きとしている=1974(昭和49)年の試し舁き
旧制中学二年だった河原さんもカーキ色の布かばんを提げ、焼け跡を子供山に伴走した。
つい一年前の福岡大空襲(六月十九日)。周辺で唯一残った校舎は、死体の安置所となった。むせ返るにおいの中、何十体もの死体を並べた。友達も何人も死んだ。あの壮絶な光景を知る河原さんらにとって、復興祭の子供山は、解放感と希望に満ちた鮮烈な思い出だった。
それから二十五年後の同窓会。東京で働く友人は、山笠に古里の郷愁を重ねていた。河原さんは決めた。
「博多を出た人のために、大人になったときのために、子供山を復活させないかん」
直後、手弁当で動き出した。山大工に相談しながら妻の嘉子さん(63)と山笠台を手作りした。日程表を張り出すと、百三十人の子どもたちが集まった。博多流の前身、寿通子供山笠が誕生した。
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子どもの世界にご祝儀はない。資金難にやめようかと思ったが、子どもたちに「おいしゃん、今年もすると?」と尋ねられて「するくさ」と答えた。「およげ! たいやきくん」が流行した時代、レコード店から宣伝用の看板をもらって台飾りにしたことも懐かしい。
統廃合で消えた奈良屋小、下川端東地区再開発による寿通商店街の消滅…。存続の危機は博多小に拠点を移すなどして乗り越え現在、三百人を数える。「今じゃ、親子二代の教え子も多かとです」
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河原さんは四年前、首の頚椎(けいつい)を痛めて車いす生活になった。子供山があるからひきこもらなくて済んだという。
部屋を訪ねると、踏み場がないほどスナック菓子が入った袋が山積みされていた。占めて三百五十人分。参加した子どもたち全員に配るという。
「女房と二日がかりで入れ終えました。子どもの喜ぶ顔を目に浮かべるとやめられんとです」
こんなおいしゃんがいるから、大人になっても山から離れられなくなる。
<16>追善山
博多の心受け継いで
2004.07.07掲載
集団山見せで、一番山の台上りを務めた故松井喜久雄さん(中央) =1988年7月13日
アルバムには「わが生涯最良の日」と記されていた。写真の真ん中には台上がりをした松井喜久雄さん。両隣には、当時の桑原敬一福岡市長と山崎広太郎同市議会議長(現福岡市長)が座っているが、松井さんがいちばん堂々とみえる。
一九八八(昭和六十三)年七月十三日。「集団山見せ」で一番山の棒さばきを務めた還暦前の晴れ姿だ。「親子二代で一番山の総務ばした」のが何よりの自慢だった。
山笠が終わったばかりの昨年八月、松井さんは逝った。生粋の博多っ子で山のぼせ。棺の中でも山笠の正装の当番法被姿だった。「おれがしまえたら『祝いめでた』で送っちゃれ」。出棺の時、東流の男たちの祝い歌が流れた。
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その男たちがまた、山を舁(か)いて松井さん宅に「祝いめでた」を歌いにくる。亡くなった流の功労者をしのび、感謝の手を合わせる「追善山」だ。舁き山から弔問を受けるのは博多っ子にとってこのうえない名誉。遺族は自宅前に祭壇を作り、故人が愛用した法被や遺影を飾る。
松井さんの追善山では、家業の工務店を継いだおいの喜久治さん(45)や町の人が趣向を凝らした出し物を考えている。
名付けて「松井喜久雄おいさん追善山のバックアップメニュー」。自宅前の駐車場で、ありし日の写真と「おいさん語録」をパネル展示し、「博多カッチリ節」「ドンガラガン」など五曲の博多の唄(うた)を流す。
その、おいさん語録。
「貴様たちゃ だらくさん(だらしのない)ことばしやんな!」(よう怒られました…東流幹部)
「山笠(やま)じゃ めしは食われんとじぇ」(どれだけ自覚していたことやら…小学校の同級生)
「贅沢(ぜいたく)はしてよかばってん 無駄ばしやんな」(生きた金ば使えということです…喜久治さん)
「たまごとあなごと おなご(女性)が一番好いと―」(解説はいりません…女性従業員)
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松井さんは博多に関する八冊の著書を残した。その一冊「東流の歩み」には、焦土の中から再出発した流の足跡と戦後の世相史がつづられており、今年で創立五十周年を迎えた博多祇園山笠振興会の歩みとも重なる。
昨年五月に入院した松井さん。山笠に参加できずに沈んでいたら、喜久治さんの小学生の息子たちが山舁き姿で見舞いに来た。
「手一本ば入れるじぇ」。松井さんの掛け声で「よー、シャン、シャン」。病室に響いた。その二日後からこん睡状態に。七十四年の人生を手一本で締めくくった。
追善山は七月十一日。最後の「祝いめでた」をおいしゃんにささげて、博多と山笠の心が受け継がれていく。
(おわり)
(この連載は手嶋秀剛、野村創、飯田崇雄が担当しました)
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