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博多と一つになれた 新潟出身記者 山笠取材体験記 厳しい伝統 最後に感じた心地よさ
「山笠があるけん博多タイ!」。期間中、三番山笠・恵比須流の綱場町から行事や追い山に参加させてもらって、この言葉の意味が氷解できた気がする。 スタートは六月一日、恵比須流の棒洗いだった。今でこそ行事の意味や位置づけは理解できるが、役職などの専門用語や旧町名などが飛び交う会話に、不安でいっぱいになった。 「そんことなら〇〇町の××さんが知っとるけん、聞いちゃらんね」。そんな言葉に何度助けられたことか。本紙・都市圏版で十六回にわたって連載した「疾走半世紀―博多祇園山笠振興会」は、そんな気さくな“おいしゃん”たちの回想で戦後の山笠の歴史をひもとくことができた。 「相談なしに福岡部で飾り山を建て、振興会と対立」(新天町)「批判されながらも、発泡ウレタンで新しい山笠人形作りを」(博多人形師・亀田均さん)。連載に取り上げたエピソードの一部だが、山笠の伝統は、新しいもの好きの博多っ子の精神が支えていた。 山笠の運営の現場は命令系統が確立した完全なタテ社会。年配者はともかく、若者は拒否反応があるのではと思ったが、逆にある種の安心感を抱いているようにもみえた。人生の先輩であるお年寄りを立て、経験者に怒鳴られながら人間関係や舁(か)き方のテクニックを学びとる。今の時代、山笠参加者にだけに与えられた特権なのかもしれない。 「追い山」では、記者が参加した恵比須流は目標タイムの三十一分台をマーク。ゴールとなる「廻り止め」は喜びの雄たけびを上げる男たちで埋まった。この心地よさは何だろう。日本人のDNAにあるものが引き出されたのだろうか。 「また来年、会おうや」と、肩をたたかれた。記者も博多という街と一体になれた気がした。 (地域報道センター・飯田崇雄) |
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| 2004/07/16付 朝刊 |
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博多山笠振興会50年=追い山 勇壮、華麗 山笠フィナーレ 90万人歓声
星空が広がった同日午前二時前。七流(ながれ)の舁き山は見物客と夜店でにぎわう櫛田神社前の土居通りに次々と集まった。舁き手たちの顔に緊張感がみなぎる。出走十分前、一番山笠・西流が「櫛田入り」の山留め(スタート位置)に着くと、観衆から拍手と声援が沸き起こり、熱気は最高潮に。 午前四時五十九分。太鼓の音と同時に、西流の舁き山は境内の清道旗をめがけて突進した。半周後、桟敷席の客らと「祝いめでた」を大合唱し、砂煙を巻き上げながら一気に街に飛び出した。その後、五分おきに各流が出走。勇壮な舁き山が空の白み始めた博多の街を疾駆すると、沿道からは「がんばれ」の声と勢い水が浴びせかけられた。 |
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| 2004/07/15付 朝刊 |
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博多山笠振興会50年=オイサ 福博に熱 集団山見せ
舁き山が、博多部から那珂川を越えて福岡部に入るのはこの日だけ。午後三時半、同市博多区の呉服町交差点を出発した一番山笠・西流は、勢い水を浴びながら、見物客が埋め尽くす約一・三キロのコースを十五分ほどで中央区天神の福岡市役所まで駆け抜けた。 福岡市は同日、最高気温三四・三度を記録。今年三番目の猛暑の中で、舁き手たちは沿道に用意されたバケツの水を頭からかぶっていた。 |
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| 2004/07/14付 朝刊 |